古文がわかるための文法と読解のマニュアル
はじめに
「古文ができない」という悩みと「古文が読めない」という悩みと「古典文法がわからない」という悩みは、常に一緒で同じものとして捉えられているような気がします。
つまり、「古典文法がわからない」ので「古文が読めない」。したがって「古文ができない」というような感じです。だからこそ、世の中には「古文読解のための」「文法」というような参考書もたくさんあるように感じます。
しかし、私はずっとここに誤解があるように感じてきました。たとえば、古典の読解が文法によって可能になるとするなら、つまり、古文というのは現代語訳の問題であるとするなら、現代語をすらすらと話せる私たちは、現代文の読解は問題なくできるということになると思いませんか?
現実はそうではありません。いくら現代語文法がわかっていても、現代文の読解はできないし、現代文の問題は解けないからです。
このように考えてくると古文の「読解」を「文法」で解決しようとすることの強引さがわかります。
にも関わらず、文法の参考書は「読解」を謳います。それはやはり、文法がわかれば読めるようになるはずだ、という信仰があることに他なりません。
というわけで、これをなんとかしたいと私は常々思ってきました。ブログで古文の説明をしているのも、この方針によっています。
古文を読めるようにするためには読解の練習をしなければいけないし、読解のテクニックを教えなければいけない。そして、問題を解いて正解にたどりつき、得点を重ねるためには文法を説明しなければいけません。
そうなると、方針はふたつになります。
文法と読解をわけて、特に読解そのもののテクニックを説明すること
文法の説明を、読解に使う、設問に答えるという方針に沿って行うこと
このような方針のもとにブログの作成を行ってきました。
一方で、大学受験の勉強は、やはり手元にあるテキストが使いやすいのだろうとずっと思っていました。
だからこそ、参考書を作りたいという思いは強く持っていました。それもあってブログをやり出したのですが、冷静に考えてみれば、デジタル出版のような形をとれば、もはや出版のリスクをとらなくても、多くの人の手に届けられるのではないかと気付きました。今更ですけど。
というわけで、まずはnoteでその原型を作っていきたいと思います。そして、どこかの段階で、デジタル出版などの形に以降したいと考えます。その段階では有料化などのことも考えますが、当面、原型を作るまでの間は、ここで無料で発信して、多くの方に利用していただきながら、よりよいものにしていきたいと思います。というわけで、本来、記事を分けていくべきなんだろうと思うのですが、諸般の事情を考えると、このページひとつにして、どんどん書き足して完成を目指すのがいいのかな、と思います。
なので、未完成の状態でどんどん公開して、書き足していく形をとりたいと思います。更新の連絡が読者に届くといいのですが、そうでないとするなら、更新の連絡は別途、記事をあげる形で行っていければと思います。
それでは、よろしくお願いいたします。
読解基本編:読解とは何か?古文を読んでみよう!『伊勢物語』「つくも髪」
古文とはいっても、まず何を読んでいるのか考えよう!
それでは、古文を読む練習をしてみましょう。文法や単語については一切考えず、まずは古文をどう読むかを考えてみます。
その際に必要なのは次のこと。
この文章の種類を考える。「物語」なのか、「評論」なのか。
この文章のテーマを考える。「物語」ならば「恋愛」か「政治」か「怪奇現象」か「因果応報」か、など。「評論」ならば、何についての話か。
物語の場合、時、場所、人と出来事を重視する。その上でわかる心情があればチェックする。
評論の場合、何の話かをつかんだ上で、言いたいことをつかむ。対比がみつかれば上出来。
とにかく最後まで読む。その際、大事なことは確実に「わかる」ことを見つけること。「わからない」ことを徹底的に無視する。
こんな感じです。
古文といったところで「文章」ですから、物語か評論かなどで、どのように読んでいくかという方法が大きく変わります。現代文であれば当たり前のことですが、古文になった途端に単語と文法の問題に置き換えられてしまうのですから恐ろしいことです。単語や文法がわかれば、現代日本語になる。現代日本語になれば、問題は解決…というほど甘くはありません。というより、そもそもいくつもの意味を持つ単語、いくつかの可能性を持つ文法を、ひとつの解釈に決めていくためには、読解の力、読解の方法が大事なのですが、どうしても省力かされてしまうようです。
「つくも髪」で実際に練習しよう!
それでは、今日は、『伊勢物語』の「つくも髪」を使って読解の練習をしてみましょう。
さて、まずは物語ですから、読む前にイメージすべきことを考えてみましょう。
物語の場合は、「テーマ」ですね。映画やドラマのイメージで考えましょう。まずは、この物語がどんなジャンルのものか考えてみる必要があります。もちろん、何の情報もない場合読みながら考えるしかないのですが、映画やドラマを見ている時点で何らかの情報を持ってある期待のもとに見始めていることが多いのですから、ここから考えてみることにしましょう。
みなさんは、何の情報も持たず、映画やドラマを見ることがありますか?
下調べなんかしていなくても、たとえば番宣を見ているとか、友達から評判を聞いているとか、そんな状況になっていることが多いですよね。特に映画だとすれば、何の情報も持たずに観に行くことの方がすくないでしょう。
仮に、何の情報も持たずに見始めていたとしても、映画やドラマを見始めれば、たとえばタイトルであるとか、タイトルロゴのイメージとか、後は音楽とか、そういう情報から、きっとこれはこういう映画(ドラマ)だよね、というようなことが予測されているはずです。
実際入試問題を解く場合でも、たとえば前注であるとか、選択肢であるとか、さまざまなところからそのテーマに当たるものを読み取ることが可能です。といより、出題者はさまざまな形で私たちに情報を与えようとしているわけです。
それでは、このように、いきなり文章が与えられ、何の選択肢もない状態であるとしたらどうでしょうか?
確かに情報はだいぶ少なくなりましたね。
でも、この話が『伊勢物語』であるというだけでも大きな情報です。有名作品は、みんなが知っているわけですから、タイトル自体が大きな情報であるわけです。
では、『伊勢物語』からどのような情報が読み取れるのでしょうか?
たとえば、『伊勢物語』についてのWikipediaの情報は以下のようなものです。
以上のような形です。
こういうものをきちんと理解した方が得、理解しなければいけない…そんなことはきっとわかっているとは思いますが、ついつい流してしまいがちですよね。あるいは、言葉としては覚えてもそれがテーマにつながるなんていうことはちゃんとわかっていることではないかもしれません。
「伊勢物語」の有名な情報といえば、
歌物語のひとつ
在原業平を主人公としている
これら歌物語と「竹取物語」などの作り物語の流れのもとに「源氏物語」ができあがっていく
こんなところでしょうか。
実はこの中にもものすごい情報がかくれています。
それは、この物語が恋愛を中心としたものであるということ。
たとえば、1の「歌物語」というのは、「歌」を中心とした物語であるということ。歌はメッセージで、手紙で、多くの場合恋文であるということですから、これだけでも「恋愛」的な物語であることがわかります。
たとえば、2の在原業平を主人公とする、というのも、ある種のイケメンを軸に据えている以上、「恋愛」がテーマである確率が高そうです。
3の「源氏物語」につながっていく…というのも、源氏物語が恋愛の物語ですから、当然この物語も恋愛がテーマであろうということは推測できます。
というわけで、「伊勢物語」は恋愛の物語です。
恋愛がテーマだとすると、
たとえば、告白までに紆余曲折ある。振り向いてもらうためにがんばったり、無視されたり。
たとえば、お互いに両思いなんだけど、邪魔が入る。恋敵だったり、病気だったり、転勤だったり、親だったり。
たとえば、うまくいったと思うけれど、相手に裏切られる。浮気したり、興味を失ったり。
こんな感じではないでしょうか。
であるとすると、登場人物はどうなるでしょうか。基本路線でいえば、「男女」1組が必要ですね。もちろん、ジェンダーフリーの現在では、これさえも怪しいし、古文の世界だってジェンダーフリーの物語がないわけではないですが、基本はこれが必要。
つまり、まずは軸となるカップル、ペアを見つけないといけません。
それを軸として、周辺の人物はライバルだったり、協力者だったり、障害だったりするわけです。そういう人がいないと物語は進みません。
このぐらいの心の準備ができたら、物語を読んでみたいと思います。
本文を読むときは「わかる」ことを大事にして、「わからない」ことを捨てる。
さて、これから本文を読んでいきます。大きなポイントとしては、まずは1組のペア、カップルを見つけなければいけません。そして、出来事を見つけましょう。付き合っていなければ、告白のタイミング、そして結果。付き合っているならば、別れのタイミング、あるいは障害=出来事は何か。そして、結局どうなるのか。
そういうことを意識しながら読むのですが、実際に読むときには、「わかる」ことをどれだけ見つけられるかが重要です。逆に言えば、どれだけ「わからない」ことを無視できるか。
確実にわかることに着目して、そこを軸にしていきます。
そうなんです。単語や文法なんて、ある意味ではいらないのです。現代語でも確実にわかることをしっかり見つけていく。それが大事。
では、読んで見ましょう。
いかがですか?わかることを見つけられましたか?
というわけで、先ほどのテキストに「わかる」ことをチェックしてみたいと思います。
とりあえず「わかる」だろうところをチェックしました。単語や文法の知識があるなら、もっと「わかる」ことが増えると思うのですが、とりあえずこんなところでいいのかなと思います。
前提として、これが「恋愛」の物語であり、1組の男女が必要、というところから考えると、中盤あたりから出てくる「きて寝にけり」というあたりが気になります。そして、どんなに読み返してみても登場する女性はひとり。
冒頭では「世心つける女」なんて書いてありますから、なんだか頭の中に想像することもできないけれど、そこを無視して「わかる」ことを探しに行くと、「子三人」とか「二人の子」とか出てきますから、どうもこの女は「母」であるということになります。
「よき御おとこ」ぞ「いでこむ」、と続きますが、どう考えても「いい男」ですね。それが「いでこむ」。そうすると女の「けしき」が「いとよし」という感じ。
どうも、お母さんはいい男に会いたいんじゃないのか?それを子供に語ったんじゃないのか?
そして、三郎という子供は、「在五中将にあはせて」とあるあたりからすると、なんとかそれをかなえたいと在原業平に母を会わせようとして、そして、二人はあって寝た…と、そんな話であることがわかってきます。
その後でですが、明らかにわかることとしては、その母、女ですが、それが、「男の家にいきて」とあるように、会いに行った。そしてそれを見た男が、「出でたつ」。そして女がその「けしきを見て、茨からたちにかゝりて、家にきてうちふせり。」というように戻ってくる物語、ということがつかめると思います。
整理しましょう。
女が子供たちにいい男に会いたいと言う。
三人の子のうち、三郎がなんとかしてあげたいと思う。
三郎は在五中将に母を会わせたいと思い、頼む。
在五中将がやってきて母は寝る。
母は在五中将に会いに行く。
その様子を見て在五中将は母の家に行く。
母は戻って寝て待ち、また二人は寝る。
こんな感じなのではないでしょうか。これで十分話はわかると思うのですが、こんなイメージでもう一度読み直してみましょう。
最初に「まことならぬ夢」とかありますが、これはなんでしょう?
道で馬の口をとる…なんてありますが、イメージできますか?
「かいまみ」ってありますが、何でしょうね?
歌の内容もだいぶわかってきませんか?
そうなんです。実は、だいたいの話の流れや登場人物がイメージできれば、「わからない」と思っていたこともなんとなくわかってくるんですね。
これがわたしの考える「読解」です。
そして、この「読解」はテクニックで、訓練です。しかも、単語や文法とは関係のないテクニックなんです。
これから一度、文法の話をしていきますが、文章を読むときには必ずこういう練習をするように心がけていきましょう。
文法基本編:「訳せない」を「訳せる」に変えるための方法
「わからない」には2種類ある。
さて、ここから文法や単語について考えて行きましょう。何のために文法をやるのか?
