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韓国の旅 #3

雨の釜山  

 小説にも書いたように、1972年、当時、大学の文学部に在籍していた私が、朝鮮史の勉強をしようと決意したのは、当時出版されたばかりの、司馬遼太郎「韓のくに紀行」を読んだせいだった。司馬さんと同じ、在日韓国・朝鮮人の多い大阪に生まれ育ったにも関わらず、朝鮮半島の歴史や社会のことをほとんど知らないことが恥ずかしく思えたからである。「韓のくに紀行」は、「加羅の旅」「新羅の旅」「百済の旅」の3つの章からなっていた。その「加羅の旅」の最初の訪問地が釜山だった。(司馬さんは釜山を加羅に含めているのかな。加羅と任那は同じ地域の別名。)いずれにしても、1971年、司馬さんは伊丹空港から釜山空港へと飛んだ。まだ、朴正煕が大統領だった時代だ。司馬さんが釜山に行った目的のひとつは、対馬藩が建設した倭館の痕跡を見ることだった。でも、見つからなかった。司馬さんが、倭館の場所を知ったのは帰国後である。あの李舜臣の像がある龍頭山公園こそ、かつての倭館の跡地だったのだ。というわけで、この司馬さんの文章を読んでいた私は、釜山に行く前から、倭館の場所を知っていた。そして、ずっと後年になって、「伝蔵」という小説にその倭館のことを書いた。ついでに書いておくと、司馬さんの関心は、主に古代の朝鮮半島だったわけだが、(荒山さんの「白村江」のネタ元なのではないかと思うくらいの記述がたくさんある。三国の民族的起源についても、司馬さんはちゃんと書いていた。)結局、私は李氏朝鮮時代の歴史を勉強して、同時代の実学者について、卒業論文をかいた。

 そろそろ、私たちの釜山旅行のことを書かないといけないのだが、その前に、前回の慶州の回で、昼食をとったのは「釜山食堂」だと書いたのだが、改めて当時の日記をみると、「青山食堂」と書いてあった。そして、司馬さんの「新羅の旅」を改めて読むと、青山とは墓、つまり古墳のことだと書いてあった。とすると、「青山食堂」の方が慶州らしい。さて、どちらなのだろう。手元の韓国語の辞書をひいても、「青山」は「チョンサン」としか読めないようだし。でも、記念写真の看板には、確かにプサンと書いてあった。さて、というところで、今回の釜山の旅にすすむ。

 初めての釜山は雨だった。例によって、釜山市街に入った私たちは、まず、昼食会場に案内された。当時の記録を読むと、「蟹味楽」という店で、蟹鍋を食べたとある。そう言えば、辛い料理だったなという記憶がよみがえってきた。試しにネットで検索してみたら出てきた。少し古い記事だが、「日本式料理」と書いてあるのに、出てきたのはチゲ鍋だったという内容だった。このコロナ禍の中、今、どうしているかな。
 
 さて、昼食の後、私たちが向かったのは、司馬さんも訪れた、李舜臣の像が立つ、龍頭山公園だった。京都タワーに似た形の釜山タワーに上がった。司馬さんの文章には、このタワーは登場していない。これもネットで調べると、建設は1973年。司馬さんが訪れた時には、まだ存在しなかったんですね。いずれにしても、この一帯が、かつての対馬藩の武士たちが暮らしていた倭館の跡だった。雨のせいか、この日、釜山タワーに上っていたのは、私たちだけだった。せっかく上っても、雨にけぶって展望がきかない。かすかに見下ろす釜山の街はくすんでいて、まるで日本の田舎町みたいで、冴えない街だなあという印象しか残らなかった。タワーを降りて、近くの、映画館などが立ち並ぶ界隈を散策した。ここも、私の子供の頃を思わせる街並みだった。今では、この辺りは、南浦洞のBIFF広場と呼ばれ、釜山観光の中心地になっていて、日本人の観光客も多いのだが、当時は、まだまだ垢抜けない街並みだった。私は、南浦洞という地名さえも知らなかった。釜山については、旅行前の下調べもほとんどしていなかったのである。ただ、ここで、韓国製の折りたたみ傘を買い、妻やガイドの朴さんと一緒に、露店で買った、韓国風海苔巻きを歩きながら食べた記憶だけがある。

 南浦洞の後、国連墓地に案内された。ここは観光地じゃないと思うのだが、どういうわけだったのだろう。当時は、他に観光地がなかったはずはないと思うが。朝鮮戦争は、私が生まれた頃の戦争で、そのおかげで、戦争特需を受けた日本は戦後の荒廃から立ち直ることができたし、朝鮮半島では多くの都市が廃墟となり、多くの人命が失われたあげく、南北分断が確定した。当初、北朝鮮軍に対して優勢だった米軍と韓国軍は、中国義勇軍の参入によって、一転して敗勢となり、とうとう半島南端の釜山にまで追い込まれた。敗色濃厚だったこの時、マッカーサーの仁川上陸作戦によって、一気に挽回。なんとか、38度線まで持ち直して、その後は一進一退、ついに停戦した。というような歴史があって、釜山には、一時、韓国の臨時政府がおかれた。この戦争で、異国の地で命を落とした数多くの米軍(連合軍)兵士の墓が、この釜山につくられたのは、そんな経緯があったからだ。雨の国連墓地は、美しく整備されてはいたが、ひと気がなくて、とても寂しかった。戦争なんて、するものではない。でも、北朝鮮と米国(および韓国)は、いまでも形式的には戦争継続状態なのですね。

