見出し画像

ジョーダン・ピール『アス』

ジョーダン・ピール監督『アス』を観る。食わせ者だな、と思った。この監督の想像力は嫌いになれない。だが、手放しで礼賛したいとも思わない。その理由が書けるかどうかわからないのだが、ともあれ書いてみよう。この映画は細かいところまで凝った、仕掛けに満ちた「ホラ話」だと思った。それこそ前作『ゲット・アウト』が、黒人差別問題をキーとしていながら実はとんでもない「ホラ話」だったのと似ている。

四人家族が居る。妻となる主人公アデレードは子どもの頃、海辺のお化け屋敷に迷い込んで精神に傷を負った過去がある。彼らは郊外の別荘に行き、昼間を平和に海辺で過ごし、夜を過ごそうとする。そこへ赤い服に身を固めた四人の人物が現れる。彼らに瓜二つの人々、つまりドッペルゲンガーだ。植木鋏を武器に襲ってくる彼らを必死に倒して別荘から逃亡するのだが、郊外は果たして同じドッペルゲンガーたちが人々を殺戮するカタストロフの様相を呈していた……これがプロットである。

マイケル・ジャクソン「スリラー」が出てくるところがニクいと思った。「スリラー」のビデオクリップはご存知の通り、ゾンビが(つまり私たちの「一種のドッペルゲンガー」が)登場する内容なのだ。これが偶然とは考えにくいので、監督の戦略の内だろう。そう考えてみればこの映画で重要な殺戮場面で流れている音楽がビーチ・ボーイズの「グッド・ヴァイブレーション」なのに、一変してNWAの「ファック・ザ・ポリス」になるところも苦笑を誘う(しかも、この曲は警察に助けを呼ぶ場面で流れる!)。とんでもない冗談のセンスだ。

この手の映画にはお決まりの考察になってしまうが、結局ドッペルゲンガーの正体とはなんなのか。これがただ単にゾンビやヴァンパイアではなく、私たち(=「アス」!)の分身であるということ。それはつまり、私たちがこの社会や国を生きる上で他者と共存して生きなければならない厳しい環境に置かれているというところから来るのだろう。私と違う人と暮らす。しかも、場合によってはその他人にとって利益になるのは「私が損をすること」かもしれないのだ。これが厳しくなくてなんだろう。

ドッペルゲンガーの正体は果たして、かなりのところまで明かされる。地下世界の住人という、聞いてしまえば力が抜けるような設定だ(私はこの設定に、いしいひさいちのマンガを思い出した)。このあたりの科学的にツメの甘すぎる「B級」な発想が、しかし堂々と提示されることで許せると思えるのだから不思議なもの。監督のこの想像力に乗っかって「トランプ政権下でのアメリカのマイノリティのプレッシャー」といった問題をひとくさり論じてみるのも面白いのではないか。

ジョーダン・ピール。この監督のファンになってしまった。『ゲット・アウト』同様、黒人差別問題を扱う過程で自分自身の想像力までも彼が批判しようとしているステレオタイプな価値観に染まっていないかという危うさは感じる。黒人音楽ならヒップホップが代表的であるから使う、というクリシェをどこまで意識しているのか、という。だが、この「B級」の想像力が本格的に火を吹いたらどんな作品となって開花するのか、それを夢見るのも悪くあるまい。末恐ろしい人が現れたものだと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?