その答えはひとつです。
「訳せない」ものを「訳せる」状態にするため。
これだけです。
逆の言い方をするなら、「訳せる」ものの文法的説明はできなくてよい、ということです。
たとえば、日本語にしても、英語にしても、正しく話すことができるなら、文法説明は必要ではありません。つまり、話せるなら、聞いてわかるなら、あるいは正しい言葉が使えるなら、文法なんていらないんです。
日本人の私たちは、現代語文法なんてわからなくても、ある日本語が正しいか、正しくないかわかりますよね?外国人が話した日本語が、正しいか、正しくないかわかるし、正しくない日本語を正しい日本語に直すこともできるはずです。
文法というのは、そういう時には必要ない。なぜそれが間違っているか、どうしてこれが正しいのか、というその説明は文法によってなされますが、その文法的な用語による説明ができなかったとしても、きちんと正しく直せるとすれば、その説明は要らないんですね。
その説明を必要とするのは、外国人。そういう人たちが、論理的に理解するためにはどうしても文法的な説明が必要になってきます。
間違ってはいけません。
「わからない」ものを「わかる」ようにするために、文法が必要なのです。
ともすると、初期の段階では、
訳せない、わからない文章を訳す練習をするのでなく、訳せる、わかる文章で文法説明をする
ということが多いように感じます。
しかし、これは意味がありません。
「昔、男ありけり。」
なんていう文章で、過去の助動詞の「けり」だの、「あり」が連用形だのという説明はいらないんです。そんなことをやるから、文法が暗記になるし、ともすれば、学校の授業や参考書で、ひたすら品詞分解の説明を横に書いて、テストのために覚える…なんていうことが起こります。いくら覚えてもそれが後で生きるならいいですが、そうでなくただの暗記であるなら、本当に無意味です。
品詞分解というのは、「訳せない」ものを「訳せる」状態にするための「方法」だからです。
そうなんです。方法なんです。
覚えるべきは、「方法」「やり方」「手順」であって、説明された「結果」ではありません。まず、ここをきちんと理解してください。
それができれば、「訳せない」ものが「訳せる」状態になります。しかし、そうなったからといって、「わかる」とは限りません。
第一の段階、「訳せない」が「訳せる」状態になることを「直訳」といいます。直訳ができても意味がわかるとは限りません。この直訳を、「わかる」ように直すこと、それを「意訳」と言います。
「わからない」には2種類あるのです。
ひとつは「訳せない」「わからない」。
これは、文法、品詞分解、単語の知識を使って、「訳せる」「直訳」の状態に持って行きます。
それでも「わからない」可能性がある。「訳せる」のに「わからない」状態です。
こうした状態は、読解の練習をする中で、「意訳」する必要があります。前後関係や人物関係、場面や状況、古文常識などから、正しく解釈する必要があるわけです。これが本来の「読解」であるわけですね。
というところまで、理解していただいた上で、これから品詞分解の解説をします。「訳せない」文を「訳せる」ようにするためのテクニックです。
品詞分解「1動詞を活用させる、2接続からアタリをつける、3意味=訳をつくる」
それでは品詞分解の方法を説明します。まず、これをしっかり理解してください。
動詞や形容詞などを現代語でよいので見つける。「どこまで」などは考えず、現代語のこの動詞、というイメージ。その上でその動詞を活用させて、どこまでか、そして活用形が何形かを理解する。
活用形がつかめたら、助動詞(あるいは助詞)の接続の知識を使って、アタリをつける。勘でも、推測でもいい。おそらくこの助動詞、というアタリをつける。
助動詞、助詞のアタリがつくということは、意味が言える、訳せるということ。逆に言えば、助動詞から意味、訳を言う練習は最重要というぐらい大事。
以上のようになります。
この手順をまず、覚えてください。
そして、この手順にしたがって、文法の知識を使えるようにする必要があります。
それでは、この手順の中に何個の文法的知識があるでしょうか。
答えは3つです。
動詞、形容詞の活用。動詞、形容詞を見つけ、活用させ、活用形が言えるようにする。
助動詞の接続を言えるようにする。未然形、連用形、終止形、連体形、已然形という見出しから助動詞が言えるようにする。
助動詞を見たら、意味=訳が言えるようにする。理想的には、意味で分類した表を作り、それを暗記していく。
以上のように文法を理解することが大事です。
ここで強調したいことが二つあります。
活用表で理解するのをやめること。活用表は、「助動詞」の「終止形」が見出しとなって、理解が始まる。先ほどの手順でいえば、すでに3であることがわかっていることになる。そうなると、「どうやってその助動詞だとわかるか」という部分が欠落する。
どういう見出しで整理するかというと、「動詞、形容詞の活用=終止形から活用できるようにする」「助動詞の接続」「助動詞の意味」の3つを理解する。特に「助動詞の意味」については整理している確率が低いので、しっかりやっておく。
こんなことになります。
みなさん気付きましたでしょうか?
実は、ここにみなさんを苦しめてきた、ある項目が欠けているのです。
それは「助動詞の活用」です。
実は「助動詞の活用」は覚えていなくてもかなりの確率でごまかせる確率が高いのです。もちろん、「この助動詞を本文に合わせて活用させなさい」というような問題の場合、「助動詞の活用」を覚えていないとできないかもしれませんが、こと品詞分解をして訳せないものを訳す、のならば、「助動詞の活用」はなくてもごまかせる部分なのです。
それでは、文法の説明に入っていく前に、先ほどの伊勢物語を使って瀕し分解をしてみましょう。
この後、文法説明をしますから、ここでは、「覚えているなら」「理解しているなら」という前提で、やってみたいと思います。
品詞分解の実践
それでは品詞分解を実践して、正確に訳してみましょう。
やることは、
動詞、形容詞を見つけて活用させる。
接続からアタリをつける。
意味=訳を作る。
ですね。
それではやってみたいと思います。
寝にけり
まずは現代でここに入っている動詞を探します。もちろん、「寝る」ですね。古文動詞を理解していれば(もちろんこの後説明します)、活用させられます。活用は「ね・ず、ね・て、ぬ。、ぬる・こと、ぬれ・ど、ねよ」ですね。だとすると、ここは未然形か連用形になります。
未然形だとするなら、下にあるのは、「む・ず・むず・す(さす・しむ)・る(らる)・じ・まし・(で)・まほし・り」のどれかです。連用形だとすると、「き・つ・ぬ・けむ・たし・けり・たり」のどれかです。似ているものに活用しますから「~にけり」と見比べていきます。未然形接続の助動詞は厳しいですね。ですので、連用形接続の「ぬ」が「に」になりそうな気がします。
だとすると、「ぬ」の意味がいえれば、完了で「てしまう」と訳します。
そうなると、残りは「けり」ですから、3から意味が過去の「た」となり、つなげると「寝てしまった」となります。
立てりて
まずは動詞を探します。「立つ」ですね。活用させると「立た・ず、立ち・て、立つ。立つ・こと、立て・ど、立て」となります。そうすると、已然形ですね。
已然形接続の助動詞はひとつ。「り」です。
となると、「り」は存続で「ている」と訳します。
したがって、訳は「立っていて」となります。
世ごころづける女
ここにどんな動詞があるでしょ現代語で考えてみると、「つける」と「つく」の二つの可能性がありそうですね。それではまず「つける」だとして考えて行きましょう。
「つける」だとすれば、活用は「つけ・ず、つけ・て、つく。、つくる・こと、つくれ・ど、つけよ」となります。見比べてみると、未然形か連用形しかなさそうです。
さきほどと同じように、未然形だとするなら、下にあるのは、「む・ず・むず・す(さす・しむ)・る(らる)・じ・まし・(で)・まほし・り」のどれかです。連用形だとすると、「き・つ・ぬ・けむ・たし・けり・たり」のどれかです。ここでは「る」ですから、おそらく、「る」ではないかと思います。しかし、文法の知識があると「る」がつくのは四段ナ変ラ変で、未然形がa音の時で、それ以外の未然形には「らる」がつきます。たとえば、現代語で「つける」を受け身にしたら「つけられる」ですよね?ですから、「つける」というのはおかしいことがわかります。
というわけで破綻しましたので、もうひとつの「つく」で考えて見ましょう。
「つく」を活用させると「つか・ず、つき・て、つく。つく・こと、つけ・ど、つけ」となります。そうすると、已然形です。
已然形接続の助動詞は「り」です。
「り」の意味は存続で、訳は「ている」。
というわけで、世ごころが「ついている女」となるわけです。
わかりましたか?
こうやって品詞分解をして、わからないところを訳せるようにしていきます。そのためには最低3つの知識が必要です。
ひとつは動詞、形容詞の活用。
ふたつめは助動詞の接続。
みっつめは助動詞の意味。
たったこれだけを覚えて、使っていけば文法はほとんど完成します。もちろん、助動詞の活用を含めて周辺の知識も説明していきますよ。
それでは、しばらく本文を離れて、文法の説明をしていきます。
文法基本編:動詞の活用=「日本語」だから、覚えずに、感覚を信じていく!
動詞の活用=「活用の種類」の名前を理解する。
「わからない」「訳せない」を「わかる」「訳せる」に変える、方法としての品詞分解を説明していきます。その第一歩目は、動詞の活用です。
動詞の活用を理解していく上で一番大切なのは「覚えない」こと。
古文をやっていく上で大きな誤解とも言える部分です。
「古文は英語のようなものだから覚えないといけない」
こんな言われ方をすることもあるかもしれませんが、はっきり言って間違いです。古文は日本語です。現代の日本語と一続きの地平にあります。だから、覚えるよりも感覚を信じた方がいい。「古文が日本語ではない」と思ってしまうと、明らかに「なんでそんな言葉になるかなあ…」と思うような活用を平気でしていくことになります。
はっきり言います。古文は日本語。
覚える必要はありません。あなたは日本語を理解しているのだから。
さて、そういう前提で考えた時にまず、大事なのは「活用の種類」を覚えることです。
その活用の種類というのは次のもの。
四段活用
下二段活用
上二段活用
上一段活用
下一段活用
サ行変格活用
カ行変格活用
ナ行変格活用
ラ行変格活用
以上の8つです。
この8つの名前を覚えることが最初なのですが、この8つを二つのグループに分けます。
一つ目のグループは、「その活用をする動詞を覚えなければいけないグループ」、例外的な動詞のグループ。
そして、もう一つのグループは、一般的な活用をする、その他すべての動詞が所属するグループです。
覚えるグループ
まずは覚えなければいけないグループです。
上一段
下一段
サ行変格活用
カ行変格活用
ナ行変格活用
ラ行変格活用
の6つですね。上一段、下一段の他、変格活用が4つです。まずここを覚えてしまいましょう。
「サカナラ(坂なら・魚ら)」「サラカナ(皿かな・サラちゃんかな)」「カサナラ(傘なら)」「ナラサカ(奈良坂)」
なんでもかまいません。とにかく言ってみて覚えてしまうのが大事です。変格活用はこの4つだけです。
それを踏まえて、そこの所属する動詞を覚えてしまいましょう。
上一段活用
着る・見る・煮る(似る)・居る(率る)・鋳る(射る)・干る
「君にいい日」で覚えましょう。別に「ミキにいい日」でも、「君にひいい」でも何でもいいんですけど。
「いる」が二つあるのは、「ゐる」と「いる」があるからです。最後は「ひる」。
また、「こころみる」「ひきゐる」「もちゐる」のように、実際には「~みる」とか「~ゐる」のような語もあるので、実際にはもう少し多くなります。
下一段活用
蹴る
これだけです。
サ行変格活用
す・おはす
「す」というのは、現代日本語の「する」です。現代日本語がそうであるように、「~する」という形で動詞の数はたくさんあります。勉強する、掃除する、食事する…。つまり、「名詞+す」の形になるとサ変動詞ですので、ここは注意してください。
カ行変格活用
く(来)
これだけです。現代日本語の「来る」
ナ行変格活用
死ぬ・往ぬ(去ぬ)
「しぬ・いぬ」です。
ラ行変格活用
あり・をり・はべり・いまそかり
この4つになります。
以上です。これで「覚えなければいけないこと」はほぼ終わりです。
まずは、ここまで言えるかどうか確認してください。
動詞の活用の種類は言えますか?
そして、その活用をする動詞は言えますか?
