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満員のリュックから出た蜘蛛の糸

9月に入って通勤電車が混みだした。
中高の生徒が破壊力抜群の”何たらface”というリュックを背負って、扉付近に屯するせいだ。友人同士頭を寄せ合って円陣を組むかのように集まる。それぞれが目の前の友人相手にスペースの確保を図るから、リュックを含めると更に大きな面積を占有する事になる。ただ面白いのは、互いにほとんど話をせず、スマホの画面に見入っている。大抵はゲームか、漫画、動画の類で、時折参考書など。周りの様子など気にする気配も無いし、もちろんそこには、自分たち以外の「人」の存在は”ない”。
空いている時に奥まったところで吊革にぶら下がると、下車の際は「ごめんね、通してね」と大の大人が何度も頭を下げなければならない。イラついてぼやきたくもなる。

この状態で更に混み具合が酷くなると、「当たった!」、「踏んだ!」などと怒号が発せられることがある。声の主の多くは男性、それも比較的年齢が高い。女性が少ないのは世の不条理に慣れているのかもしれない。それとも、男性の方が感情のコントロールを司る”前頭葉”が年齢とともにより早く退化するのか。
今日も高校生を「馬〇野郎!」と大声で怒鳴りつけている男性がいた。苛立つ気持ちが判らないでもないが多少見苦しい。一言で終わればマシな方で、今回は暫く怒鳴り声が続いた。もちろん子供らにも、もう少し自身の鞄や靴の「ありか」を管理してもらいたいものだとも思うが、怒声ではなく”冷静”に諭すようにならないかと思う。

というのも、件(くだん)の男性も何十年か前には同じ中高生であったはずだからだ。若かりし頃の反省から、後輩に他者への配慮を促し諭すことは有益だが、怒鳴り散らすだけでは、周りも巻き込んで不快の渦が広がるだけである。誰もが「通る道」と温かいまなざしで、怒りそのものは収める事は出来ないものか。

同様に、最近は社会全体の風潮として「他者」の誤りを赦さない雰囲気が蔓延しているように思う。少し社会常識を逸脱した他人がいれば、自らが直接の被害者でもあるまいに、様々な手段を駆使して容赦なく、そして完膚なきまでに叩きのめす。いや社会常識を逸脱しているどころか、自分のかざす”正義”と相いれないだけで同様の行動に出る。社会の木鐸と胸を張るマスコミにおいても、これを唆し助長しているように見える。そして皆で藁をつかもうとする者の手を振りほどいて寄ってたかって沈めにかかる。「怒り」が「攻撃」の引き金を引くのだろうが、地獄絵図さながらだ。

とここまで書いて、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出した。
極悪人のカンダタが地獄に落とされ、それを可哀想にと思ったお釈迦様が、唯一の善行を思い出し、極楽の蜘蛛に糸を垂らさせて助けようとしたお話だ。結末はご存じの通りである。
この世に生を受けた我々は全て、この一本の蜘蛛の糸に縋って生きている。他者を貶めたり蹴落としたりして生き延びる術は持たないのである。



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