lab文化祭写真のコピー

彼女のフィルターを通した世界を

「はじめまして。私が今回、この哲学対話を企てました、ゆききです。」


ひとの見ている景色は、面白いほどに異なる。
たとえ、同じ空間にいて、目を合わせて、あるいは同じものを見つめて、同じものについて、言葉を交わしていたとしても。

そんなことは知っている気でいたけれど、最近は、それを実感する機会に恵まれている。
あのとき彼女が見ていた景色も、私が見ていた景色も、彼が見ていた景色も、企画に参加してくれた人たちが見ていた景色も、きっと想像できないほどにちがっていたのだと思う。

今日は、私の見ていた景色の話を。

誘い

「私と一緒に、文化祭で哲学対話やらない?」

彼女にそう声をかけられたのは、たしか、10月の頭ごろ。その頃、私と彼女が所属しているオンラインコミュニティのコルクラボでは、11月に開催する文化祭に向けて、準備の真っ只中にあった。

彼女、ゆききは、その文化祭で哲学対話(※)を企画していた。

答えは決まっていた。やりたい、声をかけてくれてありがとう。私はそう返した。

迷いがなかった理由は簡単で、コルクラボ内で定期的に彼女が開催する哲学対話が私はとても好きだったし、なによりもゆききの力になりたいと思った。ゆききはコルクラボの仲間のひとりでもあり、私にとってはとても大切な友人だ。

誘いを受ける前から、ウェブページに掲載する文のこととか、進行に関することとか、そういったことをときどき私にも相談してくれていて、企画チームに参加しなくたって私は彼女に協力したと思うけれど、チームの一員として企画に関わることができるのは、うれしかった。

※哲学対話:
テーマに沿って問いを設定し、その問いからテーマを深掘りすべく、自分の頭で思考し自分の言葉を介して他者と対話し、疑問や思考を深める試み。
コルクラボでは、過去に「孤独と静寂の違い」「宿命と選択」などのテーマで対話を行なった。


人類にキュンとする彼女

彼女は、ものの見方が、広い。

「哲学対話が好きなのは、人類にキュンとできるからだ」と、彼女はあるとき口にした。

「人類にキュンとする」

正直に言えば、わからなかった。正直にもなにも、とにかくわからなかったし、その時私は笑いながら、わからない、と言ったと思う。同時に、すごくいいね、とも。

素敵だと思った。心から、そう思った。私には見えないものを、彼女は見ている。


またあるとき彼女は言った。

女性の「美しさ」を社会が規定するのがよくないと思うのは、規定された美しさを当てはめられた女性同士の間に、対立を生むからだ。それは、人類にとって幸福なことではない、と。そう思ったら、規定するのがなぜよくないと思うのか納得できた、と。

私は、よくも悪くもいつも個人を見ている。だから私ひとりでは見ることのできない、彼女が分けて見せてくれる視点が、世界が、とても好きだった。そして、彼女の問う姿勢が好きだった。何かについて問いをもったとき、私の頭になかなか人類の幸福という視点は浮かばないし、たとえその視点でものごとを測ることがあったとしても、それは恐らく私の納得材料にはならない。けれど彼女の納得はそこにある。それはとても、尊いものに思えた。


彼女のフィルターを通して

だから、彼女と哲学対話を企画するのであれば、彼女の思いを全面に活かせるものにしたかった。

それは、友人としての私の誠意の姿勢でもあるし、参加してくれる人たちに、彼女のフィルターを通した哲学対話を体験してほしいという思いもあった。

ゆききの哲学対話は、自分の言葉で考えることを重視する。
考えることが重要で、有名な哲学者の理論を知っていることも重要でなければ、発言するという行為も考えることに比べれば優先度は低い。
自分の抱えてきた、でも気づけなかった思いに気づくことのできること、そしてそれを肯定的に受け入れることができることが、哲学対話のよさだと彼女は言った。

私自身も、彼女がこれまでに開催してくれた哲学対話の場に足を運ぶことでそれを実感してきたし、文化祭という場で、企画に興味を持ってわざわざ足を運んでくれる人たちにも、彼女の届けたい哲学対話を体験してほしい、と切に願った。彼女の問う姿勢が好きだからこそ、なおさら。

