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「大人の家庭学習ノート」を始めてみる

秋田県秋田市で生まれ育った私は、小学校時代に「家庭学習ノート」という宿題が毎日課せられていた。家庭学習ノートがあることが当たり前のものとして育ってしまったので、何の違和感も持っていなかったのだが、どうやらこれは秋田県特有のシステムらしく、それを特集した書籍まで発売されるほどらしいのだ。


おそらく学校や担任の先生の方針によって多少の違いはあるのかもしれないが、秋田県秋田市で育った私が経験してきた家庭学習ノートには以下のルールがあった。

1・何でも好きな1冊のノートを用意して表紙に学年と組と名前をはっきりと書く。

2・1日1ページ以上、必ず何かしらを勉強してノートに書く。

3・1ページ以上書くのなら、1日のページ数上限はない。

4・勉強する内容は自由。テストの間違い直しをするためにページを使っても良いし、授業の予習に使っても良い。

5・書き方のルールは無い。例えば理科の勉強をするために図説の絵を大きく描いても良いし、1ページを漢字練習だけで埋めても良い。

6・朝学校に到着したら教壇の上に家庭学習ノートを提出する。

7・1日の最後の「帰りの会」というホームルームで先生から家庭学習ノートが返却される。

というものを毎日繰り返すのである。
家庭学習ノートは帰りの会で返却されてしまうため、お昼休みや授業の合間の休みを利用して翌日分の家庭学習ノートを埋めてしまうことができない。私は何とも可愛げのない効率重視小学生だったので、家庭学習ノートはテストの返却があればテストの間違い直しに当てて、そのほかは予習に当てていた。家庭学習ノートには毎回必ず担任の先生からの赤ペンによるポジティブなコメントが入っていた。母は私の持ち物全てに目を通す人だったので、もちろん家庭学習ノートもチェックしていたようなのだが、あるときこんなことを言われた。私が理科の予習をしていたページに先生から「素晴らしいですね、よく勉強しています。授業の方も進めないといけないですね。」というコメントが書かれていた。それを読んだ母は「あら、あんまり先のことを家庭学習ノートでやったらダメだよ。これは先生からのイヤミだよ。」というではないか。私は嫌味だなんて全く受け止めていなかったのだが、大人っていうのは、そういう感じで、嫌味というものをいうのか、と複雑な思いを抱えた。私は、もしも本当にあまり先に予習しないで欲しいと先生が思っているのなら、予習はこれくらいにして復習をもっと頑張りましょうとか、あまり先に進みすぎずに今日やったことをもう一度やりましょうとか、そんなことを言葉に書けばいいのではなかろうかと思ったのだが、母の話によれば大人っていうのはそうじゃなくて、小学生の私にも空気読めよなというコメントを赤字で書くような生き物なのだ、という今思い出してもモヤっとするような話なのであった。それ以来私は、先生の一言コメントいらないな、と思っていた。全員分に書くのも大変だろうし、そんなモヤモヤするかもしれないことが今日は書かれていないだろうかと気にしているのも疲れるなと思っていた。先生に「嫌味」を言われないような可もなく不可もなくな家庭学習ノートを仕上げるというのは、なかなか大変だったし、それを母が確認しても何の文句も言わないようなことを総合的に配慮しながらノートを埋めなくてはいけないだなんて、気苦労が多すぎた。

さてそんな家庭学習ノートは勉強と関係ない部分で大変なものだったなという思い出が満載の私なのだが、今になって思えば、大人になってからも何か勉強するときにノートに書いて勉強しようという気分になるのはこの小学生の頃の家庭学習ノートの影響が大きいのかもしれないと思うようになった。

大人になってからの家庭学習ノートはとても清々しい。なにしろ赤ペンなんて入らないし、妙な忖度も必要ない。自由に学びたいことを自由にまとめていける。毎日書いても週末だけ書いても、何でもあり。今の所、英語の本を精読するためのノート、タイ語を勉強するためのノート、英語のディクテーションをしてそこから学んだことを書くノートというものがあるのだが、小学校の思い出とともにノートについてあれこれ考えているうちに、そうだ、今こそ「大人の家庭学習ノート」をやってみようと思い立った。