確認できたら、次に進みましょう。
覚えない=多くの動詞のグループ
さて、今、出てきた以外の動詞は、当然、違う動詞の活用をします。
四段活用
下二段活用
上二段活用
の3種類です。でも、上と下はほぼ同じですから、実際は、
四段活用
二段活用
の2種類と理解してもよいでしょう。
それでは、この2種類はどのような違いがあるのでしょうか。
四段活用
現代語…書く、読む、言う、食う、立つ、遊ぶ
二段活用
現代語…投げる、過ぎる、流れる、落ちる、降りる、明ける、寝る
これを見て、一目瞭然だと思います。
実は、二段活用になる動詞は、現代語で「~る」となる動詞に限るのです。四段活用でも「眠る、降る、走る」などのように「~る」で終わるものもあるので、「『~る』で終わるものは全部二段動詞だよ」と説明できないのが残念ですが、「二段動詞は現代語で『~る』のもの」という説明はできるのです。
これが最初。
次に、説明できるのは、古文でいうと「~ず」、現代語なら「~ない」をつけて否定形を作るとき、
四段動詞…~aず(ない)
二段動詞…~iず(ない)or~eず(ない)
になるということです。
で、最後ですが、実は、
四段動詞は、古文と現代語が同じ。
それに対して、
二段動詞は、古文と現代語の形が違う。
ということがあるんです。
つまり、古文には、「投げる、捨てる、落ちる、逃げる、食べる」などの動詞は存在しません。もちろん、二段動詞というぐらいですから、これらの動詞が消えてしまうわけではなく、「形が違う」ということになります。
その形というのは、
「る」をとって、上の音をuに変える
というものです。
やってみましょう。
食べる→「る」をとる→食べ→uに変える→食ぶ
捨てる→「る」をとる→捨て→uに変える→捨つ
逃げる→「る」をとる→逃げ→uに変える→逃ぐ
こんな感じです。
これ、結構大事なポイントなんですが、ほとんどの参考書で見たことがありません。なので、必ず理解してください。
まとめ
四段動詞
現代語で「る」で終わらないもの。(一部、「る」で終わるものもある。)
「ず」「ない」をつけると「aず」になる。
現代語と形が同じ。したがって、終止形は現代語のまま
二段動詞
現代語で「る」で終わる動詞。(「る」で終わっても四段動詞の可能性はある。)
「ず」「ない」をつけると「iず(上二段)」「eず(下二段)」
現代語と形が違う。「る」をとって、上の音をuに変えると、古文の終止形ができあがる。
「現代語と古文の形が違う動詞=二段活用の動詞」の古文の形を考える。
それでは、もう少しこの説明をしておきましょう。それではまずは練習です。それぞれ現代語の動詞を古文に直してみてください。
落ちる
投げる
明ける
飽きる
見える
寝る
さあ、やってみましょう。
1 「落ちる」です。
「る」をとる→上の音をuに変える
ですね。
落ちる→「る」をとる→落ち→uに変える→おつ
2 投げる
投げる→「る」をとる→投げ→uに変える→なぐ
3 明ける
明ける→「る」をとる→明け→uに変える→あく
4 飽きる
飽きる→「る」をとる→飽き→uに変える→あく
3と4についてです。こうしてみると、できあがった古文の「あく」は、逆に現代語にした時に、「あける」となる可能性と「あきる」になる可能性があるわけです。もっと書くと、四段活用の「空く」とか「開く」の可能性もありますよね。実際に、こういう可能性から古文の理解をする必要があります。もちろん、終止形でなく、活用してくれているとわかります。
未然形なら「明けず」「飽きず(古文では四段活用の時代が長いので実際にはこう活用するケースは少ないです)」「開かず」、連用形なら「明けて」「飽きて」「開きて」という感じです。
5 見える「る」をとって、上の音、つまり「え」をuに変えるわけです。ここで迷ってもらわないといけません。五〇音図を見た時に、実は「エ」は二つあるからです。
一つ目は
アイウエオ
二つ目は
ヤイユエヨ
です。
ちなみにもう一つでそうなワ行は、
ワヰウヱヲ=わゐうゑを
なので、「え」は入っていません。
ここで覚えておいてほしいのは、
ア行活用の動詞は「得る=得(う)」のみ
ということです。もちろん「心得(こころう)」などという動詞もあるのですが、「得」のみです。
つまり、これらは全部ヤ行、したがって、
見える→「る」をとる→見え→uに変える→見ゆ
になります。
では行きましょう。
消える
聞こえる
燃える
おぼえる
越える
それぞれ、古文の形はどうなるでしょうか。
正解です。
消ゆ
聞こゆ
燃ゆ
おぼゆ
越ゆ
となります。
6 寝る
「る」をとって、上の音をuにすると…えっ、それでいいんですか…となるかもしれませんね。
その通りです。
正解は「寝(ぬ)」です。
寝る→「る」をとる→ね→uに変える→ぬ
ですから。
こういう現代語で2文字の動詞は古文では一文字になります。
経る
得る
やってみましたか?
経る→「る」をとる→へ→uに変える→ふ
得る→「る」をとる→え→uに変える→う
さっき説明したように、「得る」はア行活用の動詞ですので、「ゆ」ではなく、「う」になります。
古文で、現代語がイメージしにくいものは二段動詞。逆に「る」をつける!
ここまで、現代語で「る」で終わる二段動詞について説明してきました。
この「現代語と形が違う」というのが、古文のポイントです。古文の場合、文法の出題が出てきた時に現代語と異なる「終止形」を答えるような問題も出ますが、入試問題に近づいていくとそういう出題は少なくなります。
むしろ、何気なく現代語と違う形で放り込まれている普通の動詞が、現代語では何か気づくことができるかがポイントになります。
古文と現代語で形が違うわけですから、当たり前のような多くの言葉が実際には現代語では何か気づかない…ということが起こるわけです。
まとめると、次のような作業が必要だと考えられます。
ぱっとみて見慣れない動詞だと思ったら、二段動詞を疑う。
現代語から古文を作る逆の作業をする、つまり、「る」をつけてみる。
というのが大きなポイントです。
実践してみましょう。
なぐ。
さあ、これは何でしょうか?
もちろん、「凪ぐ」だったら、現代語と同じで四段活用ですが、本文の意味からして違うと気づきます。
そうだとすると、これは二段動詞です。
きっと現代語では「る」がついているんですね。
つまり、「なぐ」「る」。が現代語に近い形です。
「なぐる」。
これに近い現代語をイメージしましょう。どうでしょうか。
どうしてもだめなら論理的に考えます。「ぐ」がuになったところですから、もとは「ぎ」か「げ」。
「なぎる」か「なげる」ですから、正解は「投げる」ですね。
こういう作業が意外と大事になるんです。
どんどん続けましょう。
「おる。」
どうでしょうか。
「折る」なら四段活用ですね。そのままです。
「居る」なんていうのも思いついたでしょうか。これは厳密には×です。古文では「居る」は「をり」で、ラ変です。まあ、現代語の感覚で「おる」とやった場合はやはり四段活用ということになりますね。でも、それも違うとします。
だとすると、「る」をつけてみる必要があります。
「おる」「る」。
となりますから、「おるる」に近い現代語を考えます。
見つかりましたか?
そうすると「降りる」であろうと推測できます。もちろん「折れる」の可能性もあるんですけど。
もう少しやっておきましょう。
すつ。
いかがでしょうか。
現代語ではありそうにないので、きっと二段活用です。なので「る」をつけてみましょう。
「すつ」「る」
これは簡単でしょうか。
「捨てる」
ですね。
「つく」
「付く」なら簡単ですが、そうでないと仮定したらどうでしょうか?
「る」をつけると、「つく」「る」ですね。
「作る」は四段活用で、現代語と古文は同じです。
「つくる」ですから、「つきる」か「つける」です。
たとえば、「尽きる」。
たとえば、「付ける」。
「見つく」が「見つける」になったり、「言ひかく」が「言いかける」になったりするようなパターンもあります。
古文を読解していくときには、むしろ「見たことのない動詞」に「る」をつけて、現代語を見つけるという作業が必要になるので、覚えておきましょう。
動詞を活用させる!覚えずに感覚を重視!
ここまでやってきたことがわかれば、後は活用させるだけです。
念のため、ここまでの復習。
覚えなければいけない「活用の種類」が言えますか?
その活用をする動詞を言えますか?
四段動詞と二段動詞について、現代語からわかることを言えますか?
現代語を古文の二段動詞に直せますか?
ここまでできれば大丈夫。
活用させてみましょう。
活用のポイントは、「日本語の感覚を信じる」こと。変に覚えたりせず、ひたすら頭に浮かんだ語を、日本語のイメージでくっつけてみるだけです。
つける語は以下の通り。
未然形 ~ず、~む
連用形 ~て、~、
終止形 ~。
連体形 ~こと、~時、~を
已然形 ~ど、~ども
命令形 (命令)!
こんな感じです。ほとんど覚えることはなく、ただ、これらの言葉につけていけばいいだけです。
いえ、覚えてはいけません。日本語を話せるあなたの感覚を信じるのです。
それでは四段動詞でやってみましょう。
四段動詞の活用
四段動詞は、
現代語と古文で同じ
現代語で「~る」で終わらない動詞(「走る」などのように「る」で終わるものもあります。)
「~ず」にすると「aず」になるような動詞。
でしたね。
それではやってみましょう。
たとえば、「書く」です。
「書か」ず
「書き」て
「書く」。
「書く」こと
「書け」ど
「書け」!
という感じ。普通ですね。
では、「読む」でやってみましょう。
「読ま」ず
「読み」て
「読む」。
「読む」こと
「読め」ど
「読め」!
どうですか?これも普通ですよね?
このように、変に覚えることなく、その語を感覚通り、言ってみることが大事なのです。
たとえば、これを覚えてしまうというのは、次のような手順になります。
四段活用は「か・き・く・く・け・け」と活用する。
「読む」の場合、音を合わせていくと「ま・み・む・む・め・め」だ。
ということは、(たとえば)未然形は「読ま」だ。
というようなこと。「読む」という動詞をなぜ、一度カ行で活用させるかも意味不明だし、「ま」と活用語尾だけを取り出していることもミスにつながりやすい。
日本語の感覚があるなら、そのまま活用させれば、変なことをしたときに「変だ、この日本語」という感じも出てくるはずです。
というわけで、覚えるより感覚を信じましょう。
二段動詞の活用
二段動詞は
現代語と古文で形が変わる。
現代語では必ず「~る」で終わる動詞になっている。
「ず」をつけたときに、「iず」または「eず」になる。
ですね。
というわけで、活用させるのはまったく同じで、「ず、て、。、こと、ど、!」というように、現代語の感覚でつけていくだけです。とにかく、「~る」というような、現代語のまま活用させていくのがコツです。
では、まず「流れる(現代語)」でやってみましょう。
「流れ」ず
「流れ」て
流れる…といきたいところですが、「る」をとって「u」に変える、ということですので、「流る」。(「流れ」「る」と「る」をとって「流れ」の「れ」を「u」音に変えますから「流る」ですね。)
「流る」に「る」をつけて、「流るる」こと
「流る」に「れ」をつけて、「流るれ」ど
「流れよ」!(命令にすると「流れろ!」というのが現代語ですが、ちょっと古文ぽくすれば「流れよ」としてください。)
こんな感じです。終止形から連体形、已然形に行くところがポイントですので、ここを集中的にがんばりましょう。
終止形=古文と形が違うので「る」をとって、uに変える。
連体形=その終止形に「る」をつける。
已然形=終止形に「れ」をつける。
というところがポイントです。そもそも、なぜ現代語が「~る」という形になったかというと、鎌倉武士が連体形を終止形で使い出した、というのが発端のようです。「水流る。」を「水流るる。」と言い出した、というようなことですね。終止形で「る」をとって「u」に変え、連体形であらためてそれに「る」をつけて戻す、ということができると楽になります。
では、もう少し練習してみましょう。
現代語の「食べる」でやってみましょう。
古語は何ですか?