 その後、海雲台(ヘウンデ)に向かった。もちろん、当時の私は、地名さえも知らなかったけれど、ここは、釜山というよりも、韓国を代表するビーチリゾートとして有名である。釜山国際映画祭の頃には、世界中から観光客がここを訪れる。その規模と美しさは、神戸の須磨海岸とか湘南海岸以上かもしれない。この夜の宿泊ホテルは、この海雲台にある、ハイアットホテルだった。このホテルは、ノボテルと名前は変わったが、今も当時のまま健在だ。私たちは、ホテルに入る前に、同じ海雲台の高台にある焼肉屋に案内されて、ここで夕食をとった。もう、あたりは暗くなっていた。もし、明るくて、雨が降っていなかったから、ここから素晴らしい海雲台の眺望が楽しめただろう。この店の名前は記録していないのだが、その後、何度か釜山を訪れて、大体の位置はわかるので、また機会があれば再訪したいと思っている。ハイアットホテルの部屋に荷物を置いた後、雨の中、近くの海雲台市場を散策した。国際的なホテルのすぐ近くなのに、垢抜けない、昔ながらの庶民的な市場だった。ここで初めて、韓国の普通の庶民の生活に触れたような気がした。

 翌日は、いよいよ韓国旅行の最終日である。雨はようやくあがった。私たちは、ホテルでの朝食の後、すぐ目の前の、広々とした砂浜を少し散策した。韓国人の家族づれらしい人たちが、同じように散歩していた。雨はあがっていたが、曇り空で波が荒く、海に入っている人はいなかった。ガイドの朴さんがホテルに迎えに来てくれた。この日は専用車がないという。だから、タクシーをチャーターした。彼女が、タクシーの運転手と韓国語で(当然ですね)料金交渉するのが面白かった。まず向かったのは、チャガルチ市場だった。こここそが、港町釜山の最大の観光地である。大変な賑わいだった。様々な魚介類が所狭しと並んでいる。ホヤなどの珍しいものがたくさんあった。何よりも楽しいのは、その魚介類を売っている、活発なおばさんたちの姿だった。大阪のおばちゃんも元気だが、釜山のおばさん達は、それ以上に元気だった。この日の昼食は、フェリーターミナルの中にある食堂で食べた。当時のメモを見ると、しゃぶしゃぶを食べたと書いてあるが、記憶はない。これで、今回の韓国旅行の日程は全て終わった。あとは、釜山空港へ行くだけだったが、まだ搭乗までかなり時間があるので、どこか行きたいところはあるかと、朴さんにきかれた。それなら、釜山の博物館に行きたいと答えたら、連れて行ってくれた。とても立派な博物館だった。申し訳ないが、展示内容については、ほとんど記憶がない。三国時代の遺物なども展示されていたようなのだが。やはり、博物館などというところは、ある程度、予備知識を持って、時間の余裕のある時に行くべき場所だった。

 釜山空港に着いた。空港へ向かう途中で、キムチ屋さんに連れて行かれ、お土産にキムチを買った。それでもまだ時間があったので、空港で、ガイドの朴さんと、コーヒーを飲みながら少し話をした。彼女は短大で日本語を勉強したが、卒業後、歯医者に勤めながら外国語学校に通い、ガイドの資格をとったそうだ。日本には、福岡にしか行ったことがない。外国語学校で知り合った彼と今年結婚するが、結婚してもガイドは続けるという。彼は銀行員で、海雲台よりまだ山へ入った所にマンションを買ったそうだ。日本円で1500万円とか。駐車スペースをいれて30坪ぐらいだそうだ。なんて、三日間一緒にいたとはいえ、初対面の外国人にここまでプライベートな話をしていいのかと思えるような事を聞かせてくれたのだが、まあ、これが韓国人なのだろう。27年前の話だから、朴さんは、今ではもう50代のはずである。今でも元気にガイドをしているのだろうか。コロナで大変だろうな。我が家のアルバムには、彼女の若々しい笑顔の写真が今も残っている。

 帰国後、知人の家に預けてあった、我が家の愛犬マンジローを迎えに行った。夜も遅かったので、土産だけを渡して、まだ1歳のマンジローと一緒にすぐに帰った。その知人は、会社の同僚であるとともに、マンジローの母親犬の飼い主でもあった。翌日、出勤して、その同僚を含む会社の仲間に、チョコレートと朝鮮人参糖の韓国土産を渡して、韓国旅行の土産話をした。当時、韓国に旅行したことのある人は、周囲にいなかった。人参糖には、みんなが、不味いと口をゆがめた。細川新内閣が発足した日のことである。私たち夫婦が再び韓国に旅行したのは、それから12年後のことだった。その頃、韓国を見る日本人の眼差しは、すっかり変わっていた。「冬ソナ」ブームのおかげだった。 


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