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「旅」〜「ミンダナオの風」寄稿エッセイ〜〈全文〉

〜ミンダナオ子ども図書館を応援してくださる方、ミンダナオに関心を持ってくださる方へ〜
※以下の文章は2022年2月当時に書かれたものです。

 こんにちは!MCLに度々お世話になっております⼤学3回⽣の松尾です。昨年の拙い体験記※「ミンダナオの風83号」に感想を送ってくださった⽅々、本当にありがとうございまし た。今回も貴重な機会に感謝しつつ、拙⽂で恐縮ながら感じたり妄想したことを精⼀杯書かせて頂きます! 

 今回は、コロナ禍でなかなか旅というものがし難い中、ミンダナオで感じたことと⽇本で感じることの中に「旅」を⾒出していけたらと思います。 

大きな旅

 今回は⼀度の渡航体験の話ではなく、計7回ミンダナオに渡航し4回MCLに お世話になった経験を総合的にみていけたらと思います。 

みんなが生き生きできる日常空間のしかけ

 ミンダナオにこれほど通い続けていたきっかけの一つがミンダナオのスポーツにあります。英語ができなかった私にとって、スポーツ、一緒に身体を動かすことは言語以上のコミュニケーションでした。

 ミンダナオでは老若男女全員と言っていいほど、バスケットボールとバレーボールに慣れ親しんでいます。
そして、そこら中でボールが飛んでいるのを目にします。それが交差点であっても。気をつけて。笑
 高校生がバスケをやっているところに工事現場のおじちゃんが乱入する瞬間も見たこともあります(おそらく顔馴染みなのだと思います)。仕事して。笑

そんなミンダナオで、MCLでも例に漏れず2種類のボールは毎日のように飛び交っていました。

 これは4回目の訪問の時だった記憶なのですが、訪問した当日、子どもたちは毎回なのですがとても暖かく迎えてくれました。高校生の子たちも「またきたわ~」とクスッと笑ったりしながらも喋りかけてくれます笑

 早速遊ぼうということになり、男の子たちがバスケをしていたので、そこに加わろーということでバスケが始まりました。元々男の子と言っても小学生~高校生の子まででやっていたのですが、自分達が入ると高校生の女の子も入るし、男女も年齢も人種もごっちゃ混ぜです。

MCLでのバスケットボール風景

流石にバスケをするには人数が多いのでローテーションでプレーに入り、観客も沢山の状態になりました。もちろん、ここで誰かが審判役もしてくれます。
ここまでわずか1分ほど。準備はやっ!笑
 そして、試合が始まると、強い子はへなちょこな自分にボールを回してくれたり、突破してもゴール前では小さい子にボールを回してシュートをさせてあげたりと気を配りながらホントうまく試合になります。それでも手加減で上級者はつまらないというような雰囲気ではなく、強い子同士が当たる一瞬はガチだし、配慮をしながら試合を全員熱中できる試合にするというもう一つ上を見ながら器用にプレーできるかを競っているような感じで、兎にも角にもみんなが全力で楽しめる場になっていた気がしました。観客席ももちろん大盛り上がり。自分には混乱するほど無数の応援とアドイス笑

 日本に帰って気づくことは、スポーツが身近にない!ということです。もちろん路上でやっている訳もなく(それは危険なのでしなくていいです)、公園などもよく人が通るところにはあまり無いためか公園で遊んでいる姿も目に入りません。自分の現在住んでいる近くの学校はグランドも塀で覆ってしまっていて見えないし、もちろん体育館も。ゴルフ場もスポッチャ(簡単なスポーツやゲームのできる代表的施設)もボルダリングも全て施設の中です。交通のための道路、遊ぶための施設、生活のための家。境界線を引き、それぞれ便利を追求し、目的合理性はとれた世界なのかもしれません。

 だけど、ほんとにそれで良いのかなぁと思ったりもします。場所や空間に名前がつき目的が設定されていてそのために最適化されている、そんな場所や空間に知らずのうちに目的通りに動かされる私たち。空気を読む日本人というより空気を場所ごとに強く設定してしまった日本人という言い方もできる気がしてきます。先ほどのMCLのバスケでは目的が勝つこと、自分がいいプレーすること、応援すること、休憩すること、ヤジを飛ばすこと、、沢山の目的が複層化されていたと思います。

