見出し画像

魚鳥木と炎のはなし

(*注:  性的な内容が含まれます)
いつの頃からか、世の中のカタカナ語は英語一辺倒になってしまったが、外来語が世に溢れ出した大正や昭和初期は、そのほとんどがドイツ語やフランス語などヨーロッパの英語以外の言葉が多かったという。

大阪万博に始まった 70 年代にもまだまだその傾向は見られた。カタカナ語のほとんどは世の大学生が隠語のように作り出したものだ。たとえば、「さぼる」という言葉は、もともと学生たちが授業に出ないことを「サボタージュを決め込む」と言っていたのが短くなったもの。Sabotage はフランス語である。(おそらく学生運動に源を発する言葉だと思われる)
「デマ」も英語ではなく、ドイツ語の Demagogie (デマゴギー) に由来する。ああ、そういえばエネルギーもドイツ語 (Energie) である。英語ならエナジーというはずだ。

最近ではあまり使わないが、「インテリ」はロシア語の Интеллигенция (インチリゲンツィヤ) を由来とするもので、実は英語の intelligent が元ではない。

これらはすべて大学生が履修する第二外国語からピックアップされたもので、大学生の少なかった昔は、さぞかし特権気分で彼らはこうしたカタカナ語を使っていたことだろう。

学生隠語なので、当然の事、血気盛んなお色気関係の言葉は多かった。私の時代にはもう耳にすることはなかったが、戦後から昭和40年あたりの男子大学生たちは、ありとあらゆる第二外国語で、日本語では口にできない下ネタ会話を交わしていたのが、当時の小説やエッセーを読めば手に取るようにわかる。たとえば「コイトス」や「ラーゲ」など、聞いたことがあるだろうか? 読書家なら知っているかもしれないが、前者はラテン語で性交、後者はドイツ語で体位を意味する。「君はあの娘と何回コイトスに至ったんだ?」、「どんなラーゲで?」などという会話が交わされていたようだ。

こうした言葉は、世の中が英語一辺倒になってきたのと、今では性的な会話があまりにも日常的になってしまったので、どんどんと淘汰されていってしまった。今でも世の人に伝わる性的隠語(もはや隠語ではない)として生き残っているのは、オナニー (Onanie: ドイツ語)、ザーメン (Samen: ドイツ語)、フェラツィオ (fellatio: ラテン語) ぐらいしか思いつくものがない。

さて、ここまでが導入部である。
70年代、80年代というのは、音楽も当然のこと、今のように英語一辺倒ではなかった。もちろん、ビートルズ以来、英語が圧倒的に優位ではあったが、J-pop など影も形もなかった時代、ダサい歌謡曲や演歌に耐えきれない日本人は世界中に音楽を探し求めていったので、ヒットチャートにフランス語やスペイン語の歌が上がってくるのは当たり前のこと。ドイツ語やイタリア語の歌がベストスリーに入ることもあった。

高校時代。ウスバカゲロウのように私は目立たず、地味に息を潜めて学校生活を過ごしていた。学業に秀でているわけでもなければ、運動神経もたいしたことはない。怒られることもなければ褒められることもない。背は低くないし高くもない。身体が透けて見えるのではないかと思うほど存在感がなく、ちょっと変わった苗字でなければ、おそらく同級生のほとんどは私の存在には気づかなかっただろうと思う。

それは決して不快ではなく、むしろウスバカゲロウのようにふわふわと漂っているのが気持ちよかったという記憶もある。

高校2年のとき、修学旅行に行った。それもふわふわとした思い出しかないが、おそらく仙台からバスに乗って一週間か十日ぐらい東北の各地を回り、最後に青森に辿りついて、そこから寝台列車で戻ってきた記憶だ。要するに一週間ぐらい移動はずっとバスなのである。バスガイドさんも丸一週間も色気のない男子学生相手にきっと大変だったことだろう。

何日目か、だらけてきた車内の空気をちょっと取り戻そうと、ガイドさんが「魚鳥木(ぎょちょうもく)」をやろうと言い出した。いま「ぎょちょうもく」と打って変換されなかったということは、今やきっと死語、ああ、無粋だが説明しなければならないな。

ガイドさんが「魚鳥木申すか、申さぬか!」と言うと、聞かれた私たちが「申す、申す」と応える。そこでガイドさんが、適当な人を指さして(そのときは前の席から順番に)、ギョっ!とかチョウ!とかモクっ!と言う。当てられた人はギョなら何か魚の名前、チョウなら鳥の名前、モクなら植物の名前を即座に淀まず答えなければならない。答えが合っていたとしても、他の人が既に出していたものは NG !

即座に答えられなかったり、ギョと言われたのにスズメ!とか間違えてしまうと罰ゲーム。そのときは何か一発芸か、歌を歌うことが課せられた。反射神経が試されるので、簡単なようで難しいのだ。案の定、ほとんど全員が罰ゲームを受けることになった。

私は、3種類いずれを言われても即答できるように頭の中でリハーサルをしていたのだが、どうせ失敗するだろうから、そのときは何を歌おうかと考えてもいた。

というか、考える前から、そのころヒットチャート1位をずっとキープし、ヘビロテで聴いていたマルチェラの「炎」を一ひねりいこうと思っていた。17歳の海綿体のような脳は、意味もわからないイタリア語の歌詞を完コピしていた。ガイドさんがちょっと、いやけっこうきれいなおねえさんだったということもあり、ここは普段のウスバカゲロウを脱して人間に戻り恥をかいてみようと考えたのである。

いよいよ番が回ってきた。ギョっと言われたのか何と言われたのか覚えていないが、なんとコンマ何秒で、私は正しい答えを返してしまったのである。ガイドのおねえさんは、にっこり微笑んで「おお、合格だね!じゃあ、次の人」となってしまった。図らずも私はウスバカゲロウのままだったのだ。

ほっと一安心するようでもあり、なんかちょっと残念な気分でもあった。あのときもし間違えた答えを言ったり、ちょっと言い淀んだりしていたら、私はきっとマルチェラの炎をマイクを通して滔々と歌い上げ、ウスバカゲロウは、ホモサピエンスどころかフェニックスのように舞い上がり故郷に錦を飾ったことであろう、笑

誰にも話したことのない、ちょっと酸っぱいのか何なのかわからない思い出である。

*Marcella Bella (日本では単にマルチェラ)のこの曲は、原題が “Nessuno mai” (誰ももういない)である。しかし邦題はなぜか「炎」という。完全にメロディーのイメージだけで付けたタイトル。でもその漢字一文字のインパクトがあってか 1976 年ごろ、日本で大ヒットした。成人してイタリア語が多少読めるようになって、なんだか脈絡のない歌詞だと気づいた。それを言い出すと長くなるので今夜はこのへんにしておきます。

https://www.youtube.com/watch?v=a4qp80yIi7g



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?