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祖母とのお別れ

令和元年8月、母方の祖母が亡くなった。
祖父が他界し20年、施設に入って4年。じわじわと認知症が進み、いつまでも施設でのんびり生きているような気がしていた祖母が、ついに98歳で大往生を迎えた。

祖母は私の物心ついた頃からずっと足が悪く、ほとんど歩かない生活をしていた。家の中では足を伸ばし座ったまま移動し、キッチンやトイレなど必要に迫られた時に、曲げられない膝をかばいながら立ちあがる。私にとって祖母はずっと弱者で、人の手がないと生活できないおばあちゃんだった。

大人にとっては、めちゃくちゃ頑固で気が強い人だった。

競馬を見ながらお酒を飲んで酔っ払う祖父を一喝していたし、一人娘である母への指示はYES・NOはっきり言っていた。孫の私にはとても優しく「おばあちゃんはまりちゃんに会えて幸せよ~」と口に出して褒め、可愛がってくれた。

家に帰るときには、玄関までズズズと移動して、今生の別れのように大げさに別れを惜しんでくれた。弱者でありお年寄りであるおばあちゃんとは、いつ最後のお別れかわからないから、私も大げさにしんみりして手を振った。

そこから何年経っただろうか。

毎年、おばあちゃんの誕生日近くになると、集まって食事をしていた。だいたい家族の集まりでは、結婚しないのとか面倒な話題になる中、おばあちゃんの誕生日会だけは「こうして集まれて幸せ」「おじいちゃんが戦争に行ってくれたから、いまこうして生活できている」と、感謝に溢れたイベントだった。「毎日お散歩に行って、たくさん歩いて、元気よ~」と、私の手をとりバレバレのウソをついて見栄を張るおばあちゃん。私は「そう、いっぱい歩くんだね」と、鵜呑みにする孫を演じていた。

祖母が施設に入ってからは、誕生日の集まりもなくなり、わざわざ会いに行くタイミングもなかった。どこの施設のどの部屋が「おばあちゃんの家」なのか、私は知らなかった。出産してやっと平成最後の夏に施設に行って、ひ孫を会わせることができた。

認知症が進んだおばあちゃんは、果たして、そのとき私が誰だか分かったのだろうか。

0歳の赤ちゃんを優しく見つめていた祖母。自分のひ孫と分かったのか、分からなかったのか、それを踏み込んで聞く勇気はなかった。あの大げさなお別れは、いつ、本当に最後のお別れだったのか。最後とはいつを指すのだろうか。

突然、理不尽に失われる命もある中、グラデーションのようにゆっくり衰えていった祖母は、幸せな最後を迎えたと思う。大正9年生まれで戦争を生き抜き、約100年の生涯だった。すっかり私も大人になったし、昭和・平成も終わった。

時は流れる。力強く生きていきたいと思う。



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