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スウェーデンの小学校の教室から学んで、公立小学校教員の私がしてきたこと。vol.1

こんにちは。

佐藤麻里子と申します。55歳です。東京都の公立小学校で30年間、長野県の私立小学校で3年目、ずっと小学校の先生をして暮らしています。

結構長くやってきたのだけれど、細切れにしか振り返ったことがなかったので、一度自分の実践全体を言葉にしてみようと思いつき、初めてnoteに記事を書いています。どんなことが書けるのか、どのくらいの長さになるのか、自分でもわからないまま書き始めています。お付き合いいただける方がいてくださったら嬉しいです。どうぞよろしくお願いします。

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東京都の一教員として働く中で、一つだけずっと、一応密かに、貫き続けていた思いがありました。

「スウェーデンの教室で学んだことを、自分の教室で実現するための努力をする。」──「実現する」と書けなかったのは、公立小学校の中で「普通に仕事をする」ことと自分の願いを両立させることの難しさを知るにつれ、願いの方のハードルを下げていったことによります。

この願いをもつに至った経緯について、少し説明をさせてください。


もともと、小学校の先生になろうと思うより先に、

「スウェーデンの小学校では、どんな教育をしているから、あんな民主的な資質のある人々が育つのだろう」

という問いが私の中にありました。

12歳の時、社会科の授業の中で、「広島の原爆でどのような被害があったか」をテーマとした調べ学習が課されました。授業参観日での発表が組まれていたこともあり、一生懸命調べる中、図書館の片隅で見つけた本の中に、「ストックホルム・アピール」という一つの章がありました。第一回の「原水爆禁止大会」は、日本でもアメリカでもなくスウェーデンで行われたこと。その陰には、東京の人々でさえまだしっかりとは知らなかった広島、長崎の原爆の被害を調べて、科学的かつ人道的な信念のもとにこの大会の開催に奔走したスウェーデンの人々の訴えがあったこと。そんな内容でした。

びっくりしてしまったのです。スウェーデンの人々の考え方のまっとうさと、それを実現させる行動力と、それが実現できると思えている国の公正さに。いや、やはり、そんな公正さを保たせている人々の民主性に。

小学校の先生になりたい、と思ったのはまた別の理由があったのですが、とにかく「スウェーデンの小学校を見に行きたい」は、12歳の私の夢となりました。校内暴力が吹き荒れた中学校時代も、剣道部で予想以上の激しい体育会系な日々を過ごしていた高校時代も、

「私はいつかスウェーデンに行くんだ。」

と思っていれば心がキラッと輝けるほどに、私の中の大きな大事な夢でした。

大学生になってすぐ、旅費を貯めようと思いました。塾講師をしたら、かなり稼げました。大学3年生の夏、大学生協で買った一番安い飛行機チケットは「アエロフロート」でした。まだソ連だった頃のモスクワで一泊して乗り継いだ飛行機から眼下にストックホルムの群島が見えた時、10年がかりの長旅が終わった、ついに来たんだ、みたいな気持ちで涙が出ました。でも、そこまでの旅よりも、そこから始まった旅の方が、ずっとずっと長かった(まだ終わらない)のですが・・。

ウプサラでの、1ヶ月の夏のスウェーデン語講座に参加しながら、休みの日にはローカル線でストックホルムに行き、役所っぽいところに飛び込み営業して受け入れてくれる小学校を探しました。でも、夏休みのスウェーデンの役所も学校も、そんな話に確約をくれる状況にはありませんでした。

インターネットはおろか、国際電話でさえなかなかかけられなかった時代(1987年でした)、スウェーデンには行けたけど、小学校を見学するって、どんだけ高いハードルだろうと途方に暮れました。


けれど、帰国直前に運命に感謝する出会いがあり、(長くなるので割愛しますが)ありがたいことに翌年の秋から冬にかけて4ヶ月、ストックホルムを中心に、何校もの小学校に毎日のように通っては教育実習生のようにメモを取り、放課後の先生方にインタビューをする機会をいただくことができました。12歳から抱き続けた夢が叶った、夢のような日々でした。

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この滞在時に知って心に強く刻んだ、スウェーデンの小学校の様子。

・子ども自身が決める。その選択肢が豊富であれ、2択であれ、子ども自身  が主体であることが確固として保証されている安心感。

・一人一人が大切にされる空間的、時間的保証。当時、19人の1年生がさらに2チームに分かれて時間を分けて登下校していた。最初の10人と行った算数を、残りの9人とは、同じ日の最初の10人が帰った後に行うのが通常の流れだった。理由:一人一人が本当にわかるためには、これ以上の人数では難しいから。

・マナーはあったがルールは最小限だった。お互いの心地よさのために、お互いが気配りをしている、そんなイメージ。

・自分で学ぶ。自分の計画表をもち、自分のペースで。友達に声をかけて音読を聞いてもらったり、わからないときはそっと先生の近くに寄ってそこで学んだりもできる。必要なインストラクションは分かりやすく、短く。

