自分は自分か

自分は心も体も絶えず変化して、時には他人を移植したりしています。そこで、湧く疑問が過去の自分はそこに存在していないのに、自分とすることができるのだろうか、ということです。
ここでまず考えないと思ったことが自分についての定義です。自分として挙げられるものは3つあると思います。心、体、魂です。しかし、魂についてはとても難しくなるのでもっと先で書きたいと思います。また、これは私の一方的な主張なので全く正解とは限りません。

心というのは流動することが当たり前であるので変化によって自分を失うことはないでしょう。人間には喜怒哀楽がある事は知っていると思うので疑うこともないと思います。しかし、心というものは非物理的すぎます。脳内の分泌物質などによって感情はもたらされていると思いますが(あまり知らないです)その科学的説明はもはや心ではなく、体ですよね。ここでは心のみを自分として考えた時の話なので不適です。では、心とは何か、私は心とは感受性であると思います。結局脳の作用で証明できるじゃんと思うかもしれませんが、そこを証明せずにも理解はできるはずです。感受性というものは変わっていきます。そこには必ず経験が伴っているのです。極論を言ってしまえば生命が生まれて(受精した瞬間)にはDNA情報だけであり経験はないのでみんな同一だという事です。そこから五感を用いて人は学習によって分化して自分を形成すると思います。ここにおいての五感とは、情報であって脳にもたらされる影響についてではないです。しかしその道は様々な影響を受け続けて曲がっています。また過去とも一致しません。なので、過去の自分も未来の自分も現在の他人と同じように他人なのです。
つまり、心を自分とした場合、自分というのはその一瞬一瞬の感じ方なのです。このようにすると、最初に言った心は変化するものという話と矛盾します。心は流動体であるから昔からの自分、未来の自分も存在していいのではないかと。しかしながら、それは違うと思います。過去の自分とされたものが本当に自分であると仮定すると、相当の多重人格の出来上がりではないですか?つまり、過去の自分は他人ではあるが、その経験値だけは共有しているのです。感じたのは他人でありそこで得た物は経験とすることができます。すなわち、「他人を見て学べ」の情報がより明確ということです。こうすると、多くの人は納得してくれると思います。
ここまでを読んでやはり自分は変化してきた過程を含め自分であるという人がいるかもしれません。しかし、私は思います。それは色々な経験を持ち合わせた今だけの人間であると。その方が説明が容易であることは言うまでもありません。
結論、私はこう思います。心が自分であった場合、自分とは学習によって得た経験である。

次の投稿では自分を体としてみた考え方について述べようと思います。