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毛布#17 『夜、良い空気の匂いがする帰り道』

今回は(今回も?)いつにもましてのんびり毛布です。毛布、割とシリアスというかかためのトーンが多いように思うのですが、割と本人はのんびり暮らしているので、最近考えていることをつらつら書いてみようと思います。

私の近況

千葉に引っ越してきて、だいぶ落ち着いてきた。一番驚いたのが、匂いの違いだった。
駅からまたバスに乗って2、30分くらい。
バスを降りたら人もいないのでマスクを外すと、草木の匂いがする。
空気が良い匂いがする、というのが久しぶりの経験で、少し驚いてしまった。
虫の音を聴きながら、アップダウンのある緩やかな坂道を歩いて帰る。
空は広く、高い建造物がなくて、遠くには森や山が見える。
ほっとする。
そんな風に緩んでいく毎日を送っている。

緩んで家に帰ると、犬に吠えられる。
地獄の門番みたいなチワワを家族が飼っていて(妙にでかいので私はポメラニアンだと疑っている)、まだおうちのレギュラーになりきれていない私が帰宅すると、犬ソックが発動する。
でも別に噛まれたりはしないし、その犬最愛の家族が出かけてしまうと、こいつは準レギュラーだがしょうがないか……とばかりに吠えるのはやめて、甘えてくる。腹を撫でるように要請されるし、放置すると哀切に満ちた声で鳴き続ける。
愛情とおやつを執拗に求めてくるあたりが犬らしいなあと思う。

部屋のドアを開けると猫が入ってくる。
白い、洋猫の血が流れる不思議な佇まいの猫で、インスタに写真をあげたら複数の友人から似ているとメッセージが来た。私よりは家族の方に似ている。
猫はIQが高く、綺麗好きで、用を足した後にトイレのシーツを丸め込むのに静かな執念を燃やしている。取り替えられていないと、指摘するように一声だけ鳴く。クールな猫だ。絵のモデルにいいなといつも思うけど、気づけばいつもどこかにいってしまう。猫は愛情というよりは、適切なサービスはしっかりほしがる気がする(トイレシーツを替えろとか、新鮮な水を補給しろとか)。

あとはイタチと呼んでいるフェレットもいる。

犬と猫とイタチはお互いにたいして興味がなく、無関心不干渉を決め込んでいて、でも喧嘩することもなく共生している。愛の反対は無関心とは限らないなと、この毛玉達を見ていると思う。

そして私が持ち込んだジャングルみたいな観葉植物もあって、あとはニンゲンたちもいて、なんだか豊かな生態系ができあがっている。

お家に帰ると、水道水は浄水されてそのまま美味しくごくごく飲める。
嬉しい。水が美味しい地域で生まれ育つと、水が美味しいのはとても嬉しい。
お風呂は心地よく(十数年お風呂のない生活をしていたので)、「疲れが取れる粉を買ってきたよ」と連絡してエプソムソルトを買ってみたり、クナイプの小袋を買ってみたりした結果、結局きき湯が最強では?と落ち着いてみたりもしている。

今まではマンションのゴミ捨て場に捨てるだけだったけど、今は収集時間までに執念を燃やしてゴミ捨て場に出しにいく。
近くのスーパーに買い物に行ったり、夏の入道雲が浮かぶ空を見ながら自転車を漕いでいると、不思議な気持ちになる。
働きざかり、今は大事な時期、いろんな考えが浮かぶ。
時間が止まっているようで、全体的に流れているような。
大丈夫かいな、と不安にもなるけれど、一方で、体の緊張が緩み、体が喜んでいるのも感じる。
ここにいるのは半年くらいということにしているし、これから仕事が動き出したら、この今の暮らしは流石にまた変わっていくだろうと思う。

一時的にこうしてありがたい時間をすごさせてもらっていることに感謝しながら、小型ポメラニアンの腹を撫でつつ、次はどんなところに住もうかなと考えている。

次に住むのはどこになるだろう?

この体が喜ぶ感じや時間の流れかたはなかなか素晴らしいものだなと思う。
今まで東京を出ることはないだろうなと思っていたけれど、移住するのもいいなと思う。
現実的にはいろんな具体的な課題はあると思うけれど、また前と同じようにいられるだろうか。良い匂いのする空気を忘れて、また馴染んで生きていくのだろうか。

そんなことを考えていたら、先日会った人が、住んでいる地域の食の美味しさを話してくれて、聴き入ってしまった。
昔は私はあまり食べるということに興味がなかった。
食い意地は生まれつきはっているけど、味にあまりこだわりがないというか、味に意識を向けるということがなかったのだ。
ただ、人は変わるもので、美食家の友人の影響で、「味わう」ということを覚えてから、美味しいものを美味しいように食べたいというように執着が出てきた。

「三食美味しいって素晴らしいですよね」と言っていて、しみじみとそう感じた。
水が美味しいことの意味、三食美味しいことの意味、今ならわかる。
そして五感は連動していて、味覚が上がると、それは味覚だけに終わらないようだ。
歩いているときに風景が美しいことの意味、空気が良い匂いがすることの意味、聴こえる音に不快なものがないことがどれだけ素晴らしいか、それも今ならわかる。
よろこびはどこにでもあって、その気になれば取り出せるようになっているし、それを当たり前に取り出して良いんだなと思う。

たった東京から千葉に拠点が写っただけで、こんなにわかることがあるし、変わるんだなあと思う。(もちろん、「東京」と一括りにいうとあまりにも乱暴だ。東京の中にもこういう場所は絶対にたくさんあるのだと思う)
環境を変えてみるというのは素晴らしい。だけど、きっと今見ていることや感じていることには何かめぐり合わせのようにテーマがあるのかなという気もする。別になくても良いけれど、それでも次に住む場所を考えるときは、ここで感じている喜び抜きには考えられない気がするのだ。

山の中で水は磨かれる

そんな風に、日々良いなあと思うことが多いのだけど、今はじゃあそういう日々の感覚をすぐ作品にするというよりは、自分の世界の一部になるように、ゆっくり取り込んでいるような時期なのだと思う。
今はどこか、ちょっとぽっかりと空いて、どんどん動いていく感じというよりは、今は待ちの時期。
コロナで世界が一変(!)する前は、展示や滞在制作、いろんな計画があった。
それは私だけではないだろうし、今、フラストレーションと不安を溜めている人は多いと思う。

動かない状況。

だけど、山の中で水が磨かれていくように、動かない状況なら動かない状況で、自分の中に流れるものはその中で磨かれて、必然的にクリアになっていくような感じもするのだ。
またくる時が来たら、より純度が上がったニュー・ミーとして、より自由に柔軟に動いていけるときはくると思うから、焦らないで、美味しい水でも飲んで、犬に吠えられたりしながら穏やかに過ごしたいな、と思う。

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これも、動かない状況の中でやってみたものになるのかな?
インスタのご質問シリーズ。でもそういう策謀や意図があったわけではなくて、別の方のを見て面白そう!と思ってやってみたもの。
反応ないかなと思ったけど、質問がきてうれしく、すごく楽しみながら答えを書きました。なんだか良かったので、またやってみようかなと思います。
ストーリーズで見かけたら気軽になんでも送ってくださいね。


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