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毛布#16『私は十分救われている』と思った時のこと

つい先日、誕生日を迎えました。
お祝いのメッセージ、ありがとうございました!


インスタに長い日記を書いたけれど、そこでも少し触れた、誕生日前日に「私は十分救われている」とふと感じたことについて今回は書こうと思う。我ながら結構仰々しいことを投げっぱなしで書いてしまって、ちょっと気になっていた。それに、やっぱりあまり感じたことのない、不思議な感覚だったから、どういうことだったか書いてみようと思う。

誕生日前日の朝

「私は十分救われている」と感じたのは、誕生日前日の朝。
引っ越しやいろんなことで慌ただしく、気づけば明日はもう誕生日じゃないか…と、なんとなく起きて感じた日のことだった。
誕生日というものに対して、いろんな感覚の人がいると思うけれど、私は結構意識してしまう。
例えるなら、元旦くらい。別に誰かに祝ってもらいたい!とかそういうわけではなく、なんとなく節目のような感じがするので、節目らしく過ごしたくなる。
誕生日が来るのになんだか準備ができていないというのは、正月が来るのに何も片付いていない、という感覚に近い。(まあ実際の正月は毎年一切片付いていないのだけど…)

幸いその日は家にいられる日だったので、朝起きて、とりあえずノートに向かってみることにした。
最近慌ただしくて、なかなか腰を据えて頭の整理をすることができず、なんだか自分もとっ散らかったような、ばらばらになっているような感覚があった。

ノートに、これからどうしていきたいか、どうありたいか、どう生きてくか、そんなことを書いていった。そういうのを書くのは結構久しぶりで、いくつか短い言葉を書いたあと、イメージの赴くままにイラストを描いている時に、ふと「私はもう十分救われている」という言葉が浮かんだのだった。

「私は十分救われている」

自分でもあまり日常にない言葉がポンと出てきたので驚いた気持ちになった。

別に普段から「救済」を求めて生きているということもないし(さすがに)、今まで「救い」のない人生を送ってきたかというと、そんなわけでもない。普通に楽しげに生きてきている。

でもきっと、そういう言葉が浮かんだということは、過去、救いを必要とする気持ちや状態がどこか無意識にあったのかもしれない。
救われていない、救われたい、というような気持ちが。

この毛布を読んでくれている奇特な方は、ぜひ「私は十分救われている」と唱えてみて(ちょっと怪しいけど)、自分の内でどんな響きがするか感じてみてもらえたらと思う。

私のこの時の響きは、「願いは全部叶えられている」というのとも違うし、「これまでのことはすべて報われている」というのとも違う。

それは、願いが全部叶っていなくても、すべて報われてなどいなくても、十分に満たされていて、この瞬間、私は少なくとも、自分のまんまであることができているし、それはとても幸せだ、という感じが近い。

「自分が自分であること」が叶っている、というのは本当に幸せな実感が伴うのだと思った。自分がやっていることが好きで、自分がちょうどよい。もう、自分自分言わなくてもいいんじゃないかというくらい。もういいや、もう全部大丈夫、ありがとう、と思うくらい。

それは驚くほどに幸せな感覚で、とても穏やかで、体の中から余すところなく満たされている感じだった。

(なお、別に何か変なものを摂取していたとかそういうのではない。なんならコーヒーも間違えてデカフェにしたのでカフェインすら最近取っていない)

例えていうと、山が見える露天の温泉に浸かった時とか、美味しい焼肉を食べるひとくち目とか(ハラミ)、映画館がすうっと暗くなる一瞬とか、打った瞬間にホームランだとわかる打球を皆でわあっと眺めている時のような、あの永遠みたいな一瞬の感覚。

幸せというのは、人生の中であの瞬間が一番ピークだった、みたいなどこかに頂点があるわけではなくて、やろうと思えばいつでもやってくるのかもしれない、と思った。

“what is right for you/ あなたにとってrightなもの”

自分が自分であるという感覚って、どれくらい伝わるものだろう。どれくらいそれに意識を向けて生活している人がいるのかはよくわからない。私の感覚としては、充電器がうまく刺さったスマホのように、電気がうまく良い感じに供給されるような感じ。それを私は、「“right”な状態」と読んでいる。

