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肉の欠片

長く長く付き合った恋人と引きちぎるように別れた。

私の父がもう長くないとわかって見舞いに来た彼は父に、私と一緒に生きていく覚悟があると言った。覚悟して一緒にいてもらわなくていい、と私が口を挟むと「お前は黙ってろ!」と父と彼は同時に言った。その時の父の心のつかえが取れたような、嬉しそうな表情が忘れられない。そうだ、その時「ありがとう!」と、ベッドに両手を着いてお礼まで言っていた。

自分が取り残されたような気持ちと、嬉しさと、悲しさがごちゃ混ぜになったまま私はそこに立って彼と父が嬉しそうに笑ってるのを眺めていた。今思えばとても幸せな瞬間だった。

でも結局、彼は私とは生きていけなかった。

どうしても、出来なかったのだ。2人で暮らすと決めた部屋にも、いつまで待っても引っ越してこない。あれこれと理由をつけて引き伸ばし続けた。別れる気はないけれど、親のために自分の人生を変えたくないと。あの約束の日からどんどん遠くなってゆく彼を、私は許すことが出来なかった。

あんなに嬉しそうだった父を最後の最後に喜ばせてあげられるはずだったのに。もう私を好きじゃなくてもいいから、嘘になってもいいから、せめて父がこの世界にいるあいだだけでも…と、悔しくて悲しくて、パンクした心のまま毎日を過ごしていた。

別れは私から。それはもうめちゃくちゃな理由をつけて、無理矢理に離れた。苦し紛れに何もかも全部一気に放り出すように。

「男にはそんな時期がある。待ったったらええやんか」父のその優しい言葉が余計に胸に刺さった。

悲しんでいる時間はない。プランAは失敗だった。私は一人でも幸せだと、強く生きていけると父に安心してもらわなければいけないのだ。クヨクヨしてはいられない。

だから彼のことは本当に、あっという間に忘れた

と、思っていた。あの夢をみるまでは。

いつもの道を歩いていたら、目の前で交通事故が起こって彼がダンプカーに轢かれてしまう。私は咄嗟に駆け出してその場にしゃがみ込むと、血にまみれた彼の体のカケラ、肉の破片を両手で必死に拾い始めたのだ。地面に這いつくばって、両手を真っ赤な血に染めて一つ残らず集めようとしている…ところで目が覚めた。

腕には生々しく感触が残っていた。そのまま起き上がることも出来ず、私はそのまま声を上げて泣いた。

父ももうずいぶん前に亡くなったけれど、今も夢の中で両手に抱えた欠片の重みを覚えている。





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