対機説法#1「宗教観」
『隣人を愛せよ』
この概念を当たり前に実行する人々がいる。
宗教的な考えを日常的に実践し、教わる前より体感し身に付けているのだ。
そんな話から始まった此度の対談、お相手はIT企業で働くW氏。
日本だけでなく海外でも活躍中の彼は、その生活の中で触れた宗教観の違いに違和感を抱いたのだという。
冒頭の「隣人を愛せよ」、これはキリスト教の思想である。
海外(キリスト教圏)ではこの価値観を土台とした行動が、個々人の人間性や立場と関係なく行われ、その姿に共感したW氏は自身もそれを実践するようになったという。
他者をいたわり調和を重んずる言動は自他ともに心地好く、精神を豊かなものへと導いてくれたのだそうだ。
しかし、国内に戻るとそれは違和感に変わった。
多くの日本人は、その行動に疑念や不信感を覚えるということに気が付いてしまったのだという。
他者を慮り、困っている人があれば力を添え、善きことがあれば自分事のように喜ぶ。
誰も困ることの無いそんな精神を、日本人は訝しく感じてしまうのだと。
「無償の善意には裏がある」
「借りを作るべからず」
そんな誤った個人主義の蔓延が、やもすれば現代の孤独感の助長・幸福感の低下に繋がっているのかも知れない。
「日本人は無宗教」
いつからか巷で囁かれるようになった、そんな国民性。
しかし、実際それは戦後ほんの数十年のことでしかないのだ。
戦前の日本人は「神道」や「仏教」等の宗教を、それこそ学ぶまでもなく日常に取り入れ身に付けていた。
「お天道様が見ている」と自制心を働かせ、「八百万の神々」によって物や資源の貴重さを感じ取り、教え、受け継ぎ、共存をはかってきた。
それが、戦後の欧米文化の流入により一変した。
中でも「教育の変化」による影響は大きいだろう。
「宗教」を禁じ、教えず教わらずを繰り返した結果、「こころの教育」というモノが概念から薄れてしまった。
文明の発展により人と人との交流の機会が減ると、日本人のコミュニケーション能力は同時に衰退の一途を辿ってしまったのだ。
しかし、だからといって日本人の感性が他国に比べ劣っているとか、そういう話では決して無い。
むしろ、島国に生き協調を重んじてきたその精神は、他国に負けぬ豊かなものであると言えるだろう。
現代人は、その使い方を知らないだけなのだ。
日本人の国民性を語る際、よく「白黒つけない」という点が挙げられる。
これを、現代では「グレーゾーン」なんて言ったりするが、それは誤りであある。
日本人は古来より「感謝」と「受容」を重んじてきた民族だ。
世界共通語にもなった「もったいない」精神や主語を置かず他者目線で意を伝える国語など、そのどれもが「個」ではなく「衆」を重んじる「感謝」と「受容」の文化なのである。
その目で見ると、先述の「白黒つけない」には別の答えが見えてくる。
それは「虹色」だ。
ここでいう虹色は、所謂「青・赤・緑…」等の七色が並んだものではなく、和色の虹色である。
和色の虹色は、一見すると桃色のようであるが光の加減に依って黄だったり紫だったり様々な色に見えるというモノなのだそう。
故に日本人の「白黒つけない」は、「白黒(正誤)を濁す=グレー」ではなく「白黒ではなくそれぞれの色を受け入れる=虹色」なのである。
意見の対立が起こった際には「どちらも悪い」でなく「どちらも正しい」と言う、それが本来の日本人が持つ国民性なのである。
しかし、現代ではそんな精神も形骸化した状態でしか遺っておらず、このままではさらに廃れていくことだろう。
とすると、今を生きる私たちは何をするべきか。
「子供たちへの教育を変える」「知っている人間が知らない人間へ教える」etc...
色々と策はあるし、実際に講じられていることだろう。
が、中でも一番重要なのは、やはり『日常的に実践し体感する』ということだろう。
W氏が海外で宗教的価値観を土台とした行動に共感し、自身にも取り入れたように、それを「心地好い」と感じ、そしてそれを「実践できる場」が必要なのである。
いくらそれが良いものであるとわかっていても、怪訝な目で見られる環境では実践することが難しいだろう。
だから、先ずは自身がそれを実践し、行うと同時に「受け止める身」として在らねばならない。
そうして、徐々に徐々に和を広めてゆくしかないだろう。
一朝一夕には成らない根気のいる作業である。
しかし、元は調和を重んずる宗教的精神を持っていた日本人だ。
私たちにもその種は宿っているはずである。
ならば、そのココロを信じて、先ずは身近な人間に「ありがとう」を言うところから始めてみようではないか。
海外だろうが国内だろうが、結局のところ私たち人間に出来ることはそれだけなのだから。
南無阿弥陀仏
ありがとう、だいすき。