色んな目的や趣味思考、できる/できない、など多様な人々が多様なまま居心地の良い空間をもっと。

MCLでのバレーボール風景

旅の目的と予定

 ミンダナオの旅から妄想の旅へシフトしかかっていますが笑(ミンダナオでの経験はそれだけ濃縮されたものだったのだと思います)

今回のテーマ「旅」というレンズを通してみると、「目的が一つではないこと」は「旅」の一つの特徴にも思えてきます。

 例えばイタリアにイタリア料理を食べに行く時でも、目的がイタリア料理なのかと言われるとそれだけでもないのではないでしょうか。それであれば、イタリアのシェフがいる美味しい日本のイタリア料理店に行くことで済みそうです。ついでに教会に寄ったり美術館に行ったり…道中にたくさんの目的地、もしくは現地の路面電車で移動する…といった目的と呼べないほどの予定がいっぱいあって、それで旅は成り立っているのではないでしょうか。

 また、MCLの松居友さんが自分におっしゃられることは、「MCLに何かしにきてあげる!というような態度で来なくていいよ。」目的を設定しない方が、自然と人に触れられたり、大切な感覚を得られるのではないか、という提案で、私はとても共感しました。そして、実際に様々なことに気付かされ私を支え、動かす力になっています。

ここで、この旅の特徴をミンダナオの違う場面で違う角度から見れる体験をしてきたので、そのことについて触れようと思います。

 先ほど出てきた「目的」は予め設定されるものでそれを達成するために動きます。この予定調和的な感覚が染み付いていた私がミンダナオにいるうちに、だんだんと気づいたことがあります。

日常をつくる予定不調和

 みなさんご想像の通り、ミンダナオでは時間や予定は日本と比べるととってもアバウトです。集合時間に行っても全然人が来ず、自分が予定間違えたっけ?と不安になったり、お店に行っても、あれ?人いないっぽい…(勝手に休んでいたり違うことしてる)ということが、何度もありました。大体周りの方が呼んできてくれたり、アイツ買い物いってるよーとか教えてくれたりしますが笑 

休憩所

 例えば、夕飯の手伝いをするため子ども達のいないうちに髪の毛を切ろうと思っていたのに人がおらず、結局子ども達が帰ってきたあと夕飯支度時に散髪したりしました。それでも夕飯は自分達でできるしいーよ!と言ってくれ、帰ってきたらヤイヤイと茶化してきたりして大笑いで夕べの時間を過ごしました。


 最初は不安で、けど案外予定狂っても結果オーライな経験も重ね、慣れるとなんかゆるくていいなーと思っていました。しかし、予定通りでないと上手く行かない自分の日本での環境とミンダナオを往復するうちに、そしてミンダナオの方々の行動や話してくれることを聞いているうちに、ゆるいだけではないような感じがしてきました。

 予定通りでない裏側には、ただただ怠惰な理由もたくさんありそうですが、雨季で雨が多い中天気が良いから今日は洗濯物デーと店の番をほったらかして洗濯物をやっていたり、変わりやすい天気を察知して洗濯物を取り込んだり。MCLのドライバーさんも自分たちには分からない天候の変化をみて店や休憩所に入ってくれます。町から離れれば離れるほど休憩できる場所の間隔もとても大きくなっていくので、時間通りに行こうなんてしていたら、大雨に打たれて大変なことになりかねません。他にも自分達が疲れてきたなーと思っていたらタイミングよく休憩所に入ってくれたり、はたまたタバコ休憩だったり笑。天候プラス私達にも(そして自分にも)これだけ気を配れるのはすごいなーと思いました。ただ、私は気を配ってる感がない居心地の心地よさの中におり、彼らは自然とそういう振る舞いをしていたのではないかな、と途中から感じ始めました。 

移動の様子(道が険しいので四駆は欠かせません)

まあただ、こんな感じで全く時間通りに行かない訳です笑


 けれど、そのおかげで上手くいっているようにも見えるのです。そして自分達もとても快適に過ごさせて貰っています。そしてみんなとても楽しそうなのです
※楽しいの裏側についても自分を揺るがすエピソードがあったのでまた書ける機会があったら書きたいなと思っています。

予定不調和的楽しさと「今」

 この予定不調和が楽しさや生き生きに繋がっていることは身の回りで改めて考えてみても分かる話だと思っていて、例えば、ガチガチに計画を組んで予定通り回るのが良いのじゃ!という方もられるかもしれませんが、ちょっと寄り道!やたまたま入った店がめっちゃよかった!もしくは、入る店間違っちゃってさーみたいなハプニングの方が後から振り返ったら楽しい旅だったのかもしれません。計画派の方も予定を立てるのに集中してしまう、という予定外の寄り道に時間をかけちゃってるかもしれませんしね。

