読書note_

読書シリーズ②『私とは何か --「個人」から「分人」へ--』


「読書をするのに最も適した場所はどこだろうか」


最近そんなことを考える。noteなど執筆をする場所は、僕はスタバと決まっている。木のぬくもりを基調とした内装が落ち着き(土日の人の多さはカオス)、wifiがあり、one more coffeeの恩恵を受け ドリップが二杯お手軽に摂取する。現在の作業中も、皆さんご存知 @横浜ポルタ店である。


では、本を読む場所はどうだろうか。PC作業と同様か、と言われるとそうでもないかもしれない。僕個人が 姿勢保持が苦手な特性で、同じ場所に長時間ずっと座って、集中力を保つことが困難だ。PC作業よりも、手でページをめくる以外の動作がない読書は、意外とカフェは僕にとって適していない気がしてきた最近。

自宅も すぐ寝っ転がるので集中できない(基本集中力ねぇな...)。意外と答えは、「移動中の電車内、それもイヤホンで音楽を聴いて自分の世界に閉じこもる、座ると寝るから 敢えて立ちながら読む」が一番集中して読書ができている時間かもしれない。皆さんはいかがですか。



さて、読書マガジンシリーズ第二弾は

平野啓一郎氏著『私とは何か --「個人」から「分人」--』

を手に取った。平野氏は one of my best favorite novelists である。小説家である彼が、アイデンティティをテーマに挑戦したエッセイ作品。非常に面白かった。


目次

1.「本当の自分」はどこにあるか

2.分人とはなにか

3.自分と他者を見つめ直す

4.愛すること・死ぬこと

5.分断を超えて



1.「本当の自分」はどこにあるか

人間には、いくつもの顔がある。相手次第で、自然と様々な自分になる。人間は決して唯一無二の「(分断可能な)個人」ではなく、複数の「(分割可能な)分人」である

本定義の背景として、著者の幼少時代が例に出されている。三島文学に惹かれ、彼が愛したトーマス・マンの作品の虜になり、本を読み耽るようになった。家で本を読んでいるときの自分が本当の自分で、違和感を覚えながらも教室で友達と笑い合っている自分は「本当の自分」なんかじゃないんだ、と。


(分人主義を証明するための反証として)人間は常に首尾一貫とした 分けられない存在であり、自我(=本当の自分)は一つだけで、他は表面的に使い分けられた仮面、キャラに過ぎない という考え方。以下の理由で、誤りを証明する。


そうなると、私たちは誰とも本当の自分でコミュニケーションを図ることができなくなる。すべての人間関係が 仮面同士の化かし合いになり、他者と自分とを両方とも不当に貶める錯覚となるから。

コミュニケーションとは、相手との関係性の中で変化しうるものであり、何年もたてば 互いが出逢った頃とは、口調も表情も変わってしまうから。相互作用の中で生じるものなのに、いちいち仮面を付け替えただのと説明するのは無理がある。

他者と接している様々な「自分」には実体があるが、「本当の自分」には実体がないからだ。私たちは どこかに本当の自分があるのではないか、と考えようとするが、たとえどんな相手であろうと その人との対人関係の中で自分のすべての可能性を発揮することはできない。ひとつの実体としての本当の自分など存在せず、あらゆる人に見せているすべての自分(=分人)が「本当の自分」なのである。


一人の人間は「分けられない individual」な存在ではなく、複数に「分けられる dividual」存在である。それでは一体、「私」とはどういう存在なのか。



2.分人とはなにか

本書のキーワードとなっている「分人」という造語は、対人関係の中で生じる 分けることができる複数の人格、と解釈されている。


分人は、特定の誰かとの反復的なコミュニケーションによって形成される。そのプロセスは、大雑把に3つに分けられる。


① 社会的な分人

まず どんな人間関係も、相手のことをよく知らない状態から始まる。初対面の相手とは簡単な自己紹介でもして、何か当たり障りのない話から始めるのが普通だろう。天気のことやスポーツのこと、事件や芸能ネタなど。「不特定多数の人とコミュニケーション可能な、汎用性の高い分人」、これを社会的な分人とでも呼ぼう。

社会的な分人で交わされるコミュニケーションは 広く 浅いが、これがなければコミュニケーションが次の段階に深まることが難しくなる。この段階をすっ飛ばして、いきなり自分全開で話しかけると 相手は戸惑ってしまうだろう。一方的に相手の個性を押し付けられ、それに合わせなければならないのか..... というように感じさせるから。

このステップは、より具体的な分人へと分化する準備ができた状態のことである。


② グループ向けの分人

社会的な分人同士の次の段階は、特定のグループに向けた分人だ。一対一の出逢いを介した場合を除き、大抵の人間関係は 組織や集団を介して広がっていくものだ。学校や会社、サークルなどといったグループ向けの分人が求められる。

共通のルールや言語があったり、グループ独特の風土や文化、服装や行動や言葉遣いなどに どことなく共通するものが備わる。社会的な分人が、より狭いカテゴリーに限定されたものが、グループ向けの分人だ。


