【小説】T官補の妻問(②)

 ここからが本題だ。北京に来た時点で既に帯祝いを済ませた身重だった妻がどこでストウと面識を持ったのか。そして、泣き崩れて慰められるほどに親しくなっていたのか。

 彼女が嫁いできて一年が経つのに、彼は夫人が英国公使にしたような、気を許した態度を取られた覚えはないのに。

 なぜ親子──夫人から見ると祖父と孫ほどに年の離れた異人に、彼女は千秋に見せたことのない表情を見せたのか。

「おい」

 北京の住居の茶の間には卓と椅子がある。これは西洋風ではなく、清国の生活様式だ。千秋はたった二脚の椅子で、夫人に向かい合った。

 しかし彼女は大きく肩を震わせたまま、視線を合わせようとしない。

「公使とはどこで知り合ったんだ」

 千秋の問いにも、夫人は答えられない様子だった。あまりに流しすぎて枯れてしまったのか、涙は止まっていた。

 彼女が降り始めの雨のようにやっと口を開いたのは、かなり経ってからだ。

「今日、買い出しに、出たとき……です」

「何故、連れ立って玄関先にいた?」

「……道が、わからなく、なって」

 通常の精神状態であるとは到底いえないであろう妻だが、話は理路整然としていた。

 知らない間に道で迷っていたこと。行ったことのない英国公使館の裏庭に入ってしまったこと。通りすがりの老紳士に声をかけられたこと。彼の名字が須藤大佐と同じで、年齢も同じらしいこと。

 千秋はそれらを遮ることなく聞いていた。だが一点だけ、腑に落ちない点があった。

「……それが、泣くほどつらかったのか」

 渡航してひと月ばかり。慣れない街で迷子になってしまったというのは、分からないこともない。途方に暮れて知らず知らずのうちに涙が頬を伝うことはあるだろう。救いの手が差し伸べられて、安心して涙を流すこともあるだろう。

 しかし夫人の涙の色は、そのような生ぬるいものではないように千秋の目に映った。案の定、彼女は否定の意を示した。

「何か言うことはないのか」

 彼には、夫人に何か思うところがあることは予想がついた。しかしそれが何であるかかが見当もつかないのだ。

 妻は何を思っているのか。何を考えているのか。それを聞きたかった。それなのに、返ってきた言葉は想像の斜め上をいくものだった。

「……お暇を、ください」

(つづく)

ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。
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源氏物語で恋を知りました。表の顔は学生です。主に小説を書いていきます。 2020年7月より、第一、第三日曜日、又はいずれか一方に更新する予定です。よろしくお願いいたします。 *** Twitterはこちら→https://twitter.com/histoire_kaitei