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日本人て何なのか〜米を作る日本人〜

春にみんなで田植えをしましたが、この秋にはそれをまたみんなで収穫するという体験をしました。

都会育ちの自分が、ここ数年で突然畑や田んぼに縁ができたことは、ほんとに意外としか言いようがないのですが、わたしがその少ない体験の中で感じたことは、農業はやはり人の営みの原点ということです。

田植えも収穫も、みんなでやると、すごい楽しい!!

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マコモ、春に会えたときは「こんな小さくて根もないのに生えるのかな」と思いましたが、なんなら米より立派に成長して、山のように収穫できました。

イセヒカリも台風に負けず、無事に稲刈りを終えて、そのお米はみささんが「お義母さんが昔使ってたっぽいやつを見つけてきた」という羽釜で炊いてくれます。

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羽釜ってUFOみたいですね。現代日本家庭ではもはやほぼ絶滅しておりわたしもトトロのサツキの家にあるやつしか見たことないですが、実際こうして見ると、もうこの見た目だけで、絶対おいしそう、と思ってわくわくしてきました。

そう思うのはみんな同じで、なんとなく羽釜周辺に群がってきます。

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羽釜の向こうのネコに気を取られる人々も・・・

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収穫したマコモはスライスします。

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幸せな写真。

わたしこのときの写真、全部宝物と思っていて、なんでかというと、ほんとに楽しかったからなんですよね。

安心感と開放感と、自由さと素朴さと、おいしいもの。

人が幸せに生きる条件のすべてがある気がして、どんな人もみんなで、仲良く楽しくやろう、という気持ちがいかに大切かわかります。

別に誰が何の係とか決めませんでした、決めなくていいんですよ、誰も指図しないほうが物事は明るく進む気がします、その場に集まった人がやりたいこと、やったほうがいいと思うことを、自分でやりたいときにやっていく、それが結局はベストになる気がしました。

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マコモと舞茸の天ぷら。

外で天ぷらするのってあんまりないけと、もうすべてがおいしそう!!

ごはんも完璧。見てください、この美しさ。

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その場でしゃもじで一口ずつすくって手に乗せて食べてみたのですが、人生一位のおいしさでした、大袈裟じゃなくほんとにおいしかった、ビックリしました。

何に例えていいかもわからないのですが、たまに旅館の白いごはんでめちゃくちゃおいしいときあるじゃないですか、あれのさらにものすごくおいしいバージョンです。なんとか伝わってほしい。

元々無農薬栽培で酵素使ったり、水も良かったり、さらに羽釜で炊いてるというコンボが決まりすぎてるから当然おいしいんですけど、わたしはこの日、日本列島で炊かれたすべての米のなかでまちがいなくこの米がおいしさ部門一位と思いました。

というわけで、なんだかんだですっかり2時近くなったところでみんなで新米を食べました。

おかずもたくさん、お米に合うおかずいっぱい用意しました。

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日本人で良かった、マジで。

お米最高。

楽しくておいしい、この物質世界を生きる上で、必要なのはこの2つだけなんじゃないかと思いました。

そしてそれを作るのはやはり人です。

わたしは過去に精神的なことを大切にするためのイベントを数えきれないくらいやってきて、毎回必ずそのテーマに即した感想なりを参加者の人たちにも語ってもらう時間を設けてきましたが、今回初めてそれをやりませんでした。

良いものを作ろうとがんばってる人を応援して、みんなでおいしいごはんを食べる、全員が楽しい、他に言うことはないからです。

それよりこの時間を大切に、ゆっくり過ごすほうが大事と思いました。

だってそこにこそ、人が生きる原点があるからです。

おいしいね、楽しいよね、ほんとありがたいね、来年もこんなふうにできるように、またがんばろうね、とにかくいまは盛り上がろうぜ!!

そしてそれが「祭り」の意識ではないかと思いました。

いまの世界中の文明の起点はやはり農耕文化にあります。

定住と安定生産、それは人が狩猟採集から進化の過程で選択した工夫と創造の産物であり、人類が現代に至るほど知的に発展する基盤となったこと間違いないことです。

しかしそこに付随するのは常に支配と搾取であり、多くの人々は自分の生産したものを上に奪われ続けてきた歴史があります。

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田んぼや畑で無心に働いてるときに、楽しさとともにふとよぎる物悲しさは、自分の遺伝子に流れる先祖の遠い記憶なのかもしれないと、何度も思いました。

豊かな実りを生み出してるのは土地と自分たちの働きなのに、支配という謎の強制ルールでそれを取られてしまう。

そうなると楽しさよりも、増産に向けての強迫観念と不安に駆られ、農業は自分を束縛するだけのものになります。

しかし人の持つ生命の根幹は、やはり同じ生命である植物に共鳴し、いつも上を恐れるだけのつらく悲しい人生とは別に、四季の移り変わりとともに勢いよく育つ作物たちと共にあり、だからこそ収穫に関連するさまざまな「祭り」が生まれたのだと思います。

それは文化人類学など学ばなくても、畑や田んぼにいたらごく自然に想像のつくことです。

人間の勝手なエゴが作り出した政治など簡単に吹き飛ばす生命への賛歌、本来それが人々の祭りの中心に位置する核です。

しかし支配者とはまるで嫉妬でしか動けないかのごとく、常にゆたかなものはその種類を問わず支配下に置きたがるものですから、その本来シンプルな祭りですら形骸化し、理論理屈をくっつけて、ついでに金をかけて美化し複雑化して、民には到底再現不可能な特殊性をもって支配の象徴としたがるわけです。

でもそのための金はどこからきてるかというと、結局は民の働いた金なんですよね。

たとえば新嘗祭、今回は大嘗祭でしたが、天皇家の祭事を見てると、神への豊穣の儀式という意味では、わたしたちが飯村さんちでワーワーやっていたことと意味的には同じだと思いました。

ではこのセリフが天皇家批判であるか?というとそうではないです。

大切なことは誰が天皇をやっているかだとわたしは思っているし、そして物事はすべて発酵するわけですから、古代に支配のシステムだったものが1700年かけて時間圧で発酵したらそれは文化遺産だし、いまの天皇陛下が純粋に国民の幸せを願うならそれはそれで良いと思っています。

・・・などという難しいことはこのときはまったく考えず、ただ「最高にたのしいな〜!!」「どれを食べてもまちがいなくおいしい」とか思ってみんなでワイワイやってただけなのですが、しかしこのとき食べたいた米がイセヒカリという伊勢神宮発の米であったこともいま思うとなかなか味わい深い事実です。米だけに。

楽しい時間はあっというま、というわけでこの日も気がついたら真っ暗になっていまして、みんなで写真撮影したりして、最後まで最高でした。

ご参加くださった皆さまほんとにありがとうございました。

#日記 #エッセイ #飯村農園 #自然法則の会 #無農薬米 #天皇家 #農耕文化 #農業



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