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十字架を背負って歩くということ

今年もクリスマスシーズンとなりました。

クリスマスというのはご存じのとおり、今から2000年ほど前にユダヤの地に生まれたイエスという人の誕生日を祝う日だということは、皆さんご存じですね。

後世のさまざまな研究により、12/25がイエスの誕生日であるというのは疑わしい部分もあるようで。

キリスト教が広まったローマ帝国にすでにあったミトラ教という宗教の冬至の祝いを、そのままイエスの誕生日としたのではないかという見方が、現在では強いようです。

冬至は一年で一番夜が長い日。
その日を境として、まただんだんと日が伸びていくという日でもあります。

僕自身はクリスチャンではありませんが、文学的に聖書を読むのは昔から大好きです。

新約聖書にはイエスの言行録としてマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書というのがあります。
そのすべてで書かれているのが、イエスの「磔刑」および「復活」です。

神学的には、最初の人類であるアダムとイブによって犯され、全人類に引き継がれてしまった「原罪」を、神自らによって地上に派遣された神のひとり子であるイエスの「贖罪」によって、全人類の罪がゆるされた。

この部分にオーソドックスなキリスト教は力点を置いていると思います。

しかし僕は、あくまで個人的な感想ですが、その部分よりも大好きなシーンがあります。

それはイエスが十字架を背負って、ゴルゴタの丘という刑場まで歩いていくシーンです。

重い十字架を一人で背負って歩くイエスは、あまりの重さに耐えきれずに、途中3回倒れてしまったという伝承があります。

キリスト教では、イエスは神の子です。
しかしその神の子ですら、とても重い十字架を背負わされ、そして途中で倒れてしまう。
そしてまた歩いていく、という。

僕はこの部分にとても胸がうたれるのです。

「キリストの贖罪」というのはある意味で、いい意味での信仰の飛躍が求められる概念だと個人的には思っています。
それゆえ信者の人にはすばらしいグッドニュースなんでしょうが、そうでない人からしたらあまりピンとこないという人も、まあ結構いると思います。

ただ信仰があってもなくても、イエスの「人間性」には誰でも共感できるところがあるんじゃないかな・・・と思うわけです。

沢山の人々と出会い、癒し、苦しみを受けられた。

神の子ですら十字架を背負わされ、歩いていく。
ましてわれわれ衆生はみんな、十字架を背負っている。

大きさ、重さこそ個人差があるかもしれませんが、みんな十字架を背負って歩いていかなければならない。

それは神の子イエスと同じであり、人間の運命なのではないかなと思っています。

絶対的な存在である神様と人間は、どうしても距離が隔たっていると感じるかもしれない(少なくとも、僕はそう思っています)ですが、苦しみや喜びもすべて人間と通じていると考えたならば、少しは救われるかもしれない。

決して神学的とか信仰のお話ではなく、文学的な側面でそんなふうにも読めるんですよね。

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