「る」をとってuに変えますから…
古語は「食ぶ」ですね。
でも、活用させる時は「食べる」のイメージで始めましょう。
「食べ」ず
「食べ」て
「食ぶ」。(「食べ」をuにします)
「食ぶる」こと(終止形「食ぶ」に「る」をつけます)
「食ぶれ」ど
「食べよ」!(「食べろ」といきたいですが、古文ぽく)
こんな感じです。
「落ちる」ではどうでしょうか?
必ず自分でやってみましょう。
古文では「落つ」ですね。(「落ち」をuに変えます。)
「落ち」ず
「落ち」て
「落つ」。
「落つる」こと(終止形「落つ」に「る」をつける)
「落つれ」ど
「落ちよ」!(「落ちろ」を少し古文ぽく)
いろいろな二段動詞がありますが、練習してみてください。現代語で「る」で終わり、「ず」をつけたときに「iず」「eず」になるような言葉ですね。
もう少しやりましょう。「寝る」です。
「る」をとって「u」に変えると「ぬ」。ですね。(「ね」をuに変えますから一文字の「ぬ」です。)
でも、活用させる時は「ねる」に戻して考えましょう。
「ね」ず
「ね」て
「ぬ」。(「ね」をuに変えます)
「ぬる」こと(終止形「ぬ」に「る」をつけます)
「ぬれ」ど
「ねよ」(「ねろ」を少し古文ぽくします)
どうでしょうか。違和感はあるかもしれませんが、やることは一緒ですね。
二段動詞は数も多く、古文と現代語で違うという大事なポイントですから、もう少し練習してみましょう。
今度は「見える(現代語)」でやってみましょう。
「る」をとって「見え」を「u」に直します。でもア行に活用するのは「得(う)」だけですので、ヤ行、すなわち「見ゆ」になりますね。ただ、活用のスタートは戻して「見える」のイメージで考えましょう。
「見え」ず
「見え」て
「見ゆ」。(「る」をとって、uにしますがヤ行です。)
「見ゆる」こと(終止形に「る」をつけます。)
「見ゆれ」ど
「見えよ」!(「見えろ」を古文ぽいイメージに直します)
いかがでしょうか。
これらが二段動詞の活用です。初期段階、最も慣れた方がいい部分ですので、しつこく口になじませることをおすすめします。
上一段活用
それでは、ここからそれ以外の活用を考えていきましょう。
これらの活用も、日本語としての感覚を信じることが大事です。したがって、覚えるという発想よりは、日本語として普通の感覚でもっていくことが大事です。
まず、上一段活用の動詞が言えなければしかたがありません。
復習しましょう。
きみにいいひ
ですから、
着る・見る・似る・居る・射る・干る
などですね。
これらの語をイメージして、
ず
て
。
こと
ど
!
につけていくわけです。
それでは、「着る」で考えてみましょう。
「着」ず
「着」て
「着る」。
「着る」こと
「着れ」ど
「着よ」!(「着ろ」を古文ぽくするイメージです)
いたって普通です。しかし、先ほどやった二段活用と見比べると形が違っていることがわかります。たとえば、終止形で二段活用は「る」がとれるのに対し、これらの言葉は「着る」「見る」というように、「る」が残ったままです。したがってより現代語らしい形が残っていると感じるはずです。
二段活用では終止形で「る」がとれて、そこに連体形、已然形で「る」「れ」をそれぞれつける形になりますが、一段活用では終止形で「る」が
残るので、連体形は同じ形になっています。
これが、一段活用と二段活用が分けられている理由です。活用のパターンが異なるわけですから。
でも、そういう難しい話をおいておくと、活用自体は、ごくごく普通であることに気づきます。なので、覚えるのでなく、日本語としての感覚を信じるようにしましょう。
下一段活用
下一段活用の動詞は「蹴る」ですね。これが言えないと始まりません。
では、「蹴る」を日本語の感覚を信じて活用させてみましょう。
「蹴ら」ず
「蹴り」て
「蹴る」。
「蹴る」こと
「蹴れ」ど
「蹴れ」!
というイメージです。
「あれ?」と思ってください。
これでは四段活用です。
「走らず、走りて、走る。、走ること、走れど、走れ!」
とまったく同じですね。
なので、実はこれではまずい。そこで覚えてほしいのが、
「上一段と同じ」
ということです。
まず、上一段活用させて、そこに「蹴る」をあてはめていきます。
「着る」は「着」ず→「蹴る」は「蹴」ず
「着る」は「着」て→「蹴る」は「蹴」て
「着る」は「着る」。→「蹴る」は「蹴る」。
「着る」は「着る」こと→「蹴る」は「蹴る」こと
「着る」は「着れ」ど→「蹴る」は「蹴れ」ど
「着る」は「着よ」!→「蹴る」は「蹴よ」!
こんな感じです。
これは上一段の「干る」など、現代語になく感覚がつかえない動詞にも適用できます。「着る」や「見る」「似る」などの現代語の感覚が使える動詞を活用させて、そこに「蹴る」なら「け」、「干る」なら「ひ」を置き換えていくわけです。
サ行変格活用
つづいて、サ行変格活用です。
サ行変格活用の動詞は「す」「おはす」ですね。
実際には、名詞(音読み)+「す」の形はサ変とみて間違いないですから、山ほどサ変動詞はあります。
「念ず」「困ず」などの動詞もサ変です。
「す」は現代語では「する」。
二段動詞同様、「る」をとって、uに変えると「す」になるわけです。
というわけで、活用させる時は「する」のイメージでやっていくといいですね。
「せ」ず
「し」て
「す」(する、としたいところですが、「る」をとってuに変えます)
「する」こと
「すれ」ど
「せよ」!(しろ、としたいところですが、古文ぽく行きましょう。)
「する」だと思うと実に普通です。
しかし、これ、ものすごく特殊。
未然形が「せ」ず
なのに
連用形が「し」て
と、「せ」「し」と動くわけです。ここが「変」なので、変格活用です。
でも、現代語の感覚でみれば、「せ」ず、「し」て、が普通ですから、これを尊重するだけです。
カ行変格活用
同様にカ行変格活用です。これは「来(く)」ですね。
現代語は「来る」。二段、サ変同様、「る」をとって、uに変えるから「来(く)」になります。
でも、活用させる時は「来る」のイメージでやってみましょう。
「こ」ず
「き」て
「く」(くる、といきたいところですが、「る」をとってuです)
「くる」こと
「くれ」ど
「こよ」!(現代語の「こい!」のイメージですね)
実に普通なのですが、これもすごく変です。
最初が「こ」とoの音になります。ここまで見てきたように、a、i、eの音で活用してきたのに、なぜか「こ」。
というわけで、この時点で仲間はずれが確定してしまいます。
なので、このせいでカ行変格活用になるわけです。
ラ行変格活用
ラ行変格活用は、「あり」「をり」「はべり」「いまそかり」になります。
「あり」が現代語に残っているので、「あり」のイメージで活用させてみましょう。
「あら」ず
「あり」て
「あり」。
「ある」こと
「あれ」ど
「あれ」!
というわけで、至って普通。
しかも四段活用のように見えませんか?というわけで何が四段活用と違うのかよく見てみると…。
そうです。実は終止形が「あり」とiの音なんですね。
小学校でも、「動詞っていうのは、伸ばすとuの音になるんだよ」なんていう風に習っているはずなのに、なぜか「あり」。
生まれついての「変」なんですね。動詞のくせに「i」で終わる。
どうも「あり」というのは、状態、存在をあらわすわけで、動詞というのは合わない。つまり、状態をあらわすのは形容詞的で、そうなると「~し」とiで終わるんじゃないかなんていう説明がされているようです。ともかくも、終止形が「ある」でなく「あり」というところが四段活用と明確に区別されている根拠です。
ナ行変格活用
最後にナ行変格活用です。
「死ぬ」と「去ぬ・往ぬ」のふたつです。
現代語にあるのは「死ぬ」ですから、こちらでやっていきましょう。
「死な」ず
「死に」て
「死ぬ」。
「死ぬ」こと
「死ね」ど
「死ね」!
こんな風に普通に活用できるんですが、気がつく人は気がつくと思いますが、普通すぎて四段活用です。
これでは「変格活用」になりませんね。
というわけで、唯一少し覚えてもらうものがあるとしたら、このナ行変格活用になります。
覚えるのは、「シニ」。「死ぬ」なので「死に」で「42」。
つまり四段から二段ということです。最初は四段、途中から二段
「死な」ず
「死に」て
「死ぬ」。(ここまで四段活用普通です。)
「死ぬる」こと(ここから二段ですから終止形に「る」をつけます)
「死ぬれ」ど
「死ねよ」!
こんな感じです。ナ変動詞としては、実は「死ぬ」というのは縁起が悪い言葉であまり登場しません。代わりの隠語を使うことが多いので、実際に本文で見るのは「去ぬ」「往ぬ」の方が多いはずです。ぜひ、ここだけ覚えてください。
動詞の活用~係り結び・疑問文と強調文
さて、ここで視点を変えて係り結びを説明しておきましょう。
係り結びというのは、「ぞ・なむ・や・か」「こそ」などの係助詞が使われると文末をそれぞれ連体形、已然形へと変化させることを指します。こういう決まりで話していたわけで、その文末が動詞であるとするなら、これは動詞の活用を学ばなければいけません。(実際には形容詞や助動詞などがその対象となるわけですから、動詞の活用とはかぎりませんが、まずは簡単に動詞で学習しましょう。)
疑問文~「や」「か」は疑問文を作る!
さて、実は係り結びで一番重要なポイントは、
「や」「か」は疑問文を作る
ということです。
英語を学習する時でも、平叙文を習ったら、必ず否定文と疑問文を習いましたよね?このように疑問文を理解することはとても重要です。
なぜなら、疑問文と平叙文では意味がまったく違うからです。
たとえば
「花が咲きます。」
と
「花が咲きますか。」
を比べてみます。疑問文は聞いているのに対し、平叙文は「花が咲く」と断定しています。
いえ、それだけではありません。少し強めに「花が咲きますか!」と言ってみると、「いえ、咲きません」と言っているような気がします。これが反語表現です。これだと平叙文「花が咲きます」に対し、「花が咲きますか、いや、咲きません」とまったく違う意味になります。
これを詠嘆でとることもできます。「咲かないと思ったけど、花が咲きますか!」という感じ。これだとまた花が咲く方にもどりました。
こうした重要な意味の変化をもたらす疑問文を作るのが「や」「か」だということです。
「花や咲く。」
は、「花が咲くか」ということを聞いています。
ここまで細かくわからなくてもいいですが、「や」は下がわからない時、「か」は上がわからない時に使います。
従って「花や咲く。」は、
花があることは確かだが、咲いているかどうかを聞いているということになります。
もし、逆に、
咲いていることは間違いがそれが花かどうかわからない
ということだと、
咲くは花か。
のようにした方がわかりやすくなります。
また、そういうことなので「か」は5W1Hなどの疑問辞と一緒に使われます。
いかが
などか
何か
いづれか
いづくにか
誰か
これらの最後の「か」「が」は係助詞からきているものです。
まず、この
「や」「か」が疑問文を作る
ということを頭に入れましょう。
続いて強調文です。
強調文のポイントは、
強調の意味はそのまま=訳さない
ということです。
花が咲く
を強めても、
花が咲く
にしかできません。(もちろん「花こそが咲く」などのようにあえて強調することはできますが、「咲く」を強めるとなると難しいです。)読むときに感情を込めるぐらいの手段になってしまいます。
ここで問題なのは、
「~こそ~已然形」
のパターンです。
雨こそ降れ。
ですが、どのような訳になりますか?
