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『酒類の終日提供停止』が繰り返されるメカニズムを考えてみた

本日は、バーでのひとり飲みを心から愛する私から見ると、感染拡大防止効果の根拠も乏しく、愚策としか思えない『酒類の終日提供停止』が、当然のように繰り返されてしまうメカニズムを考察します。

劇薬に一度手を出すと、以降の運用がカジュアルになっていく典型であり、公正と信用を重んじる官僚組織にとって、「前例がある」「効果の検証が難しい」「対策やっている感が出せる」施策が、組織を守り、威厳を保つためにいかに都合のよい打ち手になるか、がわかり易い事例だと思います。

自分を棚に上げて状況を批判したいわけではなく、組織と個人がはまってしまいがちな話だと思って考えてみます。

感染症の収束は集団免疫しかない

行政機関や、医療専門者は、とっくにわかっている筈です。新型コロナウイルス感染症の脅威を取り除く為には、世界中が「集団免疫」という状態になるまで耐えるしかない、ことを。

Q:集団免疫とは何ですか。
A:人口の一定割合以上の人が免疫を持つと、感染患者が出ても、他の人に感染しにくくなることで、感染症が流行しなくなる状態のことです。

感染症は、病原体(ウイルスや細菌など)が、その病原体に対する免疫を持たない人に感染することで、流行します。ある病原体に対して、人口の一定割合以上の人が免疫を持つと、感染患者が出ても、他の人に感染しにくくなることで、感染症が流行しなくなり、間接的に免疫を持たない人も感染から守られます。この状態を集団免疫と言い、社会全体が感染症から守られることになります。
なお、感染症の種類によって、集団免疫を得るために必要な免疫を持つ人の割合は異なります。また、ワクチンによっては、接種で重症化を防ぐ効果があっても感染を防ぐ効果が乏しく、どれだけ多くの人に接種しても集団免疫の効果が得られないこともあります。
新型コロナワクチンによって、集団免疫の効果があるかどうかは分かっておらず、分かるまでには、時間を要すると考えられています。
ー 厚生労働省HPより抜粋

つまり、人類の一定数の間にこのウイルスが行き渡って集団免疫が達成された状態にするしか不安を解消する手段はなく、その過程で一定数の犠牲が出るのは仕方がない、と理解します。これは、過去の歴史でも証明されていて、感染症パンデミックが起こった場合、人類が直面し、受け容れるしかない現実なのだろうと思います。

新型コロナウイルスは感染力こそ強いものの、感染・発症しても死に至る率はこれまでにパンデミックを引き起こした感染症ほどは高くない=病原性は弱い、という特徴もわかっています。

とはいえ、確率は低くとも重症化リスクがあり、死に至らしめるパワーを秘めているのであれば、為政者は「一定数の犠牲者・感染者が出るのは仕方がない」と正論を主張して、放置できるはずがありません。

そこで、感染予防対策と行動制限を促して感染拡大を封じ込めて時間を稼いでいる内に、ウイルスの解析を急いで対抗ワクチンを開発し、罹患した患者の治療方法も確立する、という長期戦覚悟の解決策が採択されました。私は、妥当な判断だと思っています。

個人でできる感染防止に効果的な対策情報の啓蒙、ワクチン接種の奨励、感染者の隔離・回復治療を施す養護・医療体制の拡充(抵抗勢力もあってなかなか進んでいない気もしますが)など、行政は、市民の命を守り、社会的混乱をミニマイズするための施策を打ってきました。

対策本部長である菅首相は、まん延防止対策の本命は「ワクチン接種」と言い切りました。集団免疫状態の早期達成に向けて、抗体保有者を人工的に増やし、収束時期を短縮するという公衆衛生の基本に沿った方策と考えるべきでしょう。今は、国民の大部分にワクチン接種が行き渡るまでの過渡期なのだろうと思います。

「新規感染者数は最早重要ではない」と言えない辛さ

私の感覚では、緊急事態宣言やまん延防止等重点措置は、当初こそ「大雨特別警報」くらいだったのが、現在では「大雨注意報」くらいの重みでしか捉えられていません。

人々に行動制限を促すロックダウン的な施策は、危機感が醸成されていて、かつ短期間ならば効果的に実施できても、これだけの長い間だらだらと継続されてしまうと、最早打ち手として機能しないだろうことは、行政側もわかっていると思います。

新規感染者数の多寡によって、打ち手を講じるのはもう止めた方がいい時期だと思います。新規感染者数を指標にする限り、この騒動はずっとループします。新型コロナウイルスを完全撲滅することは不可能だし、仮にできるとしても、そのことに人類の資源を費やすことが社会的コストに見合わない筈なのです。

