教師が教えた、「だから何?」

こういう授業が大事だという信念は全然よくて色んなアプローチを試してみるのはいいと思うんだけど、学習者がそれに振り回されてるようにみえるこの頃の日本語教育界隈。というツイートをしたら珍しく反応した人がいたのでその続きに書いたことまとめておきます。

言語学習に「成功」はあるのか?

この4月に日本語教育関係のXでちょっと「学習意識改革ノート」というのが話題になっていました。それで、まだ買ってないの思い出して、Amazonで商品紹介を読んでいたのです。その時に「言語学習を成功に導く」というフレーズが目に入りました。

ふと、「成功」ってなんだろうと。

私のフランス語学習は失敗だったのか?

 私は大学生の時、第二外国語でフランス語を2年勉強しましたが、全くと言っていいほど何も覚えていません。でも、私のフランス語学習は失敗だったのでしょうか。
 確かに、成績はすごく悪かったし欠席もたくさんしました。けれど、英語からフランス語が理解できることがあって、転移というものを実感しました。さらには、距離のある言語を学ぶ大変さも理解できました。
 フランス語の運用能力は身につかなったけど、第二外国語を学ぶ意義は達成されたのではないかと思うのです。

成功は誰が決めるのか?

 もう少し頑張ればよかったとは思います。でも、私は私のフランス語学習を失敗だったとは思えないのです。教師の理想の学習者像になることが学習者にとって言語学習の成功では決してなく、あくまでも学習者自身がその価値をどう評価するかに委ねるべきなんじゃないだろうかと。

教師が教えた、「だから何?」

変な話、外国語学習に教師が与える影響ってそこまで大きくないんじゃないかと思うです。特に影響がないのは「教え方」の部分で、一番影響があるとすればそれは「教師の人格」ではないかと。どんなに最新の知見を取り入れた授業をしようと、どれだけ理論的に緻密な授業をしようとも、学習者がその学びの場やコミュニティに思い入れがなければ、それを愛することができなければ、学習は続かないんじゃないでしょうか。
そういう風に言語学習の場を見たときに、時折起こる日本語教育教科書論争とか、文型積み上げvs行動主義アプローチとかってすごく些末なことではないかと。
どんなアプローチを取ったか、どうやって工夫したか、それはもちろん重要なことだけれども、その結果学習者は何を学び取ったのかにもっとこだわっていきたいなと思います。