「雨よ、降れ!」
「雨が降ってほしい」
「雨が降るとよいのに」
こうした訳はすべて×です。
正解は、
「雨が降る」
です。
なぜなら、
強調文の訳はそのまま
だからです。
最後の「降れ」は命令形ではなく已然形で、それは「雨降る」を強調したものです。
したがって、已然形を終止形に戻す必要があります。「こそ」がなかったら…と考えるわけです。
そうすると、「雨が降る。」
共通テストなどでもよく見るひっかけ問題ですので、「~こそ~已然形」は、元の形に戻す、ということを理解しましょう。
文法基本編:形容詞の活用
古文の形容詞と現代語の形容詞 ク活用とシク活用
続いて形容詞の活用に入りましょう。
活用するものと言えば、動詞、形容詞、形容動詞、助動詞です。
形容動詞は助動詞とセットで説明した方がいいので、みなさんの苦手意識を一身に背負う助動詞を除けば、この形容詞が大事なところ。これさえ乗り切れば、助動詞の説明に入れます。
さて、まず「形容詞」とは何か理解しなければいけません。
現代語で日本語の形容詞は「~い」で終わるものです。
赤い、楽しい、寂しい、つらい、美しい、恥ずかしい、暗い
などなど。
これらが形容詞になります。
これらの動詞を古文に直すと次のようになります。
赤し・つらし・暗し
楽し・寂し・美し・恥づかし
二つの違いがわかるでしょうか。
上のグループ 現代語で「~い」で終わる=「い」を「し」に変える=ク活用のグループ
下のグループ 現代語で「~しい」で終わる=「い」をとって古語にする=シク活用のグループ
要するに、現代語で「~い」と終わるか「~しい」と終わるか判別すればいいわけです。「~しい」で終わるのがシク活用、「~い」で終わるのがク活用です。
形容詞の活用 ク・シクだから最初は…ク・シク
それでは、活用させてみましょう。
動詞と同じように、
ず
て
。
こと
ど
!
のイメージで形容詞もつけていくといいのです。
それでは、現代語「よい」で考えてみましょう。
「~しい」でなく「~い」ですから「よし」で、ク活用ですね。現代語から古文を考える際もたいてい日本語の感覚、古くさく言うような感覚でいけるのではないかと思います。
では「活用させる」、つまりさきほどの語につけていきましょう。
とはいえ、動詞に比べると最初、どうしていいかわからない感じもあるかもしれませんね。
ここで覚えてほしいのは、
最初は「ク」「シク」、だからク活用、シク活用
ということです。
つまり、最初を「ク」「シク」にしてみます。
「よい」の場合、日本語の感覚を信じると「よく」ですね。「よしく」じゃなんだかわからない。
というわけで、「よく」に「ず」をつけてみます。
「よく」「ず」。
うん、言わない。
明らかに変です。
というわけで、これを日本語にどうにかしたいと考えると、
「よく」「あら」「ず」と、間に「あり」をつなぐとなんとかなる。よくあらず、よくない、ということですね。
というわけで、形容詞には「あり」がついた形が存在します。
未然形「よから」ず、「よから」む
連用形「よかり」き、「よかり」けり
(終止形「よかり」=文法書ではないようになっていますが、「よくあり」がつまったものとして「よかり。」で終わる例は散見します。)
連体形「よかる」べし、「よかる」まじ
已然形「よかれ」ど(「よけれ」ど、の方が普通ですが、これも散見します。)
命令形「よかれ」(よかれと思っていうのよ、っていうあれです。)
これらの形は「カリ活用」なんて呼ばれたりもするんですが、ようは「~く」「あり」がつまった形なんです。形容詞+「あり」なんですが、くっついてしまうと途中で切ることはできませんから、形容詞として説明するしかなくなっています。
というわけで、形容詞にはこういう余計な活用があります。
ちなみに、(とはいえとても大事なことなのですが)形容詞の未然形「~く」連用形「~く」の二つは、助動詞や終助詞などにはつかないんですね。つまり、助動詞や終助詞など、形容詞の意味を変えて文を終わらせるような時には必ず、「~から」「~かり」というカリ活用の方でくっつきます。
ちょっと考えるとわかるんですが、たとえば、「よし」で考えると、
「よく」「ぬ」
「よく」「き」
「よく」「ず」
とか変ですよね。なので、この間に動詞「あり」を必要として、
「よく」「あり」「ぬ」=「よかり」「ぬ」
「よく」「あり」「き」=「よかり」「けり」
「よく」「あら」「ず」=「よから」「ず」
というようになるわけです。
これ、後で助動詞の識別をやる時に必要な知識となるので、なんとなく頭に入れておいてください。
ちなみに、形容詞と同じことを起こすのが、助動詞の「ず」です。「ず」ではつながらないので間に「あり」を入れて、
「~ず」「あり」「けり」
「~ざり」「けり」
というように活用します。
それでは連用形に戻りましょう。
未然形=「よく」ず、は変だから「よから」「ず」でカリ活用の流れへ。
連用形=「よく」て、「よく」「、」「よく」「動詞」
終止形=「よし」。
連体形=「よき」こと(「よい」こと、の古文ぽいイメージです。)
已然形=「よけれ」ど
これと先ほどのカリ活用を加えれば同じです。
形容詞の活用のポイントと手順
古文の形容詞は「~し」
形容詞はク活用とシク活用
なので最初は「~く」「~しく」と活用する。
でも「~く」「ず」は変なので、間に「あり」をいれて「~から」「ず」ここからカリ活用の流れをイメージする。
連用形に戻って、「よく」て、「よし」。、「よき」こと、「よけれ」ど
助動詞や終助詞に付くときはカリ活用
文法基本編:助動詞
助動詞は、「接続」「意味」「活用」の3つの見出しでまとめていく!
ここまで、動詞、形容詞とやってきましたが、それはすべて、助動詞の接続の知識を使って、助動詞にアタリをつけるためです。
訳せないときは、品詞分解をする。
まず、動詞、形容詞を活用させ、活用形を推測する。
活用形から助動詞の接続’(助詞などの知識の時もあります)を使って、助動詞のアタリをつける。
助動詞にアタリがついたら、意味=訳を言う。
これだけのことをやりたいから、ここまでやってきたわけです。なので、動詞と形容詞の知識なんて、品詞分解をしないならわからなくてもいいくらい。
だって、ここまでみてきたように、日本語だから感覚で理解できるわけですから。
さて、ここで重要なのは、
助動詞ひとつずつを見出しにしない
ということです。
「助動詞ひとつずつを見出しにする」とは、たとえば、「き」という助動詞について
意味、訳が言える。
接続が言える。
活用が言える。
そのほか、注意事項が言える。
ということ。
何が問題かというと、これが使えるためには、まず、その助動詞が「き」である、ということが自信を持っていえるということになります。
「咲きにしを」とある時に、その「し」が「き」である、ということがわかっていれば、先ほどの1~4までの知識も引き出せるでしょうが、「わからない」とすれば、無限の(実際には有限ですが)助動詞の知識からランダムに引っ張って「し」が「き」であることを確定しなくてはいけません。
これが、助動詞が難しいと皆さんが感じる大きな原因なのです。
というわけで、「き」だとわからない前提でやっていくと、品詞分解の方法が必要になり、その方法に沿って整理することが大きなポイントになるのです。
助動詞に関わるところを抜き出すと
活用形から、接続の知識を使って、アタリをつける。
アタリがついたら意味が言えるようになっている。
ということになります。
したがって、
接続
意味
活用
の順番に助動詞が整理できればいいのです。
助動詞の接続
比較的言えるようにしている人もいるかもしれませんが、これが助動詞の第一歩です。
「接続」というのは、助動詞は上につく動詞の形を決める、ということです。
現代語で言うと、「書く」を打ち消しにすると、「書かない」になりますね。決して「書きない」とか「書くない」とかにはなりません。
しかし、「ます」をつけると「書きます」になって、「書かます」にはならないのです。
このように、助動詞はなぜか、上の動詞の活用を決めるのです。
これが「接続」。
未然形接続の助動詞というのは、これらの助動詞の上にくる動詞や形容詞は未然形になりますよ、ということなのです。
これを覚える必要があります。
覚え方はなんでもかまいませんが、初心者向けには次のストーリーで説明しておきましょう。
あなたは一人部屋にいます。そうすると、おしりがかゆい。むずむずする。なので、鏡を二枚使っておしりを見てみると、じんましんが出来ています。
覚えるフレーズ
「むずむずするじんましんでまあおしりかゆい」
おしりがかゆいあなたの部屋を誰かがノックします。こんこん。きつねです。そのきつねは、あなたがじんましんができてかゆいことを何度も何度も指摘してきます。あなたはそのきつねがウザくて仕方ありません。最後にあなたは蹴飛ばしてしまいます。
覚えるフレーズ
「きつね煙たし、蹴りたり」
悪いことしたなあ、と思いながら窓の外を見ると、きつねが逃げていきます。その向こうから「うる星やつら」のラムちゃん(虎のビキニをきて、「だっちゃ」と「ダーリン」としゃべるラムちゃんです。「あんまりソワソワしないで」の歌がカバーされたりしてますね。)がやってきます。しかし、彼女はジャージを着て、煙草を吸ったりしています。あなたは思います。ラムちゃんまじめになったほうがいいよ。
覚えるフレーズ
「ラムちゃんまじめになるべし」
ここまでです。一応、この後、キテレツ大百科のブタゴリラがでてきたりするバージョンがあるのですが、フレーズが短いので、フレーズだけ行きましょう。
覚えるフレーズ
「なり・たり・ごとし」(ブタゴリラ、たるのごときなり、というのがあるんですが、前の方が覚えやすいと思います。)
覚えるフレーズ
「りかちゃん、さみしい」
以上です。覚えられましたか?
これが覚えられれば、助動詞の接続が言えます。
「むずむずするじんましんでまあおしりかゆい」
未然形=む・ず・むず・す(さす・しむ)・る(らる)・じ・まし・(で)・まほし・り
「きつねけむたし、けりたり」
連用形=き・つ・ぬ・けむ・たし・けり・たり
「らむちゃんまじめになるべし」
終止形=らむ・まじ・めり・なり・べし
連体形=なり・たり・ごとし
「りかちゃんさみしい」
已然形=「り」サ変の未然形と四段の已然形につく
以上になります。
ちなみに最後の「り」ですが、下二段活用は何形にするでしょうか。
正解は…
つかない
です。
サ変の未然形と四段の已然形ですから、それ以外の二段活用、一段活用、カ変などには「つかない」「つけない」ということです。
言えましたか。
実はこれで、すでに助動詞の1/3が終わったのです。本当に。
自信を持って次に進みましょう。
「す・さす」「る・らる」の接続
これらの未然形接続の助動詞は、二つずつあります。これらは動詞の種類によってつく助動詞が変わります。
「す」「る」 四段・ナ変・ラ変の未然形
「さす」「らる」 それ以外の活用の未然形
こう書いてしまうと、なんだか難しくて覚えにくいような気がしますね。
実は、これ、自分で受身や使役にすると、自然とやっている作業なんです。
たとえば、「読む」。
「読まれる」「読ませる」。古文では「る」をとってuにしますから、「読まる」「読ます」ですね。
たとえば、「食べる」。
「食べられる」「食べさせる」。古文では「る」をとってuにしますから、「食べらる」「食べさす」です。
このように、実は私たちも、動詞によって、「~れる」「~られる」、「~せる」「~させる」と使い分けていることがわかります。
というわけで、現代語の感覚を信じてしまえば、覚えていなくても、どっちがつくのかはわかるということになります。
一応、分析しておくと、
「す」「る」 四段・ナ変・ラ変=未然形が「a」
「さす」「らす」それ以外=未然形が「a」にならない。したがって、どうしても「a」に付きたいので、「さ」「す」、「ら」「る」と自分で勝手に「さ」「ら」という「a」を前につける。
ということになるんです。
いずれにしても、「現代語の感覚を信じればよい」ことに変わりませんから、何か混乱することがあったら、「現代語をイメージして受身(使役)に直す」とすれば、正しい古文が見つかるはずです。
「終止形接続」の助動詞
「終止形接続」とありますが、実は「ラ変は連体形に接続する」ということになります。
なんか面倒というか、覚えにくいというか、そんな印象もあるでしょう。なぜ、こんな面倒なことが起こるかというと、ラ変が変だからです。思い出してほしいのですが、ラ変が変なのは、終止形なのに「~り」と「i」で終わろうとすることです。
実はこれらの助動詞は「終止形」つまり「u」の音につきたい。しかし、ラ変は終止形が「~り」と「i」ですから嫌なんですね。
「あり」「べし」。
変ですよね。「あるべし」。と言いたい。
というわけで、ラ変に限っては「u」の音となる連体形に接続するのです。
連体形接続「なり」「たり」
連体形というのは、名詞も含みます。
「だ」「である」とするとわかりやすいと思いますが、「パンだ」「遊ぶのだ」というように接続するわけです。
しかし、厳密には連体形につくわけではなく、「種々の語」につきます。
たとえば「~ば」などにもつくのです。現代語でも「~だからなのだ」なんていう表現はありますよね?
