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昔のお話

Micheru

ずっと加筆修正していく。もう一度動き出したからこそ書けている。売る気持ちにもなった。買って、いろんなことを考えてほしいけど、考えなくてもいいし、興味本位で覗いてくれたらいい。ずっとずっとディテールが加わっていく。後半は楽しい内容とも取れるような、おもしろくもなるような話になると思う。冒険になっていくから。

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逃げるように、京都の山の麓に住み始めたときのこと。

わたしはその時、何に対しても怯えていた。

人と話してはいけないと思っていた。人と話すと、お互いの人生を変えてしまうし、それが悪いことだと思っていたからだ。

なぜ悪いのか。それは、当時、わたしは失恋をしたばかりだった。わたしは恋愛体質だったので、それはひどくひどく傷付いたのだけれども、それはきっと、彼も同じだったのだと思う。恋愛は、相手によって自分が変えられることでもあるし、同時に自分が相手を変えることでもある。

そうやって、お互いが変形したところで別れたら、相手無しにはとてもいられないほどに辛くて淋しい思いをするようになってしまっている。

だから、会話をして自分も相手も少しずつ変わっていくこと、そういう経験に少しずつ臆病になっていた。また、お互いを不幸にするその始まりなのだと考えていた。

二度とそんなことはしたくないと思っていた。もしこの辛さを相手も感じているなら、ほんとうに止めなければいけない、自分は消えなければいけない、だけど死ぬのは無理だった、この辛さの中で、「忘れてほしい」、「それも言えたものではない」、「酷い話だ」、「酷すぎる」などと考えてはずっと苦しかった。

この話は、わたしは恋愛に限らないと思う。友人関係であれ何であれ、そうして仲良くなってしまって、相手がいないことがとても寂しく感じてしまうことは、あまりに辛すぎる。もうこれ以上は耐えられないと思った。

人を好きになって、仕事も対話も人との関わりも、どの瞬間も本気で生きていた。

突然のことだった。この辺りはディテールを後で加えるだろうが、その突然の別れが訪れてから、文字通り毎晩泣いていた。

毎晩どころじゃない、毎朝。そして毎日、時間は問わず、昼にも夕方にも泣いていた。それも、大泣きしていた。「うわあぁぁぁぁぁぁぁあん」と、大声で言っても、何度言ってみても止まらない。誰も来ない。抱っこされに来ない。その涙は全部が大粒で、病気みたいに治らなかった。

そんな日々が続いて、一年後のある日長いトンネルを抜けるようにわたしは日本放浪を決行した。

だけどその前にスペインに飛んだ。

別れてから直後、涙どころか大きな咳が止まらなくなり、声が出なくなっていた。聞き取れないくらいに。

そんなとき、スペインにいる姉からフェイスブックで連絡があったのか、それとも母だったか、わたしからしたのかさえ覚えていないのだが、その二人と連絡を取った。母はホンジュラスの人だが、その時期スペインの姉の所で出稼ぎをしながら移住を計画していた。母というより姉の計らいだった。ホンジュラスよりもいい所だからと、長男の弟と母をスペインに呼び寄せていた。

そしてわたしもそこに行くことになった。姉の家族とわたしたちの共通の弟と、当時アルゼンチンかどこかから来ていたホームステイ中の女の子が住むバルセロナの小さなマンションに行くことになった。姉は、何を話しても虚ろになっているわたしとフェイスブックでチャットをして、チケット代を出してくれた。わたしは、そうだ、母親に挨拶だけでもいいからして、昔から引きずってきた何かの悲しみから抜け出さないといけないと強く感じていた。その話も後でしようとおもう。

それで、わたしからスペインにいる母に連絡をして会いに行こうと決めていたのだった。 

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バルセロナのボロいマンション。

暗い部屋で、窓がマンションの真ん中の空洞に面していて、向かいの部屋や斜め下、斜め上などの部屋がバラバラに見えた。カーテンがついていたり、暗かったりで、中の様子まではっきりと見えないものの、ずっと見つめていたら住人と顔を合わすこともできただろう。落ち込みすぎていてそんなことはしなかったが。

ベッドと低い箪笥があるなんでもないその部屋でわたしは、いろんなことを考えた。説明の仕方がわからないのだが、簡単に言うと脳内から一人一人知っている人たちが消えていくのを感じた。

