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チェイサーの下剋上【短編小説・4200字】

 部屋中、隅から隅まで掃除した。風呂掃除のついでに、自分の体も隅から隅までガシガシと洗う。前かがみになって頭にシャワーを当てて、髪からトリートメントが落ち切るのを待っていたら、キッチンにあるあのボトルのことを思い出した。

 頭にタオルを巻いたまま、買い置きの調味料たちと一緒に、カゴの中ですまし顔をしているボトルを取り上げる。あと一、二杯分残っている。二つのグラスに氷を入れ、一つには冷蔵庫から出した炭酸水を注ぐ。もう一つのグラスに、ボトルの中身をそろりと流し込んだ。

 ウイスキーのロックと、炭酸水のチェイサー。

 一口含むと香りが鼻の方に抜け、液体が舌やのどを刺激して通り過ぎる。主張の強いそれを、あとから飲んだ炭酸水で和らげる。こんな飲み方をしているのは、一時期付き合っていたあの男のせい。アイツが去った後、酒売り場でよくわからない復讐心から手に取ったボトル。くやしい、なかなか飲み終わらない、そう思っていたのに。

 これは今日、それも今のうちに空けてしまうべきだ。ボトルの残りをグラスに流し込んで、指で氷をなじませた。

 それって結局ハイボールじゃないの? と言われると、私はいつもアイツの受け売りで答える。ソーダで混ぜて薄めたくない。まずウイスキーそのままの味を楽しみたいの。面倒な女だな、というのが大半の感想。ええその通り、自己主張が強くてプライドの高い面倒クサイ女ですけどそれが何か? あんたね、ずっとそんな風だと誰も近寄れなくなっちゃうでしょ! と女友達にツッコまれると、ハイソノ通リデス大正解デス、と涙目で答える。
 
 今の時代、なんでも飲みやすい方が受けがいいのだ。ソーダで割って少し薄めてやればちょっとは受けがよくなるのに、私にはそれができなかった。薄めることで自分が、あの泡の中にまぎれていなくなってしまうような気がした。自分を見失ってしまうのは怖い。だったら、誰も近寄らなくていい。

 ウイスキーのロックを口に含み、しばらくしてソーダを飲む。ふと思い立って、冷蔵庫からレモンを出してカットした。クシ切りにしたそのひとつを、そのままかじる。ウイスキー、ソーダ、レモン。それをもう一度繰り返す。
 
 ハイボールは確かにウイスキーをソーダで薄めて作るけど、それだけの飲み物じゃない。おいしいハイボールを知らないから、そんなことを言うのね。ハイボール好きからのそんな助言(?)にも、あの頃はトゲトゲと反論していた。酒くらい好きに飲ませろよーという気持ちもあったのだけれど、お酒だけじゃなく、いろんなことにピリピリイライラ、ツンツンしていたように思う。
 
 それが今じゃ、最近やわらかくなったね、なんて言われる。ヤワラカイとかカタイとかってのも余計なお世話、とやっぱり反射的に思ってしまうけれど、すぐさま言い返したりしなくなった自分のこの変化はイヤではない。っていうか、この変化はつまり……。
 
 

『チェイサー……あ、追いかけるもの、って意味なんですね』
 ふと、あの時彼が言ったことを思い出す。アイツと別れてしばらく経った頃、私よりだいぶ年下の彼と二人で、仕事帰りに飲みに行った。スマホを操作する彼の手は、意外に男の人の手だった。
『飲んでいるお酒よりアルコール度数が低ければチェイサーなのよ。水じゃなくてもよくて、例えば、ウイスキー飲みながらビールをチェイサーにしてもいいわけ』
 私は蘊蓄を披露する。相変わらず感じが悪い、イヤミな女だ。だけど彼は、へええと素直に感心して、それからちょっと考え込んで、言った。
『……オレは。オレじゃ、チェイサーになりませんか?』
『はい?』
『ナオさんの飲んでるウイスキーよりアルコール弱いし。てゆーか酒飲めないし、弱っちいし。ナオさんのこと追いかけるばっかりで、だからまさにチェイサーで』
 彼はコーラを飲んでいたのに、支離滅裂なことを言い出した。
『……チェイサーになるって、どういうこと?』
『ええと、ナオさんがお酒を飲むときに、必要な存在になりたい、ってことです』
『ひつような、そんざい?』
『炭酸水ができないこと、オレ、できますし。話し相手とか、送迎とか』
 頭の中で必死に言葉を組み立てているらしく、一点を見つめたままだった彼の視線が、ふたたびスマホへと移った。
『あとなんて書いてあったっけ……ああ、悪酔い防止、はオレにもできるかも。それと水分補給、口直し……口直し?』
 顔を上げた彼と目が合った。それから少しだけ視線が合わなくなって。
 彼が何を見てたかわかった途端の、あの胸の苦しさ。痛いような甘いような、アレ。
 そう、あれが変化のはじまりだったのだ。

 チェイサーなしにはウイスキーなんて飲めないくせに、追いかけるもの、がいることに安心する自分がいる。でも混ざれない。混ざってしまって、自分が自分でなくなってしまうのが怖い。そのくせ、追いかけてくれる誰かに安心する。意地っ張りを続け、そこに本当にチェイサーがいてくれるかどうか、チェイサーをわざと振り切っては何度も振り返る。
 それでも。彼は追いかけてくれた。
 ずるいよね、ごめん。でもそれも、今日でおしまいにするから。

 新しいカットレモンを手に取る。
 ウイスキーの残ったグラスに、それを絞り入れる。
 そこに炭酸水を注ぐ。
 シュワアという音を聴きながら、指で軽く混ぜる。
 これで、ハイボール。
 壁の時計を見た。あと3時間ある。料理の仕度の前に髪を乾かさなくちゃ。タオルをはずし手櫛で髪を整えていると、インターホンのチャイムが鳴った。画面を確認して、ひええ、と声をあげてしまう。ええ、どうしよう、髪濡れてるし着替えてないしスッピンだし、でも待たせるわけにいかないし、しょうがない!