(right、なんとも日本語にしづらい。「あなたにとってぴったりの良い人が見つかると良いね」と言う時に、そんな人を"Mr/Ms.Right"と言ったりするけど、ニュアンス的に一番近いのはそんな感じ。)

元気があるとなんでもできる、と言うけれど、私はrightであればなんでも良いんだと思っている。

では、どうすればrightな状態だと思えるかというと、そしてそのヒントは、前回の毛布・引っ越し大作戦編でも書いた、「自分にとってのときめき/違和感がビシっと正直にわかっていること」なのかもしれないと思う。

まだうんと若い、それこそ二十歳前後のころ、自分が「良い」と思うものを「選ぶ」ということは、それは罪だと思っていた。
人生は荒波であり、なんでも耐えしのび、打ち返すことで強くなることができ、人としても成長ができる。何故ならば私はこの状態のままではだめで、人は成長しなければならない。
自分が良いと思うものを選ぶ? 何をおこがましい。
そんな思考は、成長を阻む、罪だと。

簡単にいうとそんな思考回路だったあの頃の私にとって、自分を否定することは、ある意味で正しい行いだった。苦しくても、それは道徳的に「正しい」ことをしているような暗い喜びがあった。

今となっては「誰?」という感じだし、前世の記憶くらい遠いけれど、当時はそう思っていた。
当時の私も、まさか未来の自分に前世呼ばわりされているだなんて思わないだろう。ずいぶん冷淡だ。

その路線はあまりにもどうにもままならなくて、いつまでたってもどんなに頑張っても他人の捨てた服を着ているような感覚も長くあって、どんなにやっても、rightな感じにはならなかった。20代の多くの時間を、どうすれば生きやすく、息がしやすくなるだろうともがいて過ごしたような気がする。

もがいていたのだけど、本能というものは正直で、だんだん私の中で抑圧されてきたまつろわぬ私が先に暴れ始め、30歳前後、イギリス留学のあたりから、自分がイエス‼︎と言っているものを選んでいく、ということをし始めた。

大学院をサセックス大学にしたのも、ひとえにブライトンという自由な海沿いの街を愛してしまったからだし、大学院は明らかに他と違うラブな感じで肌に合いそうだったし、一生のうちに海が見える街に住めるなんて最高、と思ったからだった。もちろん思想や理念がしっくりきたというのもあるけれど、大学院のランクとか、将来のキャリアのことは正直二の次だったと思う(それは、「正しさ」を求める当時の私にとってはかなり珍しいことだった)。

人によって、自分が良い(right for me)と思うものを選んでいく、あるいはそうでないものを避ける、ということは、もっと当たり前に若い時からできることなのだと思う。

だけど私の場合は、それができるようになったのは30歳前後のことだった。
それから数年あまりが経ち、好きなように生きて好きなようにあれて、別に全部叶ってるわけじゃないけど、ノートを前に幸せに満たされるというのは不思議なことだ。
人にはタイミングがあるから、私の場合はこの時間の流れがright timeだったのだろう。

「救済」

今回の毛布を書くことにはためらいがあった。

7月18日。
誕生日で浮かれている私にも、とても悲しいニュースが届いた。何があったかはわからない。だけど、やりきれないような、無力な気持ちになる。

だからというのは違うかもしれないけれど、自分に起こった、千葉のある場所で、ある瞬間、一人の人間が「十分救われている」と本当に思ったことを書き残しておいてもいいんじゃないかと思った。そんなことが起こるのは、POSSIBLE - 可能なのだと。

誰にでもそんな時がやってくるかもしれない。そして、日常の中に、ある瞬間に幸せは確かに訪れる。そんな瞬間が増えていくような生き方を選んでもいい、誰だってそうしていい。

「あなたは幸せになっていい」し、自分自身をそこから除外する必要なんてない。

人にはいろんな事情がある。こうしたことが全く気休めにもならない時もあると思うし、ノイズにしかならない時もあると思う。

だけど、自分にできることとしては、こうして毛布や作品を作って、本当にそう思っていることだけを書き続けていくことなのかもしれないなと思う。

これに意味があるのだろうかと思っても、私以上に私を信じて、書き続けていくことなのだと思う。

言葉は不思議で、本当にそう思っていることにしか力は宿らない。だから、私は「あなたは幸せになっていい」と、本当に思っていようと思うし、そこから自分を除外もしない。生身の人間として日々を生きていようと思うし、それが作品の形になればいいと思う。

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