見出し画像

毛布#10『喪失と痛み、記憶について』

先日、宇多田ヒカルさんのインスタライブを見て呟いたツイートが思いがけず拡散された。

新しくフォローしてくださった方もいるかと思うので改めて自己紹介すると、私は都内で作家として活動している。作品を作り、ZINEと呼ばれる自主制作の本を発行したり、依頼を受けてイラストを描いたりして、その活動を始めてもうすぐ4年になる。

そのツイートはすぐに、リプライや引用リツイートでほとんど公開フォーラムのようになり、ものすごい勢いで呟かれる、いろんな人の反応を見ることができた。いわゆるバズったことも驚いたけど、どちらかというとその反応の多様さ、勢いに驚いた。
インスタの方にも書いたのだけど、宇多田ヒカルさんが別れと痛みについて語ったその内容は、その解釈だったり、受け止め方や、反応には本当にそれぞれいろんな見方があった。

例えば、「だから自分はあの時辛かったんだ」、というものだったり、あるいは「正直よくわからない」、など、本当に千差万別。
一定数は、「自分の痛みを埋めるために誰かを使っていた」というようなニュアンスで受け止め、少し後ろめたさを伴うような雰囲気を感じるツイートもあった。

そうした「痛み」についての無数の反応を集中的に見るという稀有な体験をさせてもらったが、見ているうちに、私もまた「痛み」ということについて書きたいと思った。

ツイートが拡散された後、迷ったが自分の詩集の複数ページをツリーにつなげた。
喪失をテーマにしたこの詩集は、この「痛み」にどこか呼応するものがあると思い、見た人の中には同じように、喪失と痛みを抱えている人もいるのではないかと思ったからだ。

『何か大切なものをなくしてそして立ち上がった頃の人へ』は、私が自分で本を作りたいとなってから初めて作った詩集だ。
初版発行は2016年の5月で、黄色い表紙と猫(猫です)が目印の、A〜Zで始まる詩で構成される、連作詩集ZINE。

「喪失をテーマにした」と書いたが、最初から頭で構成を考えてできたものというわけではない。
 最初は、特にテーマも決めず、アルファベットから始まる英詩とイラストを順番に描いてSNSにアップする、というような半ばルーティーンワークとして始めたものだった。
 だけど、続けていくうちに、恐らくこれには何かテーマがあるということに気がついた。

 何を書いても、悲しい詩になるのだった。別に悲しみに暮れているわけでもないのに。

 2016年にこの本を描いた頃、私は色々な別れを経験して、少し経った頃だった。

 本当に大事な人達や、大事な存在だった。普段は普通に暮らしていたけれど、どこかいつも悲しさがあり、たとえその瞬間が楽しくても、全て失われた後に幸せだった時代のホームビデオを巻き戻して見ているような感覚で、いつも過ごしていた。

 普通にしていても、街を歩いても、電車に乗っても、スーパーで買い物をしていても、デパ地下を歩いていても、何を見ても何かしらの思い出が詰まっていて、思い出爆弾のように、突如記憶があらゆる場所で炸裂する。そんな日々を淡々と生きていた。

 何を書いても悲しい詩になる、と思いながら、そのルーティーンを続けていくうちに、今書いているアルファベットの連作に、もしテーマがあるとするなら、これは恐らく、喪失の後の話なのだ、と気づいた。

 それに気づいてから、タイトルが決まった。
「何か大切なものをなくしてそして立ち上がった頃の人へ」。
 ZINEにしようとした時に、そのテーマにあわせて、いくつかの詩を再構成し、書き直し、イラストも描き直した。

 宇多田ヒカルさんのインスタライブを聴いた時にまず何よりも自分に湧きあがったのは、私にもこの感覚がある、ということだった。

「自分に元々あった痛みをその人が埋めてくれていた、だからその人が去った時にその痛みとまた向き合う時が来ることがある」というように聞いたとき、自分に浮かんだのはやはり別れた、大事だった人達のことだった。

 私にとっては、元々痛みがあって、その人達がリリーフエースで入ってくれたというよりは、どちらかというと、その人たちといる間、少なくとも私は痛みとは遠い所にいたというものだった。

 作品を作った直接のきっかけである祖母は、年の大きく離れた親友のようで、私は祖母のいる状況にくるまれて育った。それは祖母が痛み止めだったというよりは、その人といた時は、そもそも痛む必要のない世界にいられた、ということだったのだと思う。

 人は誰しも穴ぼこだらけでいびつな形をしているけれど、誰かといるときに湧き上がってくるもので、そのいびつな穴も満たされ、惑星の表面に水が張ったように、まん丸な円のようになる。
 それくらい私の毎日を何気なく満たしてくれていた人たちがいなくなったあと、自分の元のむき出しの地表が外気に晒されて、痛かった。

 だけど、そんな剥き身の時期を支えてくれたのも、やっぱりその人達の記憶だった。ある意味で、その人たちの記憶や、その人たちが残していった光の中で生活していたような感覚があった。

 詩集を作っていた当時、よくある『過去に囚われるな、前に進もう』というメッセージは、そりゃそうでしょうよと思いながらも、そうではないな、というのがわたしの現実であり、生々しい実感だった。

