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夏、遺影とわたしと

昨日は、午後から激しい雷雨。猫のマールが不安がってウロウロ、オロオロ。そんな時は猫のおかあさんの出番です。

抱っこが苦手なマールを膝に抱き、雷が通りすぎるのを待ちました。


へそ笑ふ母の団扇うちわのやさしさよ


2018年夏、地元の写真館で写真を撮ってもらいました。

おとなしく座って、「ハイチーズ」みたいなお澄まし顔の記念写真ではなく、好き勝手に喋ったり、歩いたり跳ねたり。気分はプロのモデルでした。

100枚近く撮って、そこから十数枚を選び、CDに納めてもらいました。

急に写真を撮ろうと思った理由、ありきたりですが、やっぱり遺影でした。

成人式にも参加してないし、結婚式の写真もありません。幼い頃の写真も海外をふらついていた頃の写真も、断捨離してしまい残っていません。

写真は誰かと過去の記憶や思い出を共有するには打ってつけのアイテムです。

でも、ひとりで見ても、それはそれで過去の自分と向き合う、対話する有意義な時間かもしれませんが、必要性を感じません。

それよりも、残された甥や姪が処分しづらい遺品を残して困らせるより、きれいさっぱり片付ける方がいいと思いました。

ただ、形だけでも葬儀をする時、どの写真を使ったらいいか迷わせないためにも、お気に入りの写真を遺しておこうと思いました。

本当に遺影となるまでは、両親の写真の隣に飾っています。3人ともアラ還です。

でも、年齢は近いはずなのに、自分の写真の表情がいちばん幼く、年相応の苦労を重ねてない能天気な顔で笑っています。

人生の意味を知るための苦労が必要なかったのか、まだこれから苦労が待っているのか、それはこれからのお楽しみです。

ところで、遺影と棺桶に収まった顔にあまりギャップがあっては、葬儀に参列した人達もリアクションに困るでしょう。

人生の酸いも甘いも知り尽くしたしたり顔もうざい気がします。だから、アラ還くらいのお年頃がちょうどいいと思っています。

発酵と熟成がいい感じに進んでくるお年頃、それがアラ還の気がするからです。

アラ還の遺影の消費期限は、20年以内というところでしょうか。若すぎず、老けすぎず、面影があって、誰の遺影か分かるのが20年というところでしょう。

あと10年して元気だったら、もう一度写真を撮るつもりです。そうしたら、90歳まで生きても大丈夫。

備えあれば憂いなし


「全集中来い金魚よ黒よ来い」