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3.11お茶会@clubhouse 2021


2021年3月11日。東日本大震災から10年。あの日、どこで何をしていたのか。その後、どうしたのか。何が変わったのか。今、何をしたいのか。

 オンライントークに先立って

 悲しみや苦しみは簡単には消えないことは重々承知。だからといって、嘆いてばかりいても事態は変わらない。何か自分にできることがあるとすれば、あの時のことを思い出し、心の奥にしまい込んでいた衝撃を優しくお日様の光に当ててあげることではないか。そんなイメージで開催した。

悲しかったね、辛かったね、だけで終わることなく、その後の変化はどうだったのか。コロナ渦含めた激動の今、これkらの変化を私たちはどう作っていくのか。少しでも温かく明るい方向に向けて、エネルギーが動き始めてくれることを願っての、開催だった。


参加者の言葉16人

ちゃんと書記できたところと、つい、聞く方に夢中になってしまって、書きそびれてしまったところ等々あるので、ご了承ください。

1【Cさん】

 当時は京都にいて、何が起きたかわからなかった。それから生きてるだけでも幸せという気持ちになった。少しずつ、変わってきた自分がいて、去年くらいから、ぱっか~んと開いた自分がいた。今では、生かされてなんでも挑戦していこうという自分になってきている。人が怖い、信じられない、傷つけられたと思ってしまっていた自分を少しずつ手放してきた。

エンパス体質だと言われた。変に傷ついてしまった自分に気づいてあげられた。


2【Aさん】

 パートをしていて、家族もいて何もできない自分に無力さを感じていた。人の目を気にしていた自分がぐるぐるしていた。埼玉県。

去年くらいから変わってきた。新しい自分になった。人間関係も変わった。

時間がかかったけど、確実に変わってきている。


3【Eさん】

 海外、カンボジアにいた。日本人仲間に岩手の人もいた。

その後、カンボジアの人が一斉にFacebookで祈りの投稿を始めた。

オーナーから「レストランの売り上げの10%を託す」と言われた。

「内戦中は、日本に助けられたから」と言われ、優しさに打たれた。

岩手からのアンコールワットツアーでつながっていたアナウンサーの方に連絡を取り、そのお金を託した。Tシャツを作って販売売り上げを寄付するなど、海外からやれることをやっていた。


4【iさん】

 東京でオフィスワークをしていた。パワハラ上司と電話をしていた。揺れている中、切ってくれなかった。その後も、平然として仕事を続けている職場に違和感を感じた。3年かかって退職した。

最近やっと、これから何か自分にできることをしていこうと、という気になってきた。

当時は愛知から上京して、まだ自分がなんとかすることに必死だった。

やっとそれがだいぶ、解消されてきた。


5【Hさん】

 東京の目白の会議室で集まっていた。

揺れだした瞬間にただ事ではない、と直感的にわかった。

1983年の日本海沖中部地震で、青森の弘前の大学生だった経験があったがそれ以上の地震。地響きがあった。普通の地震の振動ではなかった。

自分の管轄の教室に電話したが、繋がらず、しばらく身動きできなかった。宿泊組と徒歩帰宅組に分かれて、自分は帰宅組として移動した。

新宿全体がラッシュアワー状態だった。タクシーもなかった。JRは全てシャッターは閉まっていた。夜中の1時過ぎ頃に、やっと電車が動き出した。都心に帰宅難民が、あふれていた。

当時は人生のどん底にいた状態だったので、自分のことで手一杯だった。

計画停電、3月から4月にかけて、塾がいつ開けるかわからない状態だった。

23区は停電なかったが、多摩地区は度々、計画停電あったことを思い出す。

今やっと、ゆとりが必要と思えるようになってきた。


6【Aさん】

 東京のコンビニで地震にあった。品物が尋常ではなく品物が落ちるのを見て、急いで家に戻ったら、それほど被害はなかった。道路1本の差で、家の被害が異なった様子を、目の当たりにした。無事でいられたことが、すごいことだと思った。その気持ちを忘れないように、と思う。生きてるだけで幸せだと思えるようになった。今、時として日常に紛れてだんだん薄れてくるので。


7【Fさん】

 広島なので、揺れはなかったが、友達と電話で話しながら、テレビを見て、「映画?」と思った。皆が静止しているような状態で、テレビにくぎ付けだった。「なんとかしたい、現地に行きたい」と、はやる心を夫に話したら「今おまえが行って何ができる」と言われた。バイトの若い子は「なんとかして、救援を届けたい」と夫に話していた。夫からの提案で「ただお金をあげるのは簡単だ。働いて得たお金をあげよう」ということになった。

