見出し画像

私は私と手を取り合って

久しぶりにお会いした方と帰りの電車が一緒になって、乗った駅から私が降りる駅までずっと日頃の愚痴をこぼしていて、溜まってるのは分かるけど、なんだかなあと思ってしまった。私は他人のフリをして少し距離を取って、たまに相槌だけして適当に流した。声が大きくて怖かったのもある。

でも、愚痴をこぼさずに毎日過ごすよりかは、たまに息抜きで吐き出したほうが身体には良さそう。でも、受け身側も一所懸命受け取っちゃうとそれこそ悪影響だから、適当に受け流す私のスタイルも悪くはなかったな。

そういえば最近、やたらと懐かしい人たちに再会する。嬉しさと久しぶりということで少しの緊張、そしてこんなに楽しかったのになんで離れたんだろう?と思った30分後には「ああこれが嫌だったな」と思うこともある。私もきっと、そう思われてるだろう。

人の関心のほとんどは人間関係についてなんだと、大勢と喋っていると分かる、私もそう。でも、そういう日の帰り道一人になると、映画の話とか本の話とか音楽の話とかしたかったなあっていつも思ってる。それは、学生時代に戻ったような気分で、憂鬱な感じと懐かしい気分となって、そしてよくあの環境で息が出来てたな、と思う。あの頃は楽しかったのに。

終電間際の改札は酔っ払いや誰かを待つ人、何人かと笑い合ってる人たちがいる。私はこの、私が介入していない賑わった光景を見ているとき、いつも必ず一人だけど、なぜか寂しいとは思わなくなった。みんなの方がもしかしたら孤独なんではなかろうか。私は私と手を取り合って生きていけるようになったのかもしれない。

よろしければサポートをお願い致します。マガジン「一服」の資金に充てます。