『空に住む』(青山真治監督、2020)




 7年ぶりの青山真治の新作だと喜び勇んで劇場に足を運んだら、新宿ピカデリーの客席には平日の夕方で15人いるかいないかという埋まり具合。私以外はどれも二人か三人連れの若い女性客で、終映してみると「話が全然わからなかった。何が言いたいの」「ガンちゃん、目当てで来てるのになかなか出てこない」とかしましく帰っていく。おや、と思い調べてメインキャストの一人、岩田剛典の名前を検索して、芸能情報に疎い私は、彼が三代目J SOULBROTHERESのメンバーだと初めて知る。ああ、彼女らは俳優の顔に惹かれてきた観客たちか、これをよすがに今見終わった映画の真意をもうひと掘り、探る。

 事故で両親を亡くしたばかりの若い女性、多部未華子演じるナオコは、裕福な投資家である叔父の計らいで高級タワーマンションの39階に猫のハルを連れて引っ越してくる。兄夫婦の位牌を新品の祭壇に置き直して、叔父が「ここは東京の上空」とわざとらしく口にするといやでも相米慎二の『東京上空いらっしゃいませ』(1990)のことを思い出してしまう。
資本家のセクハラを逃れるために事故に巻き込まれて急死してしまう売り出し中のタレント、ユウは、死後の世界で『ピノキオ』のジミニークリケットを彷彿とさせるコオロギと出会い、この妖精とも天使ともつかぬ昆虫の計らいで「自分以外なら何にでも生まれ変わって現世に戻ることができる」と告げられる。そこで知恵を絞って自分が写った街頭広告の看板に生まれ変わり、そっくりそのまま自分の体を取り戻すことに成功し、地上のマネージャーの元に戻ってくる。かつて相米慎二という作家は、個人の人生を奪われた芸能人が、広告を通じて失われた自分の体を取り戻すという消費社会の寓話を描いた。
『空に聞く』に用意された高層マンションのナオコの部屋という舞台は、ちょうどこれへのオマージュと思しき大きな街頭広告に臨んでいる。巨大な看板にでかでかと顔が描かれた彼こそ、岩田演じる人気俳優の時戸森則。実はこのマンションに暮らしており、しかも偶然知り合った次第にナオコと親しくなっていく。

両親の葬式でうまく泣けなかったと告白するナオコは、自分の感情を表に出すのが苦手なようだが、不思議と彼女の周りには自分の感情を表に出すのが得意な人ばから、集まってくる。子供のいない叔父の妻は母性を持て余し、合鍵をつかって彼女の部屋に侵入してはなにかと彼女の世話を焼く。他人から望まれる仕事に疲れた時戸は芸能人としての自分に無頓着な彼女を心の拠り所にする。婚約者を持つ身ながら、妻子持ちの作家と不倫して妊娠した後輩は彼女を慕う。相米のように本作も欲望がテーマとされている、などというと急に話が大きくなるので、じゃあどんな欲望かといえば、それは理想的な家族への欲望ではないか。
 子どものいない叔父夫婦が兄の娘に家を提供することを契機に始まることがまず、この物語を家族という欲望に駆り立てる。叔父夫婦が用意したまるで家族の象徴的な儀式であるかのように三村里枝演じる叔母とナオコとが食事するシーンが三度繰り返されるものの、ナオコは三度席を立つ。そうであるならば、偶然知り合った見知らぬ男に過ぎない時戸がナオコを促して席につけるという動作を果たすのは決して偶然ではない。そうしてナオコはやがて、彼のことを欲望するようになり、編集者として彼と本を作りたいという欲望を持つことで自己実現に目覚めていく。最終的にナオコの情事は、今度は叔母の侵入によって中断される。
 しかし、必ずしもこれは恋愛がテーマの映画ではない。本作には作品の中核をなすプロットポイントが二つある。一つは、ナオコと時戸が初めて交わるシーンで、もう一つはナオコの飼い猫ハルが悪性リンパ腫を発症するシーンだ。こうして本作のテーマが男女の物語と、猫の最期を看取る物語とに二分していく。人間のドラマかと思ったら実は猫のドラマだったということが本作の味噌のようだ。
 「空に住む」の「空」とはなにか。それは「青空」の「空」であると同時に「空っぽ」の「空」でもあるようだ。まるで人間社会の欲望や世俗の袖の振り合いにまったく興味のなさそうなナオコの元には、さまざまな人が集まってきて好き勝手に自分の欲望を投影する。誰かの家族にされてしまうとはそういうことなのかもしれない。相手を愛しているつもりで、相手を自分の欲望を映すための鏡に、ただの道具にしてしまう。それは人間関係にありふれた不幸だろう。みんながナオコを例外的な誰かとして好きなように扱うが彼女とて実は例外ではない。ただ彼女だけが、飼い猫をその鏡にしてしまっていたのだ。両親を正しく悼むことに失敗した彼女は、引越しと彼女の鏡となってしまったストレスで亡くなっていくハルを正しく悼もうとする。
ハルが亡くなると、彼女なりのハルへの追悼の儀式として、不特定多数の欲望の集積地となっている時戸から、人生哲学を学ぼうとする。
「ハル、君は私だったんだね」というセリフに私は同時代の濱口竜介や黒沢清や深田晃司の映画を思い出す。私たちは一人では自分自身にはなれない。自分が自分であるために私たちは他人を利用してしまう。「ハルは私だった」。そうして少しずつ誰かを傷つけている。しかし、それは仕方のないことで、私たちはそうしてしか自分とも、他人とも向き合えないのかもしれない。私たちは自分の欲望するものしか見ることができない。しかし、生身の自分も生身の他人も、必ずしも自分の望む姿ではいてくれないのだ。


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