1月でたこ焼き1皿300円を、10万円売り上げた。その売り上げを市長に届けて、寄付を託した。何とかしたいという気持ちが、あふれでていた状態。

職場の岩手の人は、涙を流しながら、ご飯を食べていた。誰も何も声をかけられなかったことを思い出す。

悲しい思いは沢山あるけれど、今日は、悲しい気持ちに戻るのではなく、愛にあふれた気持ちを、祈りを、作りたい。


8【Hさん】

 あの日、夫と子と、車にガソリンを入れて、避難体制をとった。夫は神戸震災も経験していたので、スムーズに非難準備できた。悲しいことに、自分たちのことで精一杯の人も多かったし、物資がなくなってしまう場面も目にした。


9【Bさん】

改めて今、皆で黙祷を捧げたい。

今日は、愛を贈りたいと思ってきた。

(Bさんのお陰様で、皆で黙祷を捧げることができた)


10【Mさん】

アメリカから。阪神大震災も経験していたので、とても辛かった。

今日はお風呂に入って、一人で黙とうしていたら、温かいものを感じた。世界中の皆さんが祈っているのだと感じた。

当時、飛行機で福島の上を通ると、あれだけの被害を出した原発と海が、美しい風景であることに、とても不思議な気持ちがした。

あの時も今もこれからも、どんな状況でも、愛を贈り合うことを試みたい。


11【Nさん】

今日、j瞑想できなかった。

それで、いつものオンラインを見ずに今日は先ず、このroomに入った。

 当時、京都だった。揺れは小さかったので、皆テレビで気づいたが、自分はお店の中でふわっとなった感じがした。めまいかと思ったら、地震だった。

家に帰って、テレビを見て「映画を見ている感覚になった」

まだ負傷者数名の状態での放映。映像で受けたショックで、何もできなかった。

自分に何ができるのか、わからなかった。

阪神の時は、その時お付き合いしてた人が神戸に行ったが、自分は固まってしまって、何もできなかった。

もう10年経つけど、まだ1回も黙とうできてなかった。

今日は、スーパーで買い物中に黙とうの放送が流れたが、誰もしていなかったので、自分もしづらかった。


12【cさん】

 静岡でインフルエンザで会社を休んで寝ていた。テレビを見て状況を把握した。息子も学校が早く終わって帰ってきた。揺れもそれほどなかった。

今日は一人で黙とうをした。


13【Cさん】

「一人ひとりが幸せでいることが大事」という純ちゃんの言葉に納得した。

一人ひとりが幸せになること、1人から、1は全、全は1だ。


14【Kさん】

大津市在住、岡山県に家があった。

娘の卒業式前日だったので、美容院にいた。翌日の卒業式は予定通りだった。


15【Sさん】

仙台市、娘と娘の友達と車中で、父が建設会社で帰れなかったので母が一人でいた実家に避難。4日間、食べ物は制限しか買えなかった。

電気、ガス、水、順番に復旧。緊急時には、人間の本性が出ると実感。

実家の面倒、夫の面倒、職場の後片付けなど、手伝っていたら、自分1人で生きていけることに気づいてしまった。


16【ガオカオ】

当時は鳥取に出張。リハーサルをしていたら、「テレビ見て」と連絡あり、テレビにくぎ付け。同じ映像の繰り返しばかりで、東京の自宅近くの様子が全く映らなかったのが、歯がゆかった。

その数日後に、成田空港から欧州ツアーに出発。成田空港の免税店が全て閉まっていた。出国する外国人で溢れていた。キャンセル待ちの人も多かったらしく、「今出国したら、もう戻れない可能性がある」と管内アナウンスでキャンセル勧誘をしていた。空路も、原発の頭上を大きく避けて飛んでいた。機発着ガソリン補給などは、成田ではなく、ソウルで行っていて、各航空会社が従業員の安全を図っている様子だった。

ヨーロッパでは、沢山の人に「日本は大丈夫か」と聞かれたが、テレビ以上のことは誰もわからかったので、マスメディアの届かない部分を痛感した。

海外在住日本人は、とにかくインターネットの情報収集をしていた。

今日は、悲しみに戻るのではなく、明るい暖かい愛の気持ちを、皆で生み出せたら嬉しい。


最後に

2021年明けてからのオンライン上の目まぐるしい進化。中でも、音声配信クラブハウスの台頭で、インターネット上の時間の使い方が、どんどん変化しつつある。そんな変わり続ける風の時代に、変わらないもの、それは、人の真心。愛。私たちの心を温かくしてくれる思い。それを特別沢山、作り出し、共有共鳴することができたこの時、本当にありがとうございました。魔法使いの国の皆さんへ心からの愛と感謝を込めて。




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