 これらのことから感じるのが、予定不調和につながる態度は、とても「今」に集中している感じなのです。私達は空を見上げることはあっても天気予報という予定の確認作業に過ぎず、予定という道のうえを歩けているかに集中しがちです。そして道を外れていたら時間を無駄にしたーなんて思ったりすることもあります。予定以外の小さな変化や気配りは場外に放り出されがちになっているのかもしれません。わざわざ意識して気を配るという予定のような考え方でしか気を配れていなかったかもしれない、と自身を振り返ったりしました。

 ただ手放しに「今」に集中するのが良いとはいえず、言わずもがなのリスクが付き纏います。未来のより大きな目的が遠ざかってしまうかもしれないこと、他人に迷惑をかけるといったことです。なので、ビジネス面でちゃんとしてる人達はMCLのスタッフさんも含めて、ちゃんといます。ただそれでも、ゆるく回っている部分が多くそれでもちゃんと成り立っているケースが多いのです。

予定不調和を支えるキーワード

 この「ゆるい、一見するとテキトーだけど上手くいく」謎が解けたのはM C Lで子どもたちと会話をしている時でした。
 それはメンバーが出かける集合時間に遅れている時、冗談で「フィリピーノタイム」だね。と話していた時で、何やってるのだろう…と様子を見に行こうとする私に「多分急いで準備してるよ。(彼女を)信用してのんびり待っておこう。」と付き添いの方が言った時です。

その時自分が認識したのは「信頼」でした。

 ただ何なしの信頼ではなく同じように信頼して良いのかという疑問・ためらいはあると思います。
 ミンダナオは多くの民族が異なった思想や世界のもと存在しており、簡単に「信頼」なんて言葉は出てこないように思います。

ただ、ここで思い出すのは、MCLの子どもたちがよく口にする「助けあい」や自分が大好きなMCLの子どもたちの歌です。

 その歌の中には「協力」「人々の絆」「愛」やみんな家族の一員のように考えようといったことが歌われている曲がたくさんあります。あるムスリムの民族の歌では、他の宗教の人々との団結によって平和や愛を育んでいく、というような内容が歌われているそうです。
民族を超えた信頼を育もうとしている姿勢が感じられる素晴らしい曲だな、と印象に残っています。
このような曲をみんなで歌うことによって「信頼」を確かめ合い、自分達の中にインストールしていってるのではないかな、と思うのです。

MCLの子どもたち(ムスリム)の歌

 そのような意味で、文化、音楽などによって育まれる、家族、友人、地域の人々、ミンダナオの人々、大地、そして未来への「信頼」によって予定不調和が支えられ、「今」を最大限に生きる姿勢があるんじゃないかな、と思うのです。

 そして、何よりMCLの歴史が、「信頼」の構築によって困難な支援活動を敢行し体現、証明してきたことなのではないかな、と思います。
 
 明確な目的や予定を立てることはとても大事で重要です。でもそのことが強調されすぎる環境では、その目的や予定の外に心を開くことも忘れないように。

子どもたちの通学の様子

小さな旅

大きな旅から小さな旅へ

 ミンダナオから帰国した際は、⽇常に帰ってきたという感覚とともに、 その⽇常が新しく⾒える。道路でバスケやってないなーというのは冗談ですが、大きな旅で述べたように少し寂しく映る道路にも、あ、打ち水をしてくれた跡だな~と何となく気遣いを感じたり(勘違いしたり笑)、野球の練習道具が家の前に置いてあるのに気づいて、熱気溢れる試合のカケラのように見えたり。手で洗濯したことが印象に残ったせいか、なぜか日本でも洗濯好きになってしまったり。手洗いする訳ではありませんが笑 