その時わたしは、「この地球上の誰にも会いに来ていない」と思った。

今思えばそれは、会いに来たけど「失敗した」と感じていたのかもしれない。

またこんなことも考えた。会いに来たとは言っても誰に会いに来たかがわからない。全員だろうか。一人もいないだろうか。誰でもないのか、誰かなのか。自分というオチなのか。そんなことを言っても自分はここにいる。

とにかく混乱していた。何もわからないことそれ自体もすごく怖かった。スペインに発つ前の日本では街中や電車で震えていたくらいだ。スペインではどこにも出掛けなかった。用事のために動いた。無理やり身体を歩かせた。それ以外はずっと窓のある部屋で真っ暗にして寝ていた。百日咳ではないかというほどずっと席をしていて、夜になると酷くなり寝てはいるもののちゃんとした睡眠は取れていなかった。それに加えて、眠りに落ちたと思ったら毎回と言っていいほど悪夢を見て起きた。夏というのもあったからか、寝汗をかいて起きては、フラフラとシャワーを浴びるか汗が引くまでまた寝ていた。

姉の家は貧乏で、水道代を心配していた。だから早朝に起きていたら海辺に行って海水浴をした。

短期間とはいえ何もできないで引きこもっていてはいけないとはわかっていながら、その時のわたしには何一つできなかった。姉はわたしにスペインに残って仕事を手伝ってほしいとも言った。しかし日本に生まれたので日本に居るべきだとも既に感じていたし、なにより大好きだった人が居ない場所なら到底そこに住み続ける気にはなれなかった。その大好きだった人はあまりに頑固な人であったしそもそも仮に元通りになるというなら、わざわざ一度でも別の人を選んで傷付けるような人とはもう何の望みも残っていないとわかっていた。それでもその人と遠い場所に居ることが耐えられなかった。赤ちゃんが親と引き剥がされた気持ちだった。

話を戻すが、90%ほど、ずっと住むことはないだろうと思いながらも、頭がはっきりとしていないこともわかっていて、もしかしたらそこで生きることを選ぶかもしれない未来の自分がわからないので、いろいろとやるべきことは考えた。その間、炊事洗濯掃除はしたし甥っ子を公園に連れて行く任務だけをこなしていた。

日本に帰ると、わたしは前のバーテンダーの仕事を辞めた後で、辞めた理由も健康上の問題、将来性の問題、システムの問題、とあって決心したものだったし、再びその仕事はできなくなっていた。

住んでいたシェアハウスはゆるい感じでメンバーも年齢的にずっと子供みたいに集住するわけにはいかないと思い始めていた頃で2年契約の更新を見送り、解散していた。個人的にだがわたしはわたしで精神的に一刻も早く京都の思い出深すぎる町を出ていかざるを得ない状況にいて、わたしがスペインにいる間にクロージングパーティーが行われたのをツイッターで少し見たぐらいであった。いつも肝心なときに個人的に問題を抱える傾向があった。そんなこともあり、日本に戻っても行く宛がなかった。親がいると言っても一緒に居すぎると健康が下り坂になることもあり、家を出ているわけで、戻ってもそこはホームとは限らない。母親は8歳のとき離婚してからずっと日本には居ない。

とにかくわたしは9月にまだ最低でも安全な父の家に戻り、一年が経った。もう血縁であろうと何も信じていなかったわたしからは世界の全てが恐怖に感じていて、そんなときはどこにいても精神状態は変わらない。

翌年の春頃派遣の仕事をいくつかして貯金が12万円あった。

そしてわたしは、父の家に戻った日から内心わかっていたのだが、ここにずっと居られるわけがないと感じていて、夏のとある日の昼過ぎに、ほとんど荷物を持たずに家出した。

わたしは石鹸と最低限の野宿でも過ごせるよう熟考して選びぬかれた持ち物を軽いトートバッグとビニールのリュック型のプールバッグのようなショッピング袋に入れて、隣の駅にいた。

暑すぎることはない夏のある日で、きっと蚊に食われるんだろうなと思いながらな、心が寒い感じがしながら、隣の駅のどこかそのへん、にいた。

どこかそのへん。よく知ってる地元の駅だけど、何を言っているかわからないと思うけど、今までこの駅のこんなところにいたことあったっけ?と思うようなところ。(今度行ってみようかな…。)

そのヒッチハイク放浪はこんなだった:

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