見出し画像

感情考察②悲しみ

わたし悲しむの好きだなぁって言ったら誤解を招きそうですけれど、実際悲しみってどっかに暖かさがあると思うんです。

BUMP OF CHICKENのrayの歌詞にはびっくりしました。「寂しくなんかなかったよ ちゃんと寂しくなれたから」

孤独を知っているのは他者のありがたさを知っているから。寂しくなるのは失うのが惜しい幸せがあったから。そう思うと、悲しみは社会の中で生きている実感そのものなのかもしれません。

rayの歌詞に限らず、わたしが暗い、寂しい曲が好きな理由も、根本を辿れば他社二よってもたらされた悲しみに伴う記憶に行き着きます。その悲しみはもはやわたしのアイデンティティの一部であり、切り離せない。それゆえか、悲しみという感情に対して愛着のようなものが絶えず流れているのです。


でも、わたし、悲しむの好きじゃありません。感情はその両方。


この間ウキウキしながら作ったアヒージョを床にぶちまけて油まみれになったときは本当に悲しかったです。惨めだし、誰もいないから笑いにもならない。優雅な夕飯になるつもりが、無事なエビを拾って食べる。まぁ、最悪。

悲しみを乗り越えれば人は優しくなれるんていうけれど、この類の悲しみはなんにも優しくなれません。
もちろん、優しくなれる悲しさも確かにあるのでしょう。辛い経験は、同じ経験をした人に対してきっと優しくなれます。でもだからって、その経験をしてよかったなんて言えることばかりではありません。悲しみが深ければなおさらです。悲しみという感情によって、人生を否応なく狂わせ、最悪の場合死さえ招くことだってたくさんあるのですから。

わたし自身、根っこにある悲しさによって性格もおそらく人生も変わっているのでしょうし、それと向き合うときには未だに身体中が震えて、頭もロクに働きません。だからわたし、悲しさも、悲しさがもたらす副作用も大嫌いです。


好きでも嫌いでも悲しみはやってきますし、時には自分から招くこともあります。
やってきたら、膝をかかえて、それでもだめなら泣いて、ぼーっとして、自傷行為をして

最後には生きていたいなぁ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?