③ 特定の相手に向けた分人

何度となくやりとりを通し、互いの志向のクセやテンポを理解し、相手に特化した より具体的な分人(=意気投合のような状態)が登場する。

すべての関係性がこの段階まで至るとは限らず、ここまでくると 運や相性が作用する影響も大きい。


(はやし。個人的に この章の流れで説かれた「八方美人はなぜムカつくか」という皮肉の一節がとてもおもしろかった。ここでは割愛するが、気になる人は想像してみてほしい)


一方的に喋る人が苦手、というのはよく聞く話である。お互いに 心地よい分人化を進めるためには、相手がどういう人なのかよく見極めなければならない。コミュニケーションがうまくいかない人は、まず社会的な分人という入りの部分で 何か相手に違和感を与えているのかもしれない。勝手なペースで分人化を進めようとしているかもしれないせいで、相手は身構えて 抵抗を示しているかも。


分人という考え方を用いると、学校でいじめられている人は 自分が本質的にいじめられる人間などと考える必要はないのだ。あくまで いじめる人間との関係性の中で生まれる問題であり、サッカーチームで練習したり 家で過ごしている自分が楽しく 居心地がいいかもしれない。その分人こそを足場として、生きる道を考えていく必要がある

学校での自分とサッカーチームにいる自分とは「別の分人だ」と区別できるだけで、どれほど気が楽になるだろうか。虐待やいじめを受けた自分は、その相手との分人だったのだと 区別して考えるべきだ。自分は愛されない人間として 本質規定してしまってはならない。「人格は一つしかない」「本当の自分はただ一つ」という考え方は、人に不毛な苦しみを強いてしまう。


私という存在は、ポツンと孤独に存在しているわけではない。常に他社との相互作用の中にあり、他者を必要としない「本当の自分」というのは 人間を隔離する檻である。一人部屋でいるときさえも、様々な分人を入れ替わり立ち替わり生きながら考え事をしているはずである。



3.自分と他者を見つめ直す

自分が他者との関係の中で生じた分人の集合体だということは、当然のことながら 他者もまた、同様に 様々な人間との分人の集合体だということだ。あなたと接する相手の分人は、あなたの存在によって生じたものである


いつだって自分の中には複数の分人が存在しているのだと思えると生きやすいし、そのバランスを俯瞰して調整できるといい。不幸で 辛くて 死にたいと思っても、それは複数ある分人の中の一つが不幸になっているだけなのだ、と意識できるといい。一つの分人が支障をきたしても、他の楽しくて 幸せに生きることができている分人を足場にすることを考えればいい。


私たちは日常生活の中で、複数の分人を生きているからこそ、精神のバランスを保っていける。会社での分人が不調になっても、家族との分人が快調であるなら ストレスは軽減される。すきな分人が一つでも二つでもあれば、それを足場に生きればいい。「自分がすきな分人」というのは、必ず一度他者を経由している。自分を愛するためには、他者の存在が不可欠だという、その逆説こそが、分人主義の自己肯定の最も重要な点である。



4.愛すること・死ぬこと

恋とは、一時的に燃え上がって 何としても相手と結ばれたいと願う、激しく強い感情である。愛とは、関係の持続が重視される概念だ。多くの場合、恋愛は 恋から始まって、愛へと深まっていく。


恋は不可避的で、出会いさえあれば 決して難しくない。一方で、そこから関係を持続させていく愛の段階に入ると、必ずしも簡単ではない。どんな形であれ、私たちは愛する人と一緒に過ごす時間が心地よい。持続する関係性とは、相互の献身の応酬ではなく、相手のお陰で それぞれが自分自身に感じる何か特別な居心地の良さなのではないだろうか


愛とは、「その人といるときの自分の分人がすき」という状態。他者を経由した自己肯定の状態である。その相手といる時の自分(=分人)がすきか・きらいか、ということが大きい。愛とは、相手の存在が あなた自身を愛させてくれることだ。あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ。


年齢と共に、人間は支社との分人を否応なく抱え込んで生きていくことになる。あなたの存在は、他者との 分人を通じて、あなたの死後もこの世界に残り続ける。一人が死ぬことは、その人の周辺・さらにその周辺へと、無限につながる分人同士のリンクが失われていくことなのである。殺人者は、一人の人間を殺すことで、現実には こんなにもの大規模な破壊をもたらす。


取り返しのつかない分人を抱え込んでしまった人間について、私たちは どう考えられるだろうか。



5.分断を超えて

私たちの社会のコミュニティの分断を、どのように乗り越えていくことが可能なのだろうか。私たちは 半ば意識的・半ばは無意識的に、つきあう相手を選びながら 分人の構成比率を考えながら生きてきた。


今日、コミュニティの問題で重要なのは、複数のコミュニティへの多重参加である。それを可能にするには、分人という単位を導入するしかない(一人の同じ人間が 全く思想・立場の異なるコミュニティに存在すれば、それは裏切りとなるからだ)。


2000年代に入り、幾度となくテロリズムを経験して、私たちは距離的に遠い他者といかに和解し得るかという大問題をつきつけられた。他方で、ネットの登場により 他者の圧倒的な多様性も経験した。


私たちは、ひとり一人の内部を通じて、対立するコミュニティに融和をもたらすことができるのかもしれない。コミュニティによる社会の分断を克服するために、大きな一なる価値観で統合しようとするのではなく、双方に同時参加する複数の小さな結びつき=私たちの内部の分人によって融合を図る可能性を秘めている。




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