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ばけもの

 同棲していた彼女と別れることになった。
 彼女は複雑な育ち方をしていて、付き合い始めたころから、
「結婚はできない」
 と言っていた。
 それでも俺は彼女の良いところをたくさん知っていたし、彼女が作るご飯は美味しかったし、彼女の笑顔が好きだったから、一緒にいたいと思った。
「複雑な事情を持った異性とは付き合わないほうがいい」
 なんていう一般論もあったが、関係ない。俺は彼女と一緒に生きていきたい。それがすべてだ。

 彼女と一緒に過ごした期間は10年近くになっていて、籍は入っていなくても、俺たちは夫婦同然。俺は少しでも多く稼ぐために、夜勤の仕事を選んだ。昼間働いている彼女とはすれ違いが多かったが、仕方がない。

 別れの理由は、何度聞いてもよくわからなかった。
「一人になりたい」
 彼女は繰り返し、そう言うだけ。二人で暮らしていくことに疲れたと。
 理解はできなくても彼女の別れたいという意思は強く、引き留めることは無理だった。荷物をまとめて出ていく彼女を、せめて笑顔で送りたいと思った。本当はつらくて悲しくて、胸がつぶれそうだったけれど、今まで一緒に過ごしてくれてありがとう、という想いがあったから。
 だけど必死で作り笑いをしている俺を見て、彼女は言った。
「なに笑ってるの?」
 それが彼女から俺への最後の言葉だった。

 彼女と一緒に暮らしていた部屋に一人で住み続けるのはつらくて、手ごろな1DKのアパートを見つけて引っ越した。
 仕事は夜勤を続けていて、夕方出ていって、朝帰ってくる毎日。
 ある日、夜勤を終えて帰宅し、腹が減っていたので買ってきたコンビニ弁当を食べようとしていたら、部屋の外から女性の声が聞こえてきた。どうやら同じアパートの住人。

「この前越してきたこの部屋の人、毎日家にいるみたい」
「えー? いくつくらいの人?」
「たぶん40過ぎ? 地味そうな男の人」
「引き籠ってなにしてるんだろうね? 気持ちわるーい」

 夕方から働きに出ていることに、気付いていないらしい。
 ポタポタポタッと、弁当の上に涙がこぼれ落ちた。

 ――気持ち悪い。確かにフツーの日常を送っている人たちから見たら、俺は気持ち悪いのだろう。
 40過ぎた男が一人暮らし。働いている気配もなく、部屋に引き籠っている。
 別れ際の彼女の不思議そうな表情が頭に浮かぶ。
 何年も付き合った彼女と別れるっていうのに笑顔。理不尽なことを言われても怒りもしない。いや、そもそも結婚の意思もないって言っているのに同棲して、彼女から別れを切り出されるまで付き合い続けるっていう愚かさ。
 これが愛だって思っていた。彼女と一緒に暮らしていきたい気持ちが真実だと感じていた。
 いや、しかし、たぶん俺はバカなだけだ。物分かりが良いなんてもんじゃない。バカなんだ。愛じゃない、バカなんだ。傷ついたのに笑っているなんて、お人好しを越えてバカなだけ。いやいや、バカを越えて、バケモノなんじゃないか?
 腹が減っていたから、涙がこぼれた弁当を口に運んだ。味わいもせず、飲み込む、ごっくんごっくんと。

 ひと眠りしたら、出勤の時間になっていた。ドアを開けると、ちょうど主婦らしき隣人が外出から帰ってきて、部屋のドアを開けているところ。たぶん、朝の会話をしていたうちの一人だ。まだ若い。新婚さんか。
「こんにちは!」
 俺はとびっきりの笑顔を作って声をかけた。隣人はびくっとして、俺を見る。
「越してきてから、挨拶もしてなくてすみません! これからよろしくお願いします!」
 きょとんとしている隣人の横を通り過ぎて、俺は職場へと向かう。途中で作り笑顔のままだったことに気づき、真顔に戻る。
 ちきしょう。また涙がにじんでいた。

 普通っぽく。良い人っぽく。きびきびハキハキ。感じの良い笑顔で。
 これしかない、これこそ、バケモノの生きる道。俺は、バケモノ道をひた走る。

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