助動詞の意味 1周目
これが結構重要です。
もちろん、力ずくで覚えてくれればそれでいいわけですが、何も整理をしないで、ひたすら覚えようとすることにやはり無理があるわけです。ここに形を与えることがとても重要です。
で、一気に全部覚えずに何周かにすることで、全体の輪郭を覚え、細部をつめ、細かい例外を覚える、というように3周ぐらいのイメージでやるのがよいと思います。
しかも読解する、ということを考えると、まずは2周ぐらいで十分で、細部の細部はつめなくて結構です。
それでは1周目。
まずは次の図を見てください。
助動詞の意味が無限に見えているような気がしますが、実はこのイメージだけなのです。
一番上の欄を見てください。
助動詞はざっくりいうと、3つのブロックにわかれます。
右から
「当たり前グループ」二つ
「現代語と同じグループ」二つ
「時制」のグループ 二つ×2
これだけ。この8つの箱のイメージをしましょう。
二個の箱が4つある。
左側の二個は「時制」「時」をあらわす助動詞で、これが二個×2。
できましたか?
そうしたら、次はひとつずつの箱に見出しをつけて助動詞を二個ずつ放り込みます。
当たり前グループ
「打ち消し」と「断定」の箱です。
「打ち消し」は「ず」。ここだけひとつだけ。
「断定」は「なり」「たり」。「~だ」と訳します。
それぞれ「~にあり」「~とあり」がつまったものです。
一〇〇円なり、一〇円なり…とか、受験生たるもの、とかの「なり」「たり」です。
「~だ」「~である」と訳す感じがわかるでしょうか?
現代語と同じグループ
「受け身」と「使役」の箱です。
現代語では、受け身が「れる・られる」、使役が「せる・させる」ですね。
古文では「「る」をとってuに変える」の法則ですからそれぞれ、
受身「る・らる」
使役「す・さす」
となります。活用さえも現代語の感覚が残っているのでほとんど覚えることがない場所です。
時制のグループ
時制のグループはまず、2つずつに箱の見出しをつける必要があります。
英語で「時制」と聞いて「~形」が思い起こせるか、です。
最初は、「過去」と「未来」。
現在形は助動詞はいらないので、過去形と未来形です。
そしてもうひとつが「進行」と「完了」。
進行形と完了形ですね。
それぞれに助動詞を二つずつ入れていきます。
過去形「き・けり」
未来形「む・べし」
進行形「たり・り」
完了形「つ・ぬ」
です。
それぞれの訳は、
過去形「~た」
未来形「~だろう」(英語だって本当は「~だろう」だけではないのですが、一番典型的なものとして一周目はひとつにします)
進行形「~ている」
完了形「~てしまう」(必ずしもこの訳がいいわけではありませんが、「ている」に対して「てしまう」と整理することをおすすめします。最初に「~た」とかやると過去形とごっちゃにする人が増えるので。)
ここまでやって「もう少しあったんじゃない?」と思ったあなた。正しいです。それはすべて未来形。
「未来の輪」と私は呼ぶんですが、未来形が実はもう少し細かい訳し分けが必要になるんですね。でも、それさえも「未来形」ですから、最初の大きな視覚的イメージはこれで大丈夫です。
できましたか?
ここまでしっかり白紙に再現できるイメージで覚えましょう。
それができたら二周目に入ります。
未来形=推量、意志、婉曲 進行形=存続
2周目に行く前に、英語の名称から古文ならではの名称に戻しましょう。
「む」「べし」は未来形、willのイメージで理解することが重要なのですが、未来形、という名称は古文では使いません。推量などという名称になります。詳細は2周目で説明します。
同様に「たり」「り」は進行形ではなく「存続」という名称を使います。
助動詞の意味 2周目
それでは2周目、ざっくりと説明していきます。少し細かくなりますが、このぐらいまで理解しないとなかなか古文を読むところまではいけません。
1周目と同じ順番で説明していきます。
当たり前グループ
「ず」打ち消し
特にありません。現代語の感覚でいけます。
「なり」「たり」断定
「~だ」「~である」です。
2周目で理解してほしいのは、形容動詞がこれとほぼ同じであるということです。
形容動詞も、現代語では「~だ」の形。「きれいだ」とか「静かだ」とかです。
だからある意味では「名詞+断定の「なり」」と「形容動詞」というのは同じです。「静か」を名詞として捉えればまったく差異はありません。しかし、みなさんが習う文法では、「静か」を名詞ととらえないので、形容動詞と呼ぶだけの話なのですが、やっかいなことに文法的説明では別になるので見分けなければいけません。
見分け方は「とても」や「大変」などの言葉を前につけて、つながる時は形容動詞で、つながらない時は「名詞+断定」とします。
とても静かだ=形容動詞
とても本だ=名詞+断定
という形です。つまらない説明ですが、入試では出てしまうので覚えましょう。
現代語グループ
「す」「さす」使役
使役が基本なのですが、古文では尊敬に使われることもあります。
これは古文だけの話ですので、理解しておきましょう。
古文で「す」「さす」が尊敬になるのは「~せ給ふ」「~させ給ふ」の時だけです。この形を二重尊敬と言います。古文ならではの形です。
(「~給ふ」は尊敬の補助動詞ですが、「~おはします」なども代用されますので、その場合は「~せおはします」「~させおはします」のように使われます。)
逆の言い方をすると、「~給ふ」がつかない単独の「す」「さす」は絶対に使役になります。
というわけで、「~せ給ふ」「~させ給ふ」という特殊な古文ならではの形の時だけ、尊敬という用法があるわけです。
ただし、すごく細かいことを書くと、「~せ給ふ」が全て二重尊敬ではありません。「使役+尊敬」、つまり「~させなさる」と訳す時もありますので、ちょっと注意が必要です。
「る」「らる」受身
受身と言っていますが、現代語でも、「~れる」「~られる」は様々な用法があります。
「シマウマはライオンに食べられる。」受身
「先生が夕飯を食べられる。」尊敬
「僕はラーメン5杯食べられる。」可能
「昔のことが思い出される。」自発
という感じです。基本的には、そのまま「~れる」「~られる」と訳してみて、どれに当たるかを考えるのが基本です。文脈で決まるとしか言いようがないので。
最後の自発に関しては、ほぼ今は「思い出される」ぐらいしか使われません。「食べる」のようなことが自然と行われることはないですね。というわけで、ここだけだいぶ特殊な形になります。
それではもう少し詳しくまとめておきます。
自発
古文では、現代語より自発の意味を導き出す単語は多くなりますが、それでも限られます。「思ふ」「泣く」「嘆く」「見る」などの単語でないと自発になりません。
可能
古文では「可能」の用法はかなり限定的です。平安時代(中古といいます)では、「打消」の形の時しか可能の意味にならないと言われています。
尊敬
さきほど二重尊敬は「~せ給ふ」「~させ給ふ」の形だけと書きました。逆に言うと「~れ給ふ」「~られ給ふ」の「~れ」「~られ」は絶対に尊敬にはならないということです。打ち消しがない場合、可能の用例はないと見ていいですから、自発か受身となります。もし、その動詞が自発がつきそうな動詞でなければ、自動的に受身となっていくわけです。
受身
主語が動作主体でない(客体になる)のは、受身だけです。
「主体」というのは、「動作をする人」のこと。たとえば「見る」と言う場合、主体が見ているわけで、見られる人、ものが、客体です。
客体が主語になるのが受身。
その他は全て主語が動作主体です。なので、客体が主語になる時で、意味が大きく変わりますからそこで見分けましょう。主体が主語になるのは、「自発」「尊敬」「可能」です。
時制のグループ
過去
基本的に「た」と訳します。
もう一つとても重要で有益なことがあるのですが、それは3周目で説明します。
未来
2周目の核となるのが、未来形の訳し分けです。
英語で言えば、willに当たるのが、「む」「べし」です。
英語が考えたとしても大きく訳が変わってくるのです。
主語が三人称の時
It will rain.
雨が降るだろう
と訳しますね。
主語が三人称の時、多くは「~だろう」と訳します。
この時、職能(文法的意味)は「推量」といいます。
「~だろう」と訳す時が推量です。
「推量となるのはどんな時か」という質問があるとすれば、その答えは「「~だろう」と訳す時」です。
つまり、「訳によって職能(文法的意味)が決まる」わけです。
主語が一人称の時
I will go to school.
私は学校に行くつもりだ(行こうと思う)
主語が一人称の時、多くは「~つもりだ」「~よう」と訳します。
このとき、職能(文法的意味)は「意志」といいます。
もちろん、主語が「私」であっても「~つもり」と訳さず、「~だろう」と訳すなら推量です。たとえば、
数年後、私はこの世にいないだろう。
というようなケースです。
連体形の時
英語の場合は、上記の二つになるのですが、古文の場合には次のようなケースが起こります。
花咲かむ時
直訳すると、「花が咲くだろう時」となるのですが、日本語の表現としてはやや不自然ですね。
こういう時、「花が咲くような時」と訳すと、まだ咲いていない未来でありながら、きれいな日本語になります。
しかし、「~だろう」ではなく、「~ような」と訳したのですから、職能(文法的意味)も変わります。
これが婉曲(~ような)という用法です。
花咲かむを
のように、助詞(を・に・が・は・の、など)に続く時も正確に訳出するなら「~ようなの」といれるといいです。
「花が咲くようなのを」
ということです。
もちろん「花が咲くのを」とやることも問題ではないのですが、この場合も職能(文法的意味)としては、婉曲と答えることになります。
仮定という言い方もありますが、これは、
「もし花が咲くなら、そのとき…」と訳すようなやり方です。まれにどちらでもできるのでなく、仮定でしか訳せない形もありますが、まずは婉曲で訳すようにしておけばほとんど困らないと思います。
主語が二人称の時
上記3つが未来形の基本訳なのですが、三人称、一人称とくると、もうひとつ二人称の時が気になると思います。
二人称というのは「あなた」ですね。
これは、まず現代語で考えてみましょう。
「あなたは家で勉強するでしょう」
この日本語を見た時にあなたがどう感じるか、ですね。
もちろん、占い師や予言者の言葉であるならば、このまま「~だろう」でいいでしょう。その場合、職能(文法的意味)は当然「推量」です。
しかし、たとえば、学校の先生であるとか、両親であるとか、あなたを指導するような立場の人が言っているとしたらどうでしょうか?
「あなたは家で勉強するでしょう。」
決して推測しているのではなく。
「あなたは勉強するに違いない」
「あなたは勉強した方がよい」
「勉強しなさい」
なんていうように聞こえませんか?