ルールは簡単。

1・好きなノートを1冊用意する。

2・自分の好きなことをどんどん書く。

3・学習ではなくても可。日記でも思いつきのメモでも、コラージュでも絵を描くでも、本当に何でもあり。

4・ただし書き始めたらなるべく1回につき1ページは埋めること。

5・もちろん学習でも可。例えばその日、英語の勉強をしたいときは「大人の家庭学習ノート」に英文と意味や、覚えたい単語を書いていく。次のページはお絵描きだったり、何かからの切り抜きやシールのコラージュページだったりする。それでも全く問題はない。

6・予定やタスクは書かない。


手帳を使って好きなようにデコレーションしたりイラストを描いたりもしながら「手帳タイム」などと呼ばれることをしている人もいると思うのだが、私にとって「手帳」という概念がどうも足枷になるようで、手帳は手帳としてコンパクトなものを別で用意するという方法に落ち着いている。

「大人の家庭学習ノート」には日記は書くが、予定やタスクなどスケジュール管理に関わるようなものは書かない。かといって日記帳でもない。私にとって日記も英語の学習も、インプットとアウトプットの作業の一環であり、そういった私のための要素が「大人の家庭学習ノート」には詰まっている。日記帳と言ってしまうと日記のためのノートに限定されてしまうのが窮屈に感じるし、手帳はやっぱり手帳なのであってスケジュール管理をシンプルにするものというのが、私の中にはあるようなのだ。

「ジャーナリング」という、ノートにどんどん思ったことを書いていくという方法もあるのだが、それとも近いようで少し違う。「大人の家庭学習ノート」は無計画に文字を吐き出していくのではなく、ある程度「今日はこんなふうにノートを書いてみようかな」と多少の計画性はあるのだ。
例えば、「今日は宇宙の始まりについて考えてみたいから、ちょっと宇宙イメージのシールを貼ったり、書くためのペンはダークブルーにしようかな、色鉛筆でラインを引いてもいいかもしれないし、気になっていた宇宙の画像のプリントアウトを糊で貼ってもいいかも」というように、ざっくりとしたページ計画をたて、そこから思うままに紙に貼ったり書いたりしていく。垂れ流しではなく、イメージをノートの上のページにアウトプットしていくことで、より頭の中を整理してイメージを明確にしていくことが目的だ。朝起きて思いついたことをとにかくノートに書きまくるような方法と、似ているようで、目的や書く時の考えの方向性が少し異なる。ジャーナリングのようなアウトプットも良いなと思うので、私も時々やってみるのだが、それは「大人の家庭学習ノート」の下書きのようになることもあったり、また別の頭の整理方法として試してみたりしている。

最近の私の「大人の家庭学習ノート」は、ちなみにこんな感じ。
絵を描きたくなる時もあるし、文字を書きたくなることもある。もらったショップカードや文具店のシールが可愛くて貼りたくなることもあるし、もうとにかく何でもあり。ただ、カレンダーやスケジュールのようなページは一切ない。


色鉛筆で何となく描きたくなった模様のような絵のようなものと、考えをまとめたくて書いた文章のページが並んでいる。


好きなものを貼ろうと思って最初に始めたページ。お気に入りの文具店のパッケージについていたシールを注意深くはがしてここにぺたっと貼ったり。オーラ診断を受けた時にもらった紙を貼ってみたり。
これはこれであり。またこんなページも作っていきたい。


これまで勉強で使ってきたように、英語学習用のノートはそれはそれで続けると思うのだが、「大人の家庭学習ノート」は、そこからもう少しまとめて整理した状態で書き込むスタイルにしている。私は試験勉強のためにノートを綺麗にまとめるという勉強方法をしたことはないのだが、語学学習における「大人の家庭学習ノート」のページというのは、それに少し似ているかもしれない。

今日は勉強。明日はコラージュ。次は日記。
そして毎日書いても書かなくても良い。
「大人の家庭学習ノート」を書いていく中で大切なのは、自分の好きな世界観に合ったことだけに絞り込むことであり、自分の心に正直に向き合うことだ。

私は今、時間は人間の心理的虚構による単なる概念であるということを少しずつ消化し始めたばかりであり、そこから派生して私は実在しないという考え方も少しずつ自分の中に落とし込み始めている。その中から生まれたのがこの私のための「大人の家庭学習ノート」だった。
もしも私が何も創造しなければ、私は本当に消えてしまうのだろうか。夜中に飛び起きて体を叩いて、私が周りの空気に溶けてしまっていないか確認するというそんな不安から、「じゃあ私は何でもありならどうしたいんだろう」と思い始めた。私は私の何でもありな世界を、ちゃんと作れるようになりたかった。そのためのアイテム集めがこの「大人の家庭学習ノート」である。


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