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ファクトは大事だけれども

報道や政策や意見が、ファクト(事実)に基づいていることは大切です。というか基本です。あたりまえのことです・・・本当はね。
でもそのファクトって、改めて考えてみるとなんなんでしょうか。どこまでを指すのでしょうか。英語でいうところのfactとtruthの違いはなんでしょうか。

似たような疑問はジャーナリズムに興味のある人なら一度は考えたことのある問いかな、と思います。
もう少し単純に言い換えを試みると、factにはtruthがどれくらい反映されているのんか、そもそも人間による意味づけを超えたtruthなんてものが実際のところあるのか、という疑問です。

「窃盗罪で逮捕の男」

よく心理学や哲学の文脈なんかで出てくる「家庭が貧しくて病気の妻のために薬を買えないので、仕方なく薬を盗んだ夫」の話を例にとってみます。

この話の全貌、すなわち「真実」を理解しようとならば、妻がなぜ病気になったのか、どのような病気なのか、なぜ貧しいのか、公的扶助は受けられないのか、受けられないとしたらなぜなのか、夫と妻の普段の関係性はどうなのか、頼れる相手はいなかったのか、等々の追加情報が山ほど必要です。ただの犯罪として扱われるべきなのか美談として扱われるべきなのか、ファクト、すなわち現実に見えているありのままの状態の記述だけでは、到底判断ができません。

いまファクトが大事だ、というときに網羅されているレイヤーは、「窃盗罪で逮捕の男」から「貧しくて薬を買う金がないが、妻の病状があまりに悪かったので、罪を償う覚悟で仕方なく薬を盗んだ」にレベルアップしたものくらいにとどまっているように思うのです。かといって、さきに述べたような事情を全部明らかにしようとすれば、それは報道ではなく裁判になってしまいますし、あんまり読まれないだろうし、そもそもプライバシーだわ。
では、何を書くべきなのか・・。


まあ普遍的な疑問ではあるものの目新しさはないので、ずっと頭のすみっこにいるアイツ、みたいな感じで持っていました。
でも昨冬、こんな定義に遭遇して、電撃が走りました。

Fact (the latest version of the truth)
事実(真実の最新バージョン)

大学の授業でつかったハンドアウトのなかに、私以外のクラスメイト全員が素通りするくらいさりげなく登場したこの定義。初見から1年くらい経つけれども、いまだにグッときます。

もともとなにかを言葉で定義づけることが大好きで、美しい定義や言い得て妙!という定義に会うと興奮してしまう体質なのですが・・
この興奮を人に伝わるように書き起こすには、私自身のジャーナリズムに対する憧れと反抗とを少し聞いてもらわねばなりません。(以下、英語的な区別に着目したいのでfact、truthという表記で行きますね。)


Factこそが一番大事なのか?

トランプ氏の大統領選を契機に「フェイクニュース」という言葉があちこちで使われだしたり、もはや本当の情報が力を持たず、煽情的な報道や個人の意見が影響力をもってしまう状況を嘆いてか皮肉ってか「post-truth」という言葉が2016年のOxfordのWord of the Year(イギリスの流行語大賞的なモノ)に選ばれたり。
書籍『Factfulness』もめちゃくちゃ流行ってミリオンセラーになり、コロナの報道にしてもfactが大事だ、印象に惑わされずfactに刮目せよ、ということが結構言われていたような。
全人類メディア化時代に、factやtruth<<<刺激的でオモシロいこと、という価値観がおおっぴらに可視化されてしまって、逆にfact/truthの重要さがことさらに叫ばれていたここ数年だと思います。
もちろん冒頭でも述べたように、factの重要性には全面的に同意します。自戒も込めて、あまりにも、factに基づかない思い込みが多すぎる。

でも、そのうえで、目に見える範囲のfactを知ったらそれでいい、というのも違う気がします。

「勝負の三週間」的な標語よりはだいぶマシかと思いますが、factだけに拘っても仕方がない気がするんですよね。そのfactは実際なにを映したものなのか、factの裏にどんな構造やどんな人の存在や感情があるのか、あるいは歪曲した情報が流布しているとしたら、それはなぜなのか、というようなことの方が考えるに値する。私はそう思うのです。factを目的化してはいけないと。

だからいつも思考が辿り着いてしまう先が、メディアが「ありのまま」を伝えるという姿勢でいることの功罪、というか不可能性、といいますか。
ある社会の問題を、ある人間が文字や映像という2次元の情報に落としている以上「完全に中立な報道」なぞありえないんです。言語(記号)表現に限界があるのは勿論のこと、どうしたって報道者の知覚の限界とバイアスが反映されています。自分は自分の感覚に基づいたことしか言えない。

よく耳にする、そして私も便利なのでたまに使ってしまう「個人的には~」というフレーズも、いつも「いやすべての発言は個人的なんだけどね・・」というツッコミをぐっと飲みこんで聞いています。やなやつだな。

だからtruthっていうのは想像上の「イデア」みたいなもので、メディアはそれを分有するしかない存在で、いつまで経っても誰がやっても不完全、やるせねえなぁ、と思っていました。
伝える、ということを仕事にするとしたら、その終わりのない闘争の中で、功罪を自覚しつつ、恥じ入りながら、それでも理想を掲げてやっていくしかないんだろうなと。
たとえるなら、すべての物事は多面体みたいなもので、一面から見ているよりは見取り図や展開図にした方がその立体を正確に理解できる。でもどんな図にしようが2次元上で「ものそのもの」を視ることは不可能で、色んな情報を集めて頭の中で作るしかない、そんな感じ。

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だいぶ前にめちゃくちゃ流行った(?)この有名な画像なんかも、

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メディアの恣意的なウソ、虚偽報道を風刺しているだけでなく、
結局切り取って伝えることしかできないメディアの限界みたいなものも表しているのではないかと勝手に解釈しています。

でもfactはtruthの最新バージョン、という定義を採用するならば、ジャーナリズムの限界は変わっていないにしても、今見えていることをアップデートしていけばいいと思うことができます。factは大事、でもそれ以上でもそれ以下でもない。factを目的化してはいけない。

これは間違った解釈だ!この記事はこの観点が抜けている!と糾弾するのは容易いし、高みの見物で指摘するのは気持ちのいいことです、だから沢山のひとがいまそれをやっている。でもfactはアップデートされる前提のものなのだから、私たちの側が日々学び続けるしかない。factはより善く生きるための足場にはなるが、とどまり続けるものでもない。

これが"fact (the latest version of the truth)"、に心動かされた理由です。
factの重要性と同時に、その限界というか領分をはっきりと示してくれ、fact崇拝気味の社会に疑問を抱きつつあった私の脳に刺さりました。

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普段いちばん一緒にいるともだちが「人生は認知ゲー」という名言をのこしていましたが、件の定義はまさに私の認知を塗りかえてくれました。

なんでもそうかもしれない。自分が出した成果や失敗、というfactと、その裏にあったその時の気持ちや会っていた人、摂取していたコンテンツといった状況、あるいはその成果やら失敗やらを生み出した人間性みたいな部分(truth)。これが<わたし>の最新版なんだなあ、と。いくらでも後から塗りかえられますし、この姿勢は自分の失敗にも寛容になれるメタ認知の技法だと思います。

がんばろう新成人。






*不定期更新* 【最近よかったこと】東京03単独公演「ヤな覚悟」さいこうでした。オタク万歳