上から
当然
適当
命令
ですね。
これがたとえば、
「コーチ、今週の試合、僕たち勝つでしょうか?」
「勝つだろう!」
となれば、コーチは
「勝つことができる」と言っています。
これは可能。
このように、二人称の場合は、適当や当然など人によって受け取るニュアンスが変わってきます。逆に言うと、当然なのか、適当なのかを見分けるのは訳ですから、「ここは絶対こっちじゃないとおかしい」ということなら、ひとつに決まるのですが、必ずしもそうではなく、当然でも適当でもよい、ということは起こりえます。
つまり「~するはずだ」でも「~した方がよい」の両方が訳としてあてはまるならどちらでもよいということが起こるのです。
未来形のその他の助動詞=未来の輪
さて、未来形の基本が理解できたところで「未来の輪」です。
「助動詞他にもいっぱいあったよね?」
そう思っていたあなた。とても正しい。でも、助動詞は最初に覚えてもらった骨格があって、あとは全部未来の助動詞なのです。
ここから言えることは二つ。
ここからやるものはすべて未来の助動詞なので、困ったら「だろう」「つもり」「ような」でごまかせるし、それを当てはめて訳し分ける必要がある。
それをベースに、プラスアルファするニュアンスを覚える。そうすると、大体の訳がつかめるようになる。
そんな感じです。
では、未来の輪です。
まず、「む」を中心にして、右手が「べし」、左手が「まし」。同じ「~し」ですね。
足は太く、二個ずつをふたつ。
一つ目が「らむ」と「けむ」。
二つ目が「めり」と「なり」。
同じような形ですが、それぞれの形は似ていますので覚えやすいと思います。
頭は三本。
「まほし」「らし」「たし」。
最後にカバンを背負うようなイメージで、「じ」「まじ」。
まずは、この絵が描けるようにがんばっておぼえましょう。
覚えましたか?
それでは意味の確認です。
最初は「べし」。
「む」よりもやや強く「きっと~だろう」ぐらいのイメージです。
たとえば二人称の時に当然とか命令になったりする確率があがります。
続いて「まし」。
まずは反実仮想だけ覚えましょう。(細かい用法は3周目でやります)
「まし」は反実性、つまり「あり得ないこと」というのが使う前提になります。
「~せば~まし」「~ましかば~まし」
がその用法の代表です。
「~せば」「~ましかば」のところは「もし~だったら」というところなのですが、ここが「あり得ないこと」になったとき、文末は「む」や「べし」でなく「まし」を使うというのが古文の決まりです。
有名なのは、
「世の中に絶えて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし」
というもの。
「世の中に桜という種が絶滅してなかったならば、春の心はどんなにのどかだっただろう」
となります。
前半に、「桜がない」というあり得ないことが来たので、文末は「まし」。
訳は「~だろう」なのですが、職能(文法的意味)は反実仮想となります。
続いて、足に行きましょう。
まずは「らむ」と「けむ」。
それぞれ、「む」をベースにプラス現在で「らむ」、プラス過去で「けむ」です。
それぞれ
現在=「り」+「む」=らむ
過去=「けり」+「む」=けむ
というイメージです。
らむ=現在推量
けむ=過去推量
となりますが、基本的にwillの訳、つまり、推量、婉曲などの訳が入ります。場合によっては意志で訳さざるを得ないケースもありますから、基本として覚えておきましょう。
「らむ」「けむ」ともに入試で問われやすい用法があるのですが、それは3周目にします。まずはこれだけ覚えましょう。
続いて、反対の足です。
「めり」と「なり」。
ここは、
見あり、つまり、目で見た推量の「めり」
と
音あり、つまり、音で聞いた推量の「なり」
です。
「目」と「鳴り」というように語呂でもかまいません。
「めり」は、自分の目で見て「ああ、きっとこうだな」という主観性の強い推量で、「~ようだ」などと訳します。推定と言います。
「なり」は、音で聞いた、つまり「見ていない」時の推量です。ここはまた後で説明しますが、是非、覚えてください。音で聞いた、ということは「見ていない」ということなのです。
(音を聞いて)「~ようだ」「らしい」
(人から話を聞いて)「~そうだ」
というような訳になります。推定、伝聞推定と言います。
「めり」「なり」ともに、読解をすすめるには重要なポイントとなる助動詞ですが、まずはここでは省略しますので、まずは、主観性と見ていないというあたりをしっかりおさえましょう。
続いて頭は「まほし」「らし」「たし」。
「まほし」は「~してほしい」
「らし」は「~らしい」
「たし」は「~たし」
です。なので、現代語グループと呼んでいます。
「~してほしい」というのは他者願望、「~たい」は自己願望ですが、実際は、「あらまほし」とか「咲きたし」などのように、「自分がこうありたい」とか「花が咲いてほしい」というように、両方に使うので希望とか願望とかいう形です。
「らし」は歌などでよく使われますが、推定です。
最後に背負っているのが「じ」「まじ」。
両方ともwill not。
つまり
「~ないだろう」打消推量
「~ないつもり」打消意志
「~ないような」打消婉曲
です。willの反対ですから、基本の3つが存在しますし、二人称になれば、「~しない方がよい」不適当
「~はずがない」打消当然
「~するな」禁止
「~できない」不可能
なども入ってきます。
「む」に対して「じ」、「べし」に対して「まじ」。
「む」と「じ」は未然形接続で、「べし」「まじ」は終止形接続。
「べし」「まじ」の方が強いので、禁止とか打消当然とかは「まじ」の方でほとんど出てきます。
これで推量はいったん終わりです。
存続
存続は進行形で「たり」「り」です。
もともと、「咲き」「て」「あり」が詰まって「咲き」「たり」になったと言われていますから、訳は「~ている」で存続です。
「完了は?」と、ここまで完了と学校で習った人は聞きたいかもしれません。これは花と雪の違いで私は説明しています。
次の図を見てください。
見てわかるように「~てあり」がつまったものですから、「~ている」という訳になります。
花の場合、「咲いて」「ある」わけですから、昨日と今日の状況は変わりません。なので「咲いている」でいいわけです。
しかし、雪の場合、「雪が降って」「ある」ことになります。
これは、「昨日雪が降って」「今日は溶けずにまだある」状態で、これを古文では「雪降りたり」と書くわけです。「降って」まだ「ある」わけですから。
これを「降っている」と訳すとかなりおかしいですね。今は降っていないわけですから。
これが完了の状況になります。「降った」と訳しておくしかないわけです。
実際に、人がやったこと、行為や心情だと、存続でも完了でもとれることがあるのですが、まずは存続をベースにする癖をつけてください。その方が正確な訳がとれるようになります。
完了
「つ」「ぬ」ですね。
「つ」が人の行為、意志を感じさせるものに使い、「ぬ」は自然現象などに使われます。日が暮れる、花が咲く、などは完了にするなら、「日暮れぬ」「花咲きぬ」などになり、「つ」となることはありません。
訳は「~てしまう」といったん覚えましょう。
しかし、現代日本語では完了形がかなり使われなくなっています。
英語で現在完了形を習ったときに違和感を感じませんでしたか?
「I have finished my homework.」
私は宿題が終わった。
「I have lived in Japan for 2years.」
私は2年間日本に住んでいる。
なんとなく、前者は過去形との区別がつかないし、後者は進行形との区別がつきません。しかし、両方とも完了形で、英語の先生は図、時系列を示すような矢印を書いて説明していましたね。
これは、現代日本語で完了形にあたる日本語が見当たらないから起こる現象です。ですから、「~てしまう」と覚えても訳としては違うものをあてる必要があるケースが多い。
先ほどの「日暮れぬ」なら、「日が暮れた」と訳さないと不自然です。しかし、これらは完了となりますし、過去形と組み合わさると「~てしまっ」「た」と過去完了形になりますから、ベースとしては「~てしまう」と覚えておくようにしましょう。
助動詞の活用
さて、ここで一度助動詞の活用を説明しておきましょう。
助動詞の活用はわかっていなくてもしのげる確率の高い部分です。なぜなら、品詞分解に助動詞の活用の知識はほとんど必要ないからです。また、英語と違って、「現代文を古文に直す」問題もほとんど出題されません。ですから、助動詞の活用形は、答えなければいけませんが、その場合、下につく言葉などから「接続」の知識を使うと答えることができるのです。
とはいえ、ざっくりと説明しておいた方が理解の助けになることは間違いありませんから、やっておきましょう。
助動詞の活用の分類
助動詞の活用を分類して箱に入れると以下のようになります。
現代語グループ
現代語グループは今までやってきた通り、「る」「らる」、「す」「さす」です。
これらの助動詞は、
現代語で受身(使役)の形を作る
現代語で受身(使役)の形を作る。
「~ず、~て、。、~こと、~ど、!」と動詞と同じように活用させていく。
ということで解決します。
つまり、現代語の意識でやれば、活用がわかるものですね。
一応やっておきましょう。
ラ変型
「~り」と終わるものはラ変型です。動詞のラ変と同じように活用します。
何が「~り」と終わる助動詞かわからない、と訳のわからないことを言うあなたは、助動詞の接続や意味の箱をあけていきましょう。そして、「~り」と終わるたびに、それを書いていきましょう。接続と意味が言えるならダブルチェックで、「~り」と終わる助動詞が言えるはずです。
ラ変の活用は次の通りですね。
「あら」ず
「あり」て
「あり」。
「ある」こと
「あれ」ど
「あれ」
「あ」の部分に「けり」なら「け」を入れれば完成です。
形容詞型
形容詞型で活用するのは「~し」あるいは「~じ」と終わる助動詞です。同じように、接続や意味の箱を全部あけて「し」「じ」で終わるものを抜き出しましょう。
形容詞の活用は以下の通り。
まず、「ク活用というのは最初がク」
「~く・ず」はおかしいから「~く・あら・ず=~から・ず」で下の段
最後に「~く・て」で上の段をつめる
という感じ。
「よく・ず」→言わないから「よから・ず」
「よく・て」→「よかり・けり」
「よし・。」→「よかり。」
「よき・こと」→「よかる・べし」
「よけれ・ど」→(よかれ・ど)※あまり使わないですが、国学者の文章などで散見します。
「×」→「よかれ」
これをもとに「~し」で終わるものをあてはめればよいのです。
ただし、注意事項があります。
「じ・らし」てごめんね。
じらしてごめんね、と覚えてください。
告白した相手がじらしてくる、少し待って、もう少し待って…といいながら返事をくれない。なぜなら、「私の気持ちは変わらない」からです。
つまり、「じ」「らし」は無変化型です。
「まし」は「~せば~まし」「ましかば~まし」
続いて、「まし」は、上の例文を覚えるだけです。ほぼ無変化型なのですが、「~ましか・ば~まし」の「~ましか」が「まし」の未然形ということになっているので、無変化とは言えません。でも「~ましかば~まし」さえ覚えておけばいいので、実は簡単です。
覚える!助動詞の活用
というわけで最後にようやく覚えるところにきました。
表を見てわかる通り、覚えるのは4つだけです。
後で理由を説明しますが、基本的に「終止形・連体形・已然形」を覚えることが重要ですので、その3つを覚えましょう。
「ず」打消
最初は「ず」です。
咲か・ず・。
咲か・ぬ・こと
咲か・ね・ど
このように活用します。
覚えるポイントは已然形です。
「やるならやらねば」
「武士は食わねど高楊枝」
などでも残っています。
やるならやらないと、武士は食べないけれど楊枝をくわえる
みたいなことですね。
口に出して反復しましょう。
「ず」という助動詞は、その他の助動詞につくときは、「あり」を必要とします。
「咲かず」に、たとえば、過去の「き」をつけると、
「咲かず」「あり」「き」。=「咲かざりき」。
というような活用をします。
「ざり」とう感じです。
これは「り」で終わりますからラ変型ですね。
「む」「むず」「じ」「き」「けり」「つ」「ぬ」「べし」「めり」「なり」などの助動詞に付くときには、この形でつくようになります。
形容詞が「~く」でなく、「~く」「あり」がつまった「~かり」がこうした助動詞に接続するのと同じです。
「き」過去
続いて過去の助動詞「き」です。
咲き・き・。
