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自分を自分たらしめるもの

人間って、自分ひとりでいても自分になれるけれど、他人の目があることで、他人の目を通して見た自分になる、自分であろうとすることで、より良い人間になれる気がする。

独り部屋にこもっていたら、顔なんか洗わなくてもいいし、汚ない格好だって問題ない。鼻くそほじって、お腹をボリボリ掻きながら動画を見ていたって、他人の目がないならばまったく気にならない。

無意識にそんな他人の目が気にしない、ダラしがない自分を自分が作っている。それでも誰にも文句言われないから問題ない。

でも、せっかく他人の目を意識して、変化や成長できる能力を持った人間に生まれてきたのに、もったいない。

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人間は、周りの人の期待に応えたい、周りの人が期待するような人物になりたい思って、つい頑張っちゃう生き物だ。

幼かったわたしは、父が喜ぶので(母が家事をやらなかったこともある)、父のワイシャツにアイロンをかけたり、靴を磨いたり、自慢の娘であることに誇りを持っていたし、そんな自分であることが父の誇りでもあると思っていた。

だから、お互いに善き父親であり、善き娘であろうと、無意識に努力していた気がする。まとまりのない家族であったが、近所の人や親戚から見た善き家族であろう、と振る舞っていたので、他人から見たらそれなりに善き家族であったのかもしれない。

ただ、子ども心に、「これって嘘の家族で、ほんとうの家族をわたしは知らない」と思っていた。家族のふりをしているだけ。

でも、たとえ家族のふりであっても、そんなふりをするには模範となる家族の姿がある。だから、わたしは無意識に他人の目を通して見た、善き家族でありたいと無理して家族を演じていた気がする。

たとえふりであっても、演じていたとしても家族は家族だ。家族総出で、一生懸命に成りきったら、それなりに家族だった。

わたしが通学していた中高一貫の女子校は、いわゆるお嬢様学校であって、学生名簿には確か、両親の役職まで書かれていた。

まあ、今から思えば、両親の所属先がどこかなんて友だち作りには関係ないのだが、社長令嬢の友だちやその家族が期待するわたしであろうとする、純粋なアホだったらもう少し礼儀作法も身に付いていたかもしれない。

中学生になったわたしは、他人から見た自分とか家族とかに敏感に反応したが、すでに、世界は見せかけと気づいていたので、必死に善き家族になる、善き友だちになる、そんな努力をすることは放棄していた。

そんなことに、限られたエネルギーを費やすよりも勉強して、自立することが大切だ、と気づいていた。

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ただ、ほんとうの家族とか家庭を知らない、そのツケは就職してやってきた。というか、何をもってほんとうの家族とか家庭なのかは分からないけど。

児童養護施設に保母として住み込みで働いていたわたしは、部屋の整理整頓が苦手というのか、まあ下手だった。まさか整理整頓にもルールがあるとは思わなかった。

わたしの母が掃除をしない、整理整頓しない人だったので、模範となる部屋のイメージが無かった。

「どんな家庭で育ったのですか!」

施設長に注意されながら、家族のフリをしていても、整理整頓とか掃除の手順は分からんもんやね~、と思ったもんだ。

年配のスタッフに教えてもらいながら、少しずつ人間らしい部屋になっていったっけ。

自分は自分ひとりでも自分になれる。でも、出来るなら、より健全な目を持った人の目を通して、自分を自分たらしめるように努力をする方が、長い目で見たら、効率よく幸せになれるだろう。

もし、自分の周りの人がだらしなく腹をボリボリしていたら、それは相手に問題があるが自分にも問題がある。

相手は、自分という人間の目を通して行動を取っているだけなんだから。

あぶない、あぶない


イラストは、kei02さんのものです。