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鍋の底

若い頃から次々と病気をして
入退院を繰り返して来た父に、肺癌が見つかった。
父が入院していた病院は家から一時間以上車を走らせなければいけない場所だったけれど、肺炎や逆流性食道炎で苦しんできた父は、その専門分野で信頼出来る医師のもとへずっと通っていた。
入院すると、父は病院の食事はそこそこに、母の料理を欲しがった。毎日面会時間ギリギリまで病院に付き添って、翌日には早朝に作った料理を一時間以上かけて運ぶ。
何年もそんな生活を続けてきた母の疲れがピークかと思われた頃、父の病状は「もう手の施しようが無い」と宣告された。
東京で芝居だのアルバイトだの、好き勝手なことをしていた私が父に会いに行ったのは、そんな時だった。

病室ではみんな言葉少なで、喉の奥に大きな塊が引っかかって飲み込めない、そんな息苦しさを感じていた。

面会時間を過ぎても父の枕元で
暗くなってはいけない、諦めない、そう話した。
まだ何もわからないじゃないか。
戦おう。大丈夫、大丈夫だ。みんな一緒に頑張ろう。
母と二人、精一杯の言葉で励まし続けた。

どうやって病室を出たのか、帰りの車で母と何を話したかも覚えてない。
でも、めちゃくちゃにお腹が空いていた。
不謹慎なようで、後ろめたい気持ちになりながら
目についた和風のファミリーレストランに入って注文した料理をただ無言でガツガツと食べた。
寄せ鍋のセットを2人前。
いつもは注文した料理を全部食べることが出来ないのに、その日は雑炊まで完食だった。

頭を真っ白にして、夢中で全てを食べ終えたとき
母の携帯が鳴った。
父からだった。
無言だった。
時折、すすり泣いているような音がするという。

私がお父さんを絶対に死なせへん。
今日は夜が長いと思うけど、また明日病院行くからそれまで頑張って。


母の言葉を聞いて、父は少しでも眠れるのだろうか。そうでありますように。どうか、どうか。

喉の奥の塊が、また大きくなってゆく。
息苦しさに途方にくれながら、私はただ黙って、全力で食べ終えた鍋の底をぼんやりと眺めていた。

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