なんで謝ってんのかしらないけど
ウイルスという自然現象に対して人間にできることはたかが知れています。
どんなに人混みを避けようがウイルスなんて超ミクロなものが体内に入るかどうかは神のみぞ知るレベルです。
病気になっても謝る必要なんかない。
特に日本人、みんな謝ってますよね、謎です。
わたし絶対謝らない。
だってしょうがないことじゃん。
そんなことより免疫上げてこの時期が過ぎ去るのを待つだけです。
言っても仕方のないことは、言わない。
別に病気に限らずです。
雨でも桜は満開ですね。
沖縄から自然栽培のおいしい野菜が段ボールいっぱい届きました。
こういうとき、生命力あふれる食べ物がそばにあることが、とても心強いです。
カリフラワーを切った断面が、すごい大脳に似てました。
神は自分に似せて人を作った。
神とは自然のことだから、人間は自然のあらゆる面を内包して生きてると思います。
なんだか政治にすっかり疲れ果て、批判も怒りも起きなくなりました。
自分のメンタルに正直にならないと、自分のやりたいことまでやる気がなくなります。
新しいウイルスはなんで出てきたのかって自然環境が変わったからにちがいないわけで、人間は大パニックですが、長い人類史のなかではよくあることです。
ウイルスを恐れ、ウイルスに罹った人を忌み嫌って、それで何になりますか?
原因は地球の異常です。
いやもしかしたら、地球は正常なリズムを刻んでるだけで、そこで生かされてる人間は結局、適応していくしかない。
でもそこでわかったふりとかしたくないんですよね。
ウイルスに勝てなくても、人が人を助けようとする光景はとても美しいです、というかそれが最も尊い行為です、わたしは哲学的な思考を大切にはしますが、だからといって異常事態を前にして変に高次元な視点をもって「滅びの運命なら受け入れよう」などとはまったく思わないです。
なんだそのナルシズム。
人として生きてる以上、どんな状況だろうが懸命に生きようとするのが生かされてる側の義務ってもんです。
考える前に手を差し伸べる、そのときできるあらゆる手を尽くして苦しんでる人を助ける、それだけが「愛」です。
十牛図っていう人の精神的成長のレベルをあらわした禅の教えは、ラストの絵は市井の人々の間で共に泣き笑いする賢人の姿です。
自然が滅べというなら滅びようとかいう一見悟りっぽい思考はただの恍惚感なので、自分の内側におさめておくのが作法です。
チェルノブイリにはたくさんの奇形のツバメがいますが、彼らが「運命を受け入れて滅んでもいい」などと思ってるわけがない。
自然はお手本。
動物たちはいつも教えてくれます、何が起きてもただ前向きに環境に適応していく、なんとか工夫していく、生命とはその連続です。
ウイルスには勝てない、でも助かるために何でもやろう、もちろん人は愚かなので、その方法が必ずしも正解ではなかったりするんですけども。
生命を大切にしたい、その意識に目覚めることが、いまいちばん人類に求められていることではないかと思います。
その過程で、人は全体としてきっと成長できる。
生命というものを人間の枠を超えて、全体のものとして捉える視点を獲得する、そのステップにいる気がしてなりません。
だからいまは生きよう、その想い自体が生命力だと思います。
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