 ドアを開けると、彼は「おじゃましまーす」と言ってスーツケースを玄関に運び入れ、ドアのカギをかけた。くるりと振り返り両手を広げたかと思うと「あ、だめだ」と言った。
「あーもう、玄関入るなり抱きつぶしてベロチューしたかったのに。すみません、手洗います」
 スーツケースはそのままに、彼はマスクを外しながら靴を脱いだ。3時間も早く来た理由を訊きたかったけれど、自分の有様の方が気になる。
「ついでにシャワー浴びちゃえば? そのドア開けて。タオルとか適当に使ってね」
 よし、これで時間が稼げた。シャワーの音が聞こえてから脱衣所のドアを開け、ドライヤーとブラシを持ち出す。すごい勢いで髪を乾かして整え、スッピンはあきらめ。着替えを済ませキッチンのテーブルの上を見、あわててウイスキーの瓶をゴミ箱の脇に置き、ハイボールを一気にあおる。絞り入れたレモンを取り出しかじってから、グラスをシンクに片付ける。

 ドライヤーとブラシを持って脱衣所の様子を伺おうとしたところで、脱衣所の扉が開いた。
 腰巻きバスタオルで、上半身ハダカ。
「着替え出し忘れちゃって……ナオさん?」
 確かにウチに呼ぶのはこれが初めてなんだけど、彼の部屋にはもう何度も行ってるし、なのに……ああなんで今更、こんなことで動揺してるんだろう。自分の領域に見慣れないモノがあるから?
「ふふ、ナオさん、顔真っ赤」
 彼はドライヤーとブラシを持って硬直している私に、がばっと巻き付いてきた。そこからすかさず髪に指を差し入れ、口で口を塞ぎ、吸い、外も中も思う存分舐めまわし……。
「レモンの味……じゃなくて、お酒の味? ……あ、やば」
 彼はその場に膝をついた。
「ええ、ちょっと? まさか、酔った?」
 あわてて台所に走り、ドライヤーとブラシをテーブルに投げ置き、冷蔵庫からペットボトルの炭酸水を持ってくる。渡すと彼はぐびぐびと飲んで、廊下の壁にもたれかかるようにして座った。
「……こういうの、駆けつけ一杯っていうんですよね?」
「ええい、違う。ねえ、無理して帰ってきたんじゃないの? 急に入った出張だったんでしょ? 疲れてるんじゃない?」
「そりゃもう、はりきって急ぎましたからね、それなりに疲れてますけど……ナオさんは、オレなしでお酒飲んでたんですか?」
 ペットボトルを差し出されたので、受け取って一口飲む。黙って、もう一口飲んだ。
 隣に並ぶように座り、もう一口。炭酸水をゆっくり口に含むように飲む。
「私は飲みたいときに勝手に飲む。追いかけてこないそっちが悪いのよ」
 この場面で悪態をつけるんだよ、私ってヤツは。虚勢を張ってみたけど、どうやら見透かされている。
「そ、れ、は。さみしかったってコトですねー、オレがいなくて」
「もう酔いは大丈夫なわけ? だったら、とっとと着替えないと風邪ひく……」
 言いかけたところでまた口を塞がれた。今度は炭酸水のせいで、舌が冷たい。彼は私を横抱きにぎゅうっとしてニコニコして、それから立ち上がった。
「なんか着ますね。あ、おみやげもあるんですよ」
 玄関のスーツケースをその場で広げ、がさがさと物を取り出している音を聞きながら。
 顔が熱くて、それをペットボトルで冷やしながら思う。

 
 なーにがチェイサーだ、ばーか。ウイスキーより弱いなんて、嘘ばっかり。あーあ、騙された、いつのまにかハイボールにされてたなんて。ウイスキー1に対してソーダはその4倍。とっくの昔に、アルコール度数だけで意地を張ってたウイスキーなんか、圧倒してたわけね。
 
 スジを通すならあのボトルを空けなきゃ、と頑張っていたさっきまでの私ですら、すっかり飲み込まれてしまった。だけど、私は消えていない。シュワシュワと立つ泡の中で、カドが取れて色ボケの私が、今ココにいる。
 
「チェイサーに下剋上された……」
 私のつぶやきは、彼には聞こえなかったようだ。彼はおみやげにウイスキーを買ってきてくれたのだけど、飲み方はどうしよう。彼の好きなコーラで割れば、コークハイ。それとも当てつけのように、ビールをチェイサーにするストロングな飲み方を? もうどっちが"チェイサー"なんだかわからないけど、彼はチェイサーを辞めたわけではない。好きなように飲めばいい……彼と一緒に、彼の目の前で。

【注】お酒は自分のペースで楽しみましょう。お酒を長くゆっくり楽しみたいなら、お酒の供にチェイサーは欠かせません。アナタの好みのチェイサーを、見つけてみてはいかがでしょうか。(ただし、まれに下剋上されることもありますのでご注意ください。)



 了
【2022.5.6.】

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