・チャイムはない。全校一斉の集まりなど、何かに合わせて動くことがほぼない。ルシア祭やクリスマスの劇の練習、全校イベントで各クラスを自由に行き来できる日、など、楽しいイベントはあったが、練習は緩やか。

・母国語授業、発音の授業など、一人一人に合わせた取り出し授業が保証されていた。

・ランチが美味しい。栄養バランスもとても良い。

・職員室、は、ゆったりとくつろぐ空間。

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滞在中の1月のある日、昭和天皇が逝去された知らせを、私はスウェーデンの友人から聞きました。その日から数日、日本特集がTVで放送されたこともあって、小学校の中で「日本の話をしてくれないか」と何人もの先生から声をかけれらました。

折り紙を教えたり、漢字を書いたりといった活動を子どもたちは喜んでくれましたが、5年生の男の子の、「麻里子は広島と長崎の原爆についてどう思っているの?」という質問をかわぎりに、「昭和天皇について」「太平洋戦争について」などについての自分の考えと私への質問がたくさん出てきました。

家族で日本についてのTVの特集を見て話し合っていたり、先生や友達とも教室で話していたりしたことが、こうした問いに繋がっているのだと分かりました。また、「日本人は、スウェーデンではシロクマが街を歩いているって思っているって本当?東京ではもう侍は歩いていないことを、僕たちは知っているのだけれど。」と言われた時には、ステレオタイプの危うさについての学びがすでに小学生にもなされていることを感じて驚きました。

そう、学校の中だけでなく、TVや新聞が扱う内容、家庭で話題にしていることなどからも、この国が子どもたちに「本物」を着色せずに届けていることがひしひしと伝わってきました。英語のニュースはそのまま英語で流れ、字幕がつく。世界が近い。身の回りにある。位置的にははるかに遠い日本ですら、近い。そして、クリティカルな材料として話し合いの場に出てくるのです。ある日の新聞に載った、「忠犬ハチ公」の記事について友人に、「どうしてもわからない。バカな犬だとしか思えないのだけれど、これが美談になるのは何故なんだ?」と興味津々、という表情で聞かれたこともありました。

そして、学校の外で会う友人たちの意識と、学校の中で子どもたちが出会っている出来事や、身につけているスキル(学級会議での話し合いの仕方、国際協力へのアクセスの仕方、など)が繋がっていることにも、だんだんと気づいて行きました。

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そんな大学4年生の秋冬、朝暗いうちから学校に行って見学をし、夜はまだ手書きだった卒業論文をせっせと書き溜め、下宿先では同居人だったエリトリア難民のガネットとキリスト教とエチオピアとの内戦とスウェーデンの生活についてスウェーデン語と身振りで語り合い(ガネットは英語が話せなかったので)、私を学校に招いてくれた大恩人のクラウス校長宅で温かいミートボールと赤ワインをご馳走になりながら「人生はsoft and strong」だと教わり、気がつけば東京都の採用面接期限ギリギリになっていました。

帰らねば・・。

帰りたくない・・。

今でも時々、滞在のビザも下りていたこの時に、もう少しスウェーデンに残ろうと決めていたら、自分の人生はどうなっていたのかなあと思う時があります。でも、そろそろバブルの終焉がささやかれてたこの時期、採用試験にもう一度受かる保障はなく、教育実習で出会った子どもたちとの楽しかった日々を思い出し、やはり日本の小学校で先生になりたい、という気持ちがまさって、号泣しながら帰りのアエロフロートに乗ったのでした。

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12歳の時に出会って憧れ続けたスウェーデンという国では、本当に、予想していた以上に本当に、小学校の教室で民主的な人々を育てる教育をしていました。行ってよかった。見せてもらえて本当によかった。私は、こんな教室を作りたい。23歳。もう一度大きな夢に出会って、私は大学を卒業しました。

なので、採用していただいた中央区で、公立の小学校の先生としてのスタートを切るにあたって、最初に書いた「「スウェーデンの教室で学んだことを、自分の教室で実現する。」という思いを、自分のライフワークに決めました。はっきりと言語化したわけではないのですが、先生として、柔らかい心をもった年齢の子どもたちに影響を与えてしまう立場に立つのなら、「その子が主体的に生きていくための自分への信頼を育む教育を行うこと」が絶対的な条件だと思いました。

日本の小学校以外にはスウェーデンしか見ていなかったけれど、私にはそれで十分でした。

でも、「外国の良さを見てきた人が、すぐにそれをそのまま取り入れたくなる」という現象は、学校だけにとどまらない様々な現場で大なり小なり軋轢を生んでいます。

当たり前のことですが、私は初任者であり、児童・生徒(少しだけ教育実習生)としてしか日本の学校現場を知りませんでした。だから、自分の夢を実現するためには、まずは、日本の学校できちんと働くことが先決なのだと理解するのに時間はかかりませんでした。そして、それはとても長い旅の始まりでもありました。

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