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共感、弱さ、やさしさの過剰とその揺り戻しについて

私自身はどちらかといえば「共感、弱さ、やさしさ」の大切さを語る側にいるが、最近「共感、弱さ、やさしさ」の過剰に対するある種の警鐘のような論調を見かけるようになったので、その重要性が一定の市民権を(少なくとも限局的には)得られるようになったのだな、と感じる。

たとえばこの記事では、安易に個人的な傷つきを社会問題化することの是非について問いを投げかけている。

この本も面白かった。人間の認知的なバイアスゆえに、共感に基づく意思決定がいかに全体として非合理的でありうるかを論じている。共感を前提に行動することで、顔が見える一人を救いながら、多くの顔が見えない人たちを犠牲にしているかもしれないということだ。


「権力、強さ、お金」の過剰が苦しいように、「共感、弱さ、やさしさ」の過剰もやはり苦しいものだと思う。

例えば、私たちの会社の理念は「やさしさでつながる社会をつくる」だ。「お金でつながりすぎた社会」へのアンチテーゼとして「やさしさでつながる社会」を目指しているけれど、100%やさしさでしかつながらない社会は、常に想像力を求められ、不確実性に耐えねばならず、それはそれでとても息苦しいに違いない。

「権力、強さ、お金」の過剰からの揺り戻しは、「共感、弱さ、やさしさ」の至上主義に至るべきではない。これまではやや強引にやさしさ側にベクトルを変えていくフェーズにあったものが、少しずつ解像度を上げて精査する必要があるフェーズに入ってきているのではないか。

こうした「空気」の変化を見るにつけ、誰かの主張は常に社会の空気との相対的なものであって、それを絶対的な主張と受け取って受容する、あるいは反発するのは危険でもあるということにも気づかされる。

例えば「反共感論」読んで、「やはり共感なんて重視するべきじゃない」というのはおかしな話だ。この論は、共感至上主義への警鐘としての文脈を抜きには語れない。でも、世の中の議論は往往にしてそんな風に文脈あるいは「空気」を抜きにして争われている。

その二者の間で揺れ動いた末の着地点は人によって異なるはずだし、そもそも着地なんかすることなく、揺れ動き続けるものなのかもしれない。ひとりひとりが、自分はどこに立つのかを問い続けなければいけない。

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スタートアップ x カウンセリング/コーチング。 京都大(教育)→ゴールドマン・サックス(株式アナリスト) →cotree代表取締役。Soarの理事も。Twitterもぜひ@marisakura
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