可愛いって言葉が呪いだった

人生の中で、可愛いと言われたことが数え切れるほどしかないと思う。そんなことないかも。分からない。でも、中学生の時も、高校生の時も、褒められた記憶がほとんど無い。容姿だけじゃなく、何事に関しても。受験に受かった時ぐらいかも。いや、本当はもっと褒められていたはずだけど覚えていないだけなのか、本当に褒められてなかったのか。
でも、容姿を褒められたかった。私の周りには可愛い子が沢山居て、いつも私は可愛い可愛いって褒める側だった。
誰もが認める可愛い子の仲良い子って役割、本当はすごい大変なんだよ。比べられるとかじゃなく、ああ、羨ましいなあの気持ち。嫉妬にもならないけど、私も可愛く生まれたかったなあってずっと思ってた。

アメリカの高校に留学した時、アジア人が私だけだった。そして私はその当時メイクがものすごく下手だったからお世辞にも可愛いとは言えないような感じだった。でも、みんな褒めてくれた。サラッと、今日のその服可愛いね!とか、メイクいいね!とか、Snapchatでも私の写真を載せながら褒めてくれた。でも、それでも見た目についてcuteって言われたことがなかった。beautifulとかgorgeousとか。それはそれで嬉しかったけど、私って可愛いって何で言われないんだろうなあって思ってた。今なら分かる、cuteは子供っぽさの可愛さの言葉なんだけれど、大人っぽい見た目だったから子供ぽさに憧れてたんだろうな。その当時は英語も分からなかったからcuteが全てだと思っていたし。そして卑屈だった。アジア人だから〜って思ってた。いや確かにアジア人だったからって嫌な思いも沢山したけど、もし私がその当時アジア人で居ることに誇りを持ててたら全く違う生活だったかもな。ないものねだり。でも、その頃から、私って自分のこと素敵って思っていいんだ、って自信がついていったような気がする。

日本って、白人が美容整形の広告とかに出てくるから、美の基準が白人!ってなってる気がする。アジア人!って世界から見たら美しいけど、自分がアジア人ってことは誇りに思えない感じ。というか、思わされないように洗脳されてるのかも。
逆に、他の人種の人達は私達の低い鼻とか切れ長な目とかが欲しいって言う。ブロンドじゃなくて、黒髪が良かったとか。嫌味か?と思っていたけれど、本当に心の底から思っているらしい。結局ないものねだりで、美しさは本当に人によって違うんだなあってつくづく感じる。そして、美の基準にいちいち躍らされるのが可笑しく感じる。

でもね、もともと自信がなかった理由。ブスだとかデブだとかいじめられた時があったから。デブじゃなかった。それのせいで摂食障害にもなった。そんなこと無かったのに、周りがそう言うからそうなんだろうって思ってた。何しても「可愛く」なれない。今もたまに、私って本当はブスなのかもしれない、って思っちゃう時がある。呪いだ。

自分が変わったなあと今振り返って思い出せるのは、大学3年生ぐらいの時から。日本人の可愛いを目指すのを辞めた。可愛いって言われなくてもいいやって思った。可愛いだけではなく、褒められなくてもいいって思えるようになった。自分の好きな洋服を着て、アイラインもグイグイあげてまつ毛もバサバサ長いのをつけて好きなメイクをしてたら、Beautiful,Gorgeous,綺麗ってよく言われるようになった。ああ、私ってブスじゃないんだって思えるぐらい言ってもらえた。大人になったからか、高校生の時にあれだけ言われたかった可愛いよりも、綺麗って言われることに喜びを感じることが出来た。周りに居る人も変わった。自分の価値を分かってくれる人達に巡り会えた。今は、褒められたら、「知ってる」なんて冗談も言えちゃったりする。
今は、体重は当時と変わらないのに、体型も褒められる。あの時がきっと異常だったのだろうし、あの時の私は環境が悪かったんだろうから、報われないなとも思うけれど、それが無かったらこんな文章も書けてないから、何事も経験は本当に大事だ。

だから、卑屈にならなくなった。
羨ましいなあって、人と比べることも無くなった。もちろん、あの子の鼻すごい綺麗!とか思うよ。でも、だからってそう生まれたかったなあって思わなくなった。自分の何かを変えたいか?と聞かれたら、変えなくていいって答えられる自信がある。例えば今と少し容姿が違っていても同じ事を答える。

自分が変わったんだろうな。コロナ禍で、自問自答する機会が増えて、自分のことをよく知れた。人と話す機会も少なかったから、人の評価よりも自分がどう在りたいか、を優先出来るようになったのかもしれない。そして、自分が変わると周りも本当に変わる。自信があるのとないのだと、人からの態度も全く違う。そして、自分の受け取り方も全く変わる。これは大人になったからなのかな。だから大人になるの悪くないなあって思えた。

でもね、気がついたのは、他人の評価する美しさよりも、自分で気がつける美しさの方がもっと価値があるってこと。他人の評価は、自分の意見をもっと寛大に見られるようにする手段でしかないから。
そして、美しさは創るものだってこと。創り出すことから生まれるの。アートだってそこにあるだけで素敵だけど、誰かが創ってる。人もそう。美しい顔と体がそこにあるだけでは美しさは見い出せないものだと私は思う。

今でこそ、そう言えるけれど、17歳の私は辛かった。可愛くいるって学生のステータスだったと思う。あれだけ悩んだけど、今はミス・ユニバースのセミファイナリストになれてるから。絶対なれないって思ってたのに、夢にどんどん近づいていってるから。結構毎日朝起きて、あー夢みたい!って思う。セミファイナリストでそうなってるから、日本代表になんかなったら私どうなっちゃうの!
そして女の子は皆素敵!どんな体型でも、どんな顔でも。好きな人の好みに近づきたいのも分かる、私もそうだった。でも、いつかありのままを受け入れてくれる人が現れるし、人の為に自分を変えようとしないで欲しい。それが、好きな人のためじゃなくて、社会に溶け込む為だとしても。
それが、日本と欧米の美の狭間にいる私だから言えるメッセージです。

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