 このように、ミンダナオへ⾏く以前と毎回何か⽇常が新しくなるようなのです。⼀⾔でいうと、⽇常を再発⾒するようなことが起こるのです。 

その再発見から気づくことは、同じように見える日常の中にも「旅」を見つけることができるんだ!ということです。

いや、"違い"が⼩さくて気づいていないけれど、⽇常も元々「⼩さな旅」の積み重ねだったなのではないでしょうか。 

洗濯、買い物、料理、通勤・通学、⼈と会って喋ることも 毎日少しづつ違う「小さな旅」のような気がします。

洗濯

コロナ禍で「旅」を捉え直す

このような感覚は、このコロナ禍でたくさん起こっていたのかもしれません。 
⽇常が⾮⽇常になり⼤きな”違い”を体感することになった⼈も多い気がします。いつも何も思わず通っていた学校、職場、習い事への道。ずっと家の中にいることで、その道が音楽を聞く時間を作ってくれたり、「よしやるぞ」と「お疲れ様」の声かけをしてくれたり、していたことに気づきます。自粛ライフの中「いかに当たり前の⽇常が⼩さな物事の積み重ねでできていたか。」が実感されたのではないかと思います。 

 ただ、コロナ禍では、あまりにも⾮⽇常が⻑くまた過酷なものとなって しまっている側⾯があるかもしれません。もはや過酷な⽇常の繰り返し になりつつある⼈もいるかもしれません。 

 このような時にこそ、⽇常を「⼩さな旅」と捉え、意識的に「旅」を⽇常に取り⼊れていくことが大事な気がしています。

 感性がするどい⼈は、もうすでにこのように⽇常を⽣きているの かもしれないし、このようなことを⾔われた時に⽇常のやることなすことを捉え直すだけで、⽇常⽣活は違って感じるのかもしれません。ただ、感覚が鈍く次の瞬間には読んだブログの内容を忘れてしまうような⼈間の私は、⾊々と意識的に「旅」を持ち込むことで⽇常⽣活を楽しんでいます。

 どういうことかというと、大きく二つのことを意識しています。感度の高い人たちの世界に触れること、異世界を歩くこと、です。

 一つ目は例えばアートやデザイン、研究など、作品とその作品のコンテクストを感じられる場所にいくことです。近頃出会った作品は、鉛筆で書かれた日常風景に空の時間経過を映像で投影する「キャンバス・プロジェクション」という手法の作品がありました。京都・四条大橋の作品も、いつもの風景として没していた四条大橋が立ち上がってくる感覚がとても新鮮で、目に入る風景がどこも場所として誇りを持っているように映りました。
 二つ目は例えば本を読むことで、思わず心が散歩してしまう、そんな小説の世界に没入している間は日常を離れて非日常を旅しているようです。実際に人間にはミラー・ニューロンというものがあり、物語の登場人物がボールを蹴ると読み手も身体動作の蹴る時と同じニューロンが発火するそうです。集中した読書は家にいながらボールも蹴れてしまうのです。笑
 
と、具体例をあげてきましたが、一番の具体例は読者のみなさんがもう既にされていることだと思います。もう既にみなさんは旅を日常に持 ち込んでいると思います。 

 それは、この『ミンダナオの⾵』や寄付 などを通してミンダナオの様⼦に思いを馳せること。 

3,500kmも離れた遠い場所。みなさんも何かのきっかけでその場所と繋がっているのだと思います。

そして、家に居ながらも心は「旅」をしているのではないでしょうか。

旅先を新鮮に感じ、帰ってきて日常を新鮮に感じる。楽しい旅も辛い旅も。

もし何か感じるものがあったら、MCLのホームペー ジやフェイスブック、イベントなどでもMCLの様⼦が 覗くことができたりするので、ぜひアクセスしてみてはいかが でしょうか。

人生という旅


 今、私はMCLの活動に感銘を受け小さな居場所づくり(週一の喫茶店)を始めたり、ちょっと出版に関係する勉強を小さく学業の傍ら行っています。そして、2022年2月時点で大学3回生です。院進や就職など自分の今後について色々と考えています。

 そんな⼈⽣の「旅」の岐路において、私はミンダナオの「家族」に支えられ、導いて貰っている気がしています。

 子どもたちや友さんが教えて下さったことを、みんなが生き生きとできるコミュニティ・地域・社会づくりに活かしていくつもりです。そして力をつけミンダナオに恩返ししていきます。
 
「旅」は晴天ばかりでなく、曇りの⽇や⾬の時もあるでしょう。

進む予定でも思わぬ⾬には、休んだり寄り道をした⽅が良いかもしれません。
予定不調和的に、 それでも、いやそれだからこそ「旅」は素敵な気がしてきました。 

⾃分のちっぽけな旅では想像が及ばないことがたくさんあると思います。

 みなさまのこれまでの「旅」に敬意を払い、そしてどうかこれからの 「旅」も素敵なものでありますように。 


2018年初訪問時

ここまで読んで頂き本当にありがとうございました。 


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