咲き・し・こと
咲き・しか・ど
このように活用します。
ポイントは連体形です。(連体形が出れば已然形は流れで言えるようになると思います。)
これは、
「ウサギ追ひし彼の山、小鮒釣りし彼の川」
「在りし日の先生」
「若かりし頃のあなた」
などというように今でも使います。
すべて、過去をあらわしています。後ろに続くのが名詞ですから連体形になって、「し」になります。
終止形の「き」は、
はじめに結論ありき。
などという形で残っています。
「む」推量(「らむ・けむ」)
続いて推量の「む」です。「らむ・けむ」も同じ活用をするのでまとめておきましょう。
咲か・む。
咲か・む・こと
咲か・め・ど
※「む」は未来をあらわすので確定条件の「已然形+ど」などにはなりにくい性質があります。
これは已然形がポイントです。
「仰げば尊し」の歌詞の最後は、
「今こそ、別れめ。」
です。これが、この「已然形の「め」」です。
これは決して、「分かれ目」ではなく、係り結びで「~こそ~已然形」になっているだけですので「さあ今、別れよう」という意味になります。
「卒業だから今、分かれ目だね、僕ら。」ではないので、そう思っていた人は恥ずかしいから直しておきましょう。
「ぬ」「つ」完了
最後に「ぬ」「つ」です。
咲き・ぬ・。
咲き・ぬる・こと
咲き・ぬれ・ど
このように活用します。
このポイントはむしろ最初の「咲きぬ。」ですね。
これは決して「咲かない」ではなく、「咲いた」となるわけです。
風とともに去りぬ。
風立ちぬ。
夏は来ぬ。
などが映画や本や歌のタイトルになっています。最後は「夏はきぬ」ですね。
これを「こぬ」と読んではいけません。
もし、打ち消しであるなら、後ろが「。」なら終止形で、「こず。」になるはずです。
二段活用の動詞などでは、未然形と連用形が同じになります。四段活用は未然形と連用形が違いますから、
去ら・ず。去ら・ぬ・こと
去り・ぬ。
と、動詞の形が変わりますが、二段活用の動詞の場合、
流れ・ず。流れ・ぬ・こと
流れぬ。
というように、一見区別ができなくなります。
しかし、打消の「ず」が「ぬ」となるのは連体形ですから、後ろが「。」なら完了の助動詞です。
※もちろん、後ろが「。」でも「ぞ・なむ・や・か」などを見つければ係り結びとなりますから、むしろ打ち消しの「ず」になります。完了なら「~ぬる」となるはずですから。
なので、最初の終止形が大きなポイントです。
また、命令形が
「咲き・ね・。」
となることも覚えておくといいでしょう。
なぜ、この「ぬ」「つ」だけ、余計な形を覚える必要があるかというのも実は説明ができますが、まずは命令形の「咲きね。」をつぶやいて覚えましょう。
これは、「ず」の已然形の「ね」と間違えやすいです。
「咲きね。」の場合、すぐ完了だとわかります。理由としては①動詞が連用形であること=接続(「ず」未然形接続なので、「咲かね…」となります。)②後ろが「。」であるので命令形であること、があげられます。
では、「流れね。」の場合はどうでしょうか。同じように動詞の活用で見ると、未然形か連用形なので、「ず」も「ぬ」もどちらの可能性もあります。ですから、後ろで決めるしかありません。しかし、もし、この前に「こそ」があったとすれば、係り結びで、已然形で終わりますからその場合は打消の「ず」、なければ完了の「ぬ」ですね。
時制の助動詞の組み合わせ=助動詞の相互接続
さきほど、活用を説明する際に「覚えるのは、終止形・連体形・已然形」というように説明しました。なぜ、この3つを覚えるのかというと、この3つの形は全ての助動詞が持っているからです。
連体形・已然形と聞いて、多くの人が想像するのは係り結びでしょう。
係り結びは疑問文と強調文を作ります。だから、全ての活用形が必要となります。また、連体形は「が・を・に・の・は・も」など多くの助詞の上の形でもあり、已然形は「ど」という大事な逆接の助詞の上の形でもありますから、どうしても連体形と已然形は必要になります。
逆に言うと、未然形や連用形はなくてよいのです。突然未然形になったりすることはないし、連用形(「、」でおわるイメージです。)で終われる助動詞も多くないのです。それでも、未然形や連用形を持っている助動詞というのは、未然形接続や連用形接続の助動詞の上にくる可能性がある助動詞なのです。
たとえば、
未然形接続 む
連用形接続 き・けり
などです。
完了の助動詞「つ」「ぬ」や存続の助動詞「たり」「り」は、必ずこれらの助動詞の前、上に来ます。
「ぬ」の後に「き」がくるということです。
これは現代語でも一緒なのですが、助動詞を複数組み合わせる場合、その順番が決まっています。
「だろう」や「た」と「ている」を組み合わせる場合、先に「ている」がきてその後に「だろう」「た」をつけます。逆にはなりません。
「む」「き」「けり」などはその順番が最後なので、未然形や連用形は必要がないのです。「けりをつける」という表現は「蹴飛ばして終わらせる」のでなく「助動詞の『けり』をつけたら文は終わるよ」という「終止符を打つ」「ピリオドを打つ」と同じ表現です。
ちょっと難しいかもしれませんね。
なので、理屈はともかく、英語と同じように助動詞を組み合わせましょう。
過去形「き」「けり」 ~た
未来形「む」「べし」 ~だろう
進行形「たり」「り」 ~ている
完了形「つ」「ぬ」 ~てしまう
これらを組み合わせると、どんな型ができるでしょうか。
それは、
過去完了形
未来完了形
過去進行形
未来進行形
というような形です。
さらに英語で言うなら、現在完了進行形があるように、古文でも「完了形」と「進行形」の組み合わせがあるので、「完了進行形」と呼ぶような形も存在します。
もう一度助動詞を復習しておきましょう。
過去形 き・けり ~た
未来形 む・べし ~だろう・~つもり・~ような
完了形 つ・ぬ ~てしまう
進行形 たり・り ~ている
この組み合わせになるわけです。
基本的につく順番は、現代語と同じです。(もちろんまったく同じというわけにはいきません。)「む」「き」「けり」が最後になります。
過去完了形
完了形「咲きぬ」「咲きつ」
※本来「つ」は「咲く」というような自然をあらわす語にはつきませんが、便宜的にこのまま進めます。
過去形「き」「けり」
の組み合わせです。
「~てしまう」+「~た」=「~てしまった」
咲きぬ+き =咲きにき
咲きぬ+けり=咲きにけり
咲きつ+き =咲きてき
咲きつ+けり=咲きてけり
未来完了形
完了形「咲きぬ」「咲きつ」
未来形「む」「べし」
の組み合わせです。
「~てしまう」+「~だろう・~よう・~ような」
=「~てしまうだろう」「~てしまおう」「~てしまうような」
咲きぬ+む =咲きなむ
咲きぬ+べし=咲きぬべし
咲きつ+む =咲きてむ
咲きつ+べし=咲きつべし
ここで重要なポイントがあります。この未来完了形と私が呼んだ形は古文では「確述用法」などと呼び、この時の完了の助動詞を完了ではなく、「強意」と呼ぶ決まりがあるのです。(一部の入試問題では「完了」を選ばせるケースもあります)
訳出は「~てしまうだろう」「~てしまおう」「~てしまうような」でいいのですが、「~てしまう」を「きっと」に変えて、「きっと~だろう」とか「きっと~ような」と訳した方がいい場合もあります。「~てしまおう」という意志の場合、「きっと~しよう」という訳よりは「~てしまおう」の方がはまるので、訳としては「どちらでもいい」と覚えるのではなく、両方覚えてよりはまる方を用いると覚えておくのがよいでしょう。
また、この確述用法は「む」「べし」だけでなく、「らむ」「まし」などの未来形の助動詞でも起こります。
したがって、上記の他に以下のものができあがります。
咲きぬ+らむ=咲きぬらむ
咲きつ+らむ=咲きつらむ
咲きぬ+まし=咲きなまし
咲きつ+まし=咲きてまし
過去進行形
進行形=存続「咲きたり」「咲けり」
過去形「き」「けり」
の組み合わせです。
「~ている」+「~た」=「~ていた」
咲きたり+き=咲きたりき。
咲きたり+けり=咲きたりけり。
咲けり+き=咲けりき。
咲けり+けり=咲けりけり。
未来進行形
進行形=存続「咲きたり」「咲けり」
未来形「む」「べし」
の組み合わせです。
「~ている」+「だろう・~よう・ような」
=~ているだろう・~ていよう・~ているような
咲きたり+む=咲きたらむ。
咲きたり+べし=咲きたるべし。
咲けり+む=咲けらむ。
咲けり+べし=咲けるべし。
「べし」は終止形接続ですが、u音につきたいために、ラ変型の「たり」「り」は連体形の「たる」「る」につきます。理屈よりもフィーリングの方がわかりやすいと思います。「咲きたるべし」はいい感じですが、「咲きたりべし」ってどこか変ですよね。
また、これと同様の意味となるのが、現在推量です。
咲くらむ=咲いているだろう
これも頭の片隅に入れておきましょう。
文法基本編:形容動詞=断定の助動詞と区別しない
ここまでもしかしたら、形容動詞の説明がないことを不思議に思っていた人がいるかもしれません。
実は、形容動詞というのは、断定の助動詞「なり」「たり」と説明が同じなのです。
先に形容動詞を説明してもいいのですが、そうするとどうしても助動詞の説明をする前に助動詞を含めて説明することになりますので、この順番を採用しています。
というわけで、「なり」「たり」の説明をまとめてみましょう。
断定の助動詞「なり」「たり」のまとめ
では、ここまでの断定の助動詞「なり」「たり」の情報をまとめてみましょう。
助動詞は、「意味」「接続」「活用」の三つで整理するのがポイントです。
では、ここまでのことを「なり」「たり」だけを取り出してまとめておきます。
意味=断定。「~だ」「~である」と訳す。
接続=原則として、名詞、連体形。(実際には「なり」「たり」は、「~ば」など、種々の語につく。例:花咲けばなり=花が咲いたからだ。)
活用=「~り」で終わるので、ラ変型。
以上でしたね。わからないことがある場合には、もう一度読み直して確認してみてください。
ただ、ここまでは基本編としてざっくりと説明しているので、いくつか補足事項があります。
たとえば、助動詞の接続にあたる部分ですが、「名詞や連体形を原則として
種々の語」につきます。例にもあげた通り、「~なればなり」のように使うのがよく見られるパターンです。「~だからなのだ」というような表現です。形容動詞では、ほぼ「名詞+なり(たり)」というように見えますので、多少の違いはあります。
「なり」は「に」「あり」、「たり」は「と」「あり」が元になる
続いて、「なり」「たり」は語源的にそれぞれ、
「に」「あり」
「と」「あり」
がつまったものだと言われています。
花にあり→花なり
山とあり→山たり
というような形です。
これ自体はたいしたことではないのですが、疑問文をはじめとして、係り結びの形をとろうとする時、実は、これらは元の形に戻ろうとするのです。
花なり
→花にやあらむ
→花になむある
→花にこそあれ
山たり
→山とやあらむ
→山となむある
→山とこそあれ
というような形です。
問題となるのは、「品詞」をどう見るか、ということ。
大元は「花(山)=名詞」+「なり(たり)=助動詞」でいいのですが、いざ疑問文や強調文にしてしまうと、係助詞のあとは「あり」というラ変動詞が突然存在していて、名詞の後=係助詞の前に、これも突然「に」とか「と」という、まるで助詞みたいなものがあらわれる。
もし、これを助詞ととってしまうと、なぜか助動詞がなくなってしまいます。
というわけで、これらを「助動詞」として扱うことにしたわけです。
「に」とか「と」ですね。
そして、これらは、連用形。なぜなら、係助詞をはさんで、「あり」に係っていくからです。係助詞を抜けば「に」「あり」で、「あり」の前にあるわけだから連用形です。
形容動詞でも考え方は同じです。
静かなり
→静かにやあらむ
→静かになむある
→静かにこそあれ
というようになりますから、「静かに」を形容動詞の連用形ととるわけです。
この説明の詳細は、また後で詳しくやります。
「にや」とか「とや」の後に何が省略されているのか、というようなことを考えるときには、係助詞であるとか助詞であるとか、あるいは敬語であるとか、そういうことも含めて考える必要があります。
また後で。
形容動詞と断定の助動詞の見分け
さて、ここまで見てきた通り、名詞+助動詞と形容動詞はほぼ同じ説明、同じ訳語が適用されています。
しかし、残念ながら、皆さんが受験で習う文法では、この二つ、名詞+助動詞と形容動詞は、別のものとして区別されています。
なので、区別の仕方を理解しておかなければいけません。
その区別の仕方は