 記憶の中は温かい、ということにも気がついていた。誰かの思い出。誰かと一緒にいた時の記憶。むしろそれだけを毛布のようにして、焦る気持ちや不安、日々の現実を生きる自分を包み、何食わぬ顔で日々を暮らしていた。

 誰かが優しいひとであったり、優しくしてくれたり、そういう記憶は、私の「毛布」になってくれた。わたしは今この毛布の下で、尊厳をかけてこの傷を癒しているので、頼むから見ないでほしい。この記憶がなければ、到底やっていられない。そういう時期があった。

 そういう時間が、どれくらい続いていたのかはわからない。でもなんらかの形でそうした何か良いものをなくしてしまった人は、多いのではないかと思うことがあった。

 詩集は2016年5月のデザインフェスタで発表し、ありがたいことに多くの人に読んでもらっている。

 2017年の5月に鬼子母神神社で行われた「手創り市」に初めて出店した時、ブースに立ち寄ってくれたお客さんで、詩集を手に取って、それまで楽しそうに友人と談笑していたのに、何ページかめくっていきなり泣き出した女性がいた。

 通り雨みたいに涙を流して、その後はまた普通に笑顔で話し始めた。おそらくそれはわたしの文章や絵に動かされた、というより、おそらくはテーマ自体が彼女の記憶に触れたのだと思う。大事にとってある、いつまでも片付けられないでいる、誰かの遺品を置いた部屋のような場所に。
 木漏れ日どころか枝と枝の間から強烈な直射日光が降り注ぐ5月の境内で、楽しい時間をありがとう、といって、その女性と友人は去っていった。

 手探りで作ったZINEはありがたいことに広がっていき、2016年秋に、谷中にある本屋さん(ひるねこBOOKS)から展示のお誘いをいただいた。

 この展示は、『あなたがいつかそれを埋めてくれる前に』というタイトルにした。部屋の中でふと浮かんできた。詩集を作った後も、全然立ち直っていない。
 ただ、その頃私は、ようやく、少しずつ未来のことを楽しみに思うようになっていた。出会う人。新しいこと。服やメイクを取り替えること。髪を切ること。恐れを取り入れて、少しずつ自分を開くこと。そうしたことすべてが、新陳代謝というにはゆっくりすぎるスピードで、潮の満ち引きのように言ったり戻ったりしながら、少しずつ日々は前に流れていった。

 植物を買ったのはその頃のことだった。鉢植えを、生まれて初めて買った。ベランダに面した窓の近くに置いて、水をやる。
 水をやるのは楽しかった。水をやりながら、ふと、こうして、このようにして、私はきっと新しい生活を作っていけると思った。
 ようやく過去から光を分けてもらうのでなく、今ある時間の中から光を取り入れられることができるような気がした。
 あるいは、自分自身が少しだけ、光のようであってもいい。過去・記憶という毛布の下で、ようやく傷が癒えたのかもしれないと思った。

「恐らく、いつか、私だけでなく誰にでも、この虚しさを埋めてくれるような人が現れるだろう。それは人かもしれないし、モノかもしれない。でも、誰にでもその瞬間は訪れる。私も含めて、誰にでも。」

 そんな気がした。
 目の前には、買ってきたばかりの鉢植えがあった。

 私にもできる、と思った。誰かがこの虚しさを埋めてくれることはきっとあるだろう。だけど、その前に今は、自分でそれをやってみたい。虚しさと呼んでいたものに、自分で何かを植えてみたい。

 人生初の個展のタイトルとテーマがこのようにして決まった。

「あなたがいつか、それを埋めてくれる前に。私は自分で何かを植えてみようと思うよ。」

 誰かに埋めてもらうことは悪いことじゃない。ある時、「光あるうちに光の中を歩め」という、トルストイの小説を教えてもらった。誰かがいるうちは、誰かといる時間を味わえばいいのだと思う。

 2020年のこれを書いている今、そこからまたその時は思いもしなかった別れがいくつもあったのがなんとまあ人生よ、という感じだけど、今でも実感としては、私は誰かが残していってくれた世界の中で生きている。その中で絶えず日々は更新されていくけれど、誰かの記憶が溶け込んだ世界にいることは変わりない。そして相変わらず、でこぼこでいびつな表面は、幾重にも重なった、記憶の残光に満たされて、まん丸と満ちている。


イラスト詩集『何か大切なものをなくしてそして立ち上がった頃の人へ』

(写真は2019年に発行したリソグラフ特装版です)

画像1

画像2

画像3

扱っていただいている書店のSNSをリツイートなどでご案内していますので、ぜひご覧ください。

特装版は、出版社 ビーナイス に制作・販売協力していただいています。ビーナイスから、新作詩集『消えそうな光を抱えて歩き続ける人へ』を刊行準備中です。こちらもまたSNS等でお知らせしていきます。

印刷はリソグラフや活版印刷をいつもお世話になっている中野活版印刷店です。

この状況で本を届けてくださる書店の皆さま、配送業者の皆さま、本当にありがとうございます。

本の詳細、取扱店舗はウェブからご覧ください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?