企画は、彼女と、私と、そーいちの3人のチーム。そーいちもゆききの思いを尊重しながら企画を勧めてくれたので、彼女の思いをどう体現できるか、それを3人で話し合うことのできたチームだったと思う。私が役に立てた部分は大きくはなかったかもしれないけれど、それでも、必要以上に謙遜しなくてもいいかと思えるくらいの力にはなれたと思う。そう願う。


実現したかったもの

「はじめまして。私が今回、この哲学対話を企てました、ゆききです。」

11月9日午後2時過ぎ 。
すこし緊張した笑顔で彼女が口を開いて、文化祭当日の哲学対話がはじまる。

文化祭でのテーマは「なぜ私たちは愛してくれない人を好きになるのか」。ゲストとして二村ヒトシさんをお迎えして「愛と性の哲学対話」を開催した。

時間はあっという間に過ぎて、拍子抜けするほどだった。
企画の時間が終わりを迎え、ゆききの顔を見たとき、頰が緩んだ。よかった、と思った。ちゃんと、ゆききの「好き」を参加者に伝えることができた、と。それが私にとってその日いちばん嬉しい瞬間だった。

テーマがセンシティブなため、対話が盛り上がるのか、表面的な会話で終わってしまわないか始まるまで不安視していた。不安点を解消すべく設計をしたつもりだったけれど、こればかりは始まってみなければわからなかった。

けれど、参加者の方々は、自ら悩みを吐露したり、それに対する考えを伝えあったり、ときに笑いが起こる場面がありながら、とても、真剣に、丁寧に、真摯に対話をしてくださった。そこには、お互いに対する尊重と、形になりきっていなくてもそのときそのときの自分の考えを言葉に紡いでいく姿があった。二村さんは安心して話せる場の設計をサポートしてくださり、参加者と一緒に対話を楽しんでいたように見えた。これは彼女が、ゆききが、実現したかった対話の形で、それゆえに私たちが望んだ対話の姿だった。

「話し足りない」「時間が足りない」
そう言ってくださった方もいた。

「そうなんです。哲学対話は、すごく良い消化不良感が残るんです。」

ゆききのその言葉を聞いて、彼女と出会ってすぐの頃のことを思い出す。
消化不良がいいんだよね、とその時も帰りの電車の中で彼女は言った。
またすぐ会いたくなっちゃうから、と。

私の見ていた景色

私は、彼女の思いが伝わってほしいと願った。

それが私が文化祭の当日に見ていたものだった。

彼女は違うものを見ていただろうし、そーいちも違うものを見ていただろうし、二村さんは二村さんの、参加してくださった方はそれぞれに、それぞれに感じたり考えたりしてくれたのではないかと思う。

「いちばんだいせつなことは、目に見えない」とサン=テグジュペリの有名な本に書いてあるけれど、その言葉が広く知れ渡るのにも納得がいく。本当に、それは目にみえない。

目にみえないけれど、感じることはできて、できると信じていて、あの空間は、それぞれがそれぞれに、温度のあるものを持っていられたんじゃないかと思う。それは、決して同じものである必要はないし、共有されなくてもいい。

ときどき、思うのだ。
見ているものが、わからなくても、話している内容が、わからなくても、背景が、わからなくても、そのときの感情だけがわかるということは、あるのではないかと。それでもわかりたい。わかりたいけれど、でも、それで十分なときも、あるのではないかと。

私はその空間が、とても好きだった。


special thanks
ゆきき、そーいち
二村ヒトシさん
やすなちゃん、かなこ、すなふ
コルクラボ文化祭 運営メンバー
企画の受付、呼び込みをしてくれたメンバー
開始前に教室メンテナンスをしてくれたメンバー
「愛と性の哲学対話」にご参加くださったみなさま
「愛と性の哲学対話」を聴講してくださったみなさま
そのほか文化祭に関わってくれたすべてのみなさま
ありがとうございました!!!!!


▼ゆききの哲学対話への思いの片鱗はこのnoteにまとまっています。




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