ものを書いて、生きてみたくなった
去年の2月から始めたブログは、気が付いたら記事数が60を超えていた。
目標としていた「2020年中に100記事」には遠く及ばなかったけれど、まあよくやっているんじゃないだろうか。
加えて、noteでも文章をアップするようになった。こっちはまだまだ記事数も少ないし、反応もそう多くはない。けれど、自分の作ったものに顔も名前も知らない人から反応が来るのが、少し不思議で嬉しい。
ある程度書き続けていると、多少なり気づくことも出てくる。
まず、自分はそこまで文章が上手くない。
それで生計を立てているライターや文筆家は勿論、本業は別にあるブロガーや会社員の方にも、びっくりするくらい高い筆力の人がいくらでもいる。
今年からオンラインのライターコミュニティに参加し始めたが、そこでもほかのメンバーの方の実力・熱量に圧倒される。
自分より文章の上手い人が、自分より速いペースで書き続けている。
目を背けたくなる。けれど疑いようのない事実。
「人と比べちゃキリがないよ」
それもまた真実。かといって相対的な比較を止めたら止めたで、今度は自分自身の絶対的な力不足に目を向けざるを得なくなる。
書きたいものはある。勿論、伝えたいことも。
それを形にする力が足りない。
例えば、世の中の出来事についての考えを書くとする。
まず、自説を補強する知識がない。当然調べる。すると、今度は知りたいことを知る方法が分からない。それでも何とか調べてまとめて形にしたものを見返してみると、出来上がったのはただの退屈な情報の羅列だ。
書いているうちに「ああ、俺ってなんて下手くそなんだろう」と自己嫌悪に陥る。気持ちは沈み、キーボードを打つ指は重くなる。挙句には「何でこんなことやってんだろう」「もう死ぬか」と呟きながら、やけくそになってベッドに飛び込む。原稿は書きかけのまま、どこか端の方へ追いやってしまう。
とまあ、ここまで書いてて自分でもネガティブな奴だなぁ、と思う。
「仕事でやってるわけじゃなし、楽しく自由にやればいいのに」
その通りだ。返す言葉もない。
けれど、仕方がないのだ。
ネガティブなのは生まれつきだし。
それに。
ぼくが書き続けているのは、まさに「それを仕事でやってきたい」と思っているからだ。
あ、言っちゃった。
いつからそう思うようになったのか、なぜライターを志すようになったのか、はっきりとは憶えていない。
春から就いた仕事は、おおよそ「書く」とは関係の薄い領域だ。
にもかかわらず、「書くことで飯を食いたい」という思いは萎むどころか、日に日に強くなっている。
競合は多い。書ける人はどんどん増えている。
希少性の観点から言えば、”ただ書けるだけ”の人が食っていくのは難しい。
その中で本当に食っていけてる人、何年にもわたって活躍できている人はほんの一握り。
なのに、なぜ目指す?
「サラリーマンで頑張っていけばいいじゃん」
何度も考えた。
「趣味でやればいい」
ごもっとも。紛れもない正論だ。
諦めや妥協の言い訳はいくらでも浮かぶ。
でも、そんな後ろ向きの言葉を頭で唱えるたび、心の奥の方、魂のどこかから「そうじゃねえだろ」と叫ぶ声が聞こえる。
どうして?
それはお前にとって、そこまで大事な夢なのか?
それとも「何者かになりたい」なんて、幼稚な自意識をまだ引きずってんのか?
違う。
俺はただ、挑戦してみたいだけだ。
ようやく見つけた、本気で打ち込めるもの。どうせなら、やれるだけやってみたい。
書くことで、それまで見えなかったものが見えるように、聞こえななかった声が聞こえるようになる。世界をとらえる感覚が、もっとクリアになっていく。
普通に生きているだけでは到底知りえない生き方と出会わせてくれる。自力ではたどり着けない世界の一面を、垣間見せてくれる。
書くことで、自由になれる。
俺はその生き方を、選んでみたい。
自分の選択が正しいのかは、分からない。
ただ、まだやれることが残ってるのに途中で諦めるのは、絶対に間違ってる。
それが人生をかけて取り組んでいくべき使命なのかは、今の時点ではわからない。
それに、自分の生活は自分で守っていかなきゃいけない。
いつまでもワナビーではいられない。
だから、期限を設けることにした。
3年後、28歳の誕生日。
その日までに、文章で金を貰えるようになる。
形態は問わない。ライターでも編集でも作家でも、本業でも副業でも。
大事なのは、目標を決めて本気で努力すること、そのために自分を追い込むってことだ。
未来はどうなるか分からない。過去にしがみついても仕方ない。
だったら、今できることをやるだけだ。
ああ、言っちゃった。
あとはもう、やるしかないな。
あなたのちょっとのやさしさが、わたしの大きな力になります。 ご厚意いただけましたら、より佳い文章にて報いらせていただきます。