見出し画像

JAPAN⇄CANADA 4-6

10日間続いた本番が無事に終わり、今シーズンは残りブラジルのツアーのみとなりました。数日間の休みの後、また練習が再開しましたが楽器を送らないといけないので日数はそんなにありません。現地に行く前に出来ることに取り組んでいると、あっという間に出発の日になりました。前年度はグランパ(祖父)が亡くなった直後で不安の中での出発でしたが、この年は特に何もなく気合も充分の中当日を迎えることができました。


ブラジルへは3つのグループに分かれて飛行機に乗りました。アメリカで経由しなければいけなかったので移動時間は長かったですが、カルガリーとの時差が数時間だけだったので時差ボケはなく、ただ単純に移動による疲れが溜まっていました。けれどそんな疲れなどマーチングバンドにとっては何者でもありません。もちろんホテルに着いてからすぐに練習が始まりました。1週間以上ぶりに楽器や道具を取り出してそれぞれのセクション(木管、金管、ドラムライン、パーカッション、カラーガード、そしてダンサー)に分かれました。私たち木管は飛行機とバス移動でガチガチになった身体をストレッチでほぐすことから始めました。ゆっくりみんなで喋りながらのばしていると、金管メンバーが走っているのが見えました。木管でよかったーと心の中で思っていたら、

「木管でよかったー」

とほぼ同じタイミングでメンバーの誰かが声に出して言いました。みんな考えは一緒だなとクスッとなりました。インストラクター達も

「さすがに着いてそうそう走らせることはしない。でも走らなきゃいけない時は金管に負けないくらい真剣に走ってね」

と笑いながら言っていました。私たちはブーブー文句を垂れながらも心の奥は熱いなにかがメラメラと燃えていました。これは多分ただ金管に対する闘争心だけでなく、ブラジルの地で95という目標を達成するんだという決意の炎でもあったと思います。


そう、私たちの目標(目的)は大会でまだ達成していないBOX6(95点越え)と取ることでした。2012年から3年連続で出場したこの大会、過去2回優勝こそしたものの目指していたものを0.1で逃して続けていたのです。誰もがこの「95」という数字を追っていました。自分で言うのもなんですが、今回世界中から参加した団体で私たちのバンドは孤高の存在で優勝は確実と言われていました。だからこそ、優勝することではなくあくまでその先を目標として設定し1年間汗を流してきたのです。みんな楽しみながらもやる時は真剣に最後の最後まで練習に取り掛かりました。そんな中ある事件が起こりました。そしてこの出来事は後世に語り継がれる、私の黒歴史となりました。


それは夕方の全体練習でのことでした。フィールドでインストラクター指示を待ちながらメンバーたちがおしゃべりしていると突然

「フィールドの外周走ってこい!」

と上から声が聞こえてきました。メンバーはわけもわからずあたふたしているともう1度

「号令かけたのに喋り続けてるのが悪い、今すぐ走ってきなさい!」

と、あるインストラクターがマイク越しに言いました。私達メンバーは意味もわからずとりあえず楽器を地面に置きフィールドの周りを走ることになりました。全員が元の場所に戻ったとき、さっきのインストラクターが

「号令聞こえなかった?ずっとおしゃべりしてるのがいけないんじゃない?」

と言いはじめました。確かに喋っているメンバーもいましたが私はそうではありませんでした。黙って待機のポーズで待っていました。なのに走らされた、納得いくはずがありません。どうしてか私の怒りは沸点に達し、

「喋ってなかったのに指示が聞こえなかった!」

と大声でフィールドの真反対にいたインストラクター達叫びました。一瞬だけ張り詰めた空気が流れました。すかさず別のインストラクターが、マイクの音量を確認しよう、とマイク調節をはじめました。

「これは聞こえる?」

という問いに、メンバー達が少し聞こえづらいいことをジェスチャーと声で答えます。その後何度か同じやり取りが繰り返されようやく双方が納得いく音量になり練習は始まりました。


みんな私の叫ぶ声を初めて聞いたせいかあんなに怒るんだね、とビックリされました。元々私は理不尽なことが大嫌いで稀に怒りを爆発させることがあるのですが今回何故かそれが発動してしまったのです。その後恥ずかしすぎてメンバーやインストラクター達の顔を見ることが出来ませんでした。最初に走りなさい、と怒ったインストラクターが私に直接謝罪をしたのですが、私1人にだけ謝ったことにも納得いかなかった私は、残りの練習中そのインストラクターを露骨に避けてしまいました。


今思うと、メンバーとインストラクター、スピーカーの距離が遠すぎて、なおかつマイクの音量が小さかった上にフィールドで喋るメンバーの声が重なり起きた不運な出来事だったのですが、この時の私は疲れが溜まっていたせいかそこまであたまが回らなかったのかもしれません。のちにそのインストラクターとは仲直りし笑い話となりましたが、私が怒ると本当に良くない状況であるとみんなから認識されるようになったのでした。そしてそれは引退するまで認識されることとなりました。

-つづく-

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?