● 重症者数、死亡者数は抑えられている、
● 高齢者や基礎疾患のある方々の重症化リスクや脅威は軽減されている、
● ワクチン接種者が確実に増えている、
● 罹患者の治療方法は確立しつつあり、医療体制は整えてある、
● 正しく怖れるための情報提供を迅速に行う、
といったプラス側のメッセージを強めに発信して、過剰な不安・呪縛・抑圧を解消する方が重要なステージだと私は思っています。

なかなか言いづらい空気感ではあるものの、「”新型コロナウイルス感染症は風邪”という状態を実現することが目標」と、はっきり言い切るべきだと考えています。

不作為は許されない…… という構造的問題

多くの真面目な人にとって、「何もやっていない!」「働いてない!」って批判されたり、存在意義を否定されたりするのは辛いものです。

人々の支持を集めたい、社会貢献したい、と考えている首長、公僕意識のある公務員、にとって、身を置く組織が「無為無策」「税金泥棒」と批判されることは耐えられず、不作為ではいられません。世間の評判と威厳は、行政組織が守るべき大切な看板です。「何かやらないといけない……」と考えること、意識することは、至極真っ当だと理解します。

かくして、何かをやっている、やっている感を出す、為の行動を探します。でももう既に、正しいこと、有効と思えること、は十分にやり尽くしている感があります。効果待ちの施策(ワクチン接種)もあります。不作為を選択することが最善手である、と柔軟に考えるべきでしょう。

なのに、更にもっと有効な何かをやらねば、という呪縛から、何かをやろうと選択肢を探してしまいます。そうなると上位にくるのは、
● 既にやった実績がある(一度お墨付きを得ている)
● なんか効果がありそうに見える
● あとあと責任問題にならなさそう
な施策です。『酒類の終日提供停止』はこの条件を備えた最適な施策です。

飲酒行為、酒類製品の製造・流通・販売が法的に禁じられていない中、飲食店に店舗での酒類提供の終日停止措置を要請するというのは、憲法で認められている営業自由の権利をまあまあ侵害しているように思うのです。

でも、この施策はこれまでに何度も実行されていて、禊は終わってしまっています。既に責任の所在は曖昧で、抵抗感は薄くなっています。抗議の声は、ノイズ程度に薄められ、抑え込まれています。逆に「なぜ、やらないのか?」と後押しする声もあります。

そして、『酒類の終日提供停止』をやったことで、どの程度の感染予防に繋がったのか、どの程度の抑制効果があったのかを定量的に検証することは困難です。だから都合がよくて、定性的に「効果があった」と言えてしまう。責任追及を受けるのが怖い人たちにとって、ものすごく都合がいいのです。

以上が、効果の検証もなく『酒類の終日提供停止』が何度も何度もカジュアルに繰り返されてしまうメカニズムだと想像しています。

飲食店に集中的に皺を寄せ続けることはおかしい、正しくない、と思っている執行者や担当者はおそらくいます。しかしながら、「でもやるしかない」「他もやっているから」が通用してしまうので、止められないのでしょう。

程度は違うと批判を受けそうですが、神風特攻も、おそらく似たような構造で決定され続けたと想像しています。日常化すると人の命を犠牲にすることですら、感覚が麻痺してしまうのです。麻薬は一度でも手を出したらアウトなのだと改めて思い知りました。なかなかに恐ろしい話です。

新たな展開なのか? デルタ株

私は、新型コロナウイルス感染症に対しては、終始楽観論寄りの立場です。しかしながら、従来株に対して感染力が格段に強いと言われ、警鐘を鳴らす声が増えてきているデルタ株の脅威の度合いについては、私自身が現時点で情報収集不足で判断ができません。

感染した場合の重症化度合いが強い、現在のワクチンでは感染予防ができない、といった心配な報道も耳にしました。多方面から情報を集めて、フラットな目で見極めが必要です。本件の自分のモットーである「正しく怖れる」の立場を堅持したいと思います。

決して甘く見ている訳ではない

変容し続けることは、強者に対する弱者の基本戦術です。戦争でも、強大な正規軍に対して、弱小のゲリラ集団の攻撃がいかに効果的で、しぶとく、強かったという証明事例が多数あります。

ベトナム戦争では、ゲリラ軍兵士の執拗な繰り返し攻撃によって、装備も戦力も強大な米軍兵士の体力と精神力が、じわじわと奪われていったと言われています。

新型コロナウイルスは、人類に対しては、おそらく弱者ですが、着実に社会生活を蝕ばんで、分断を加速させており、強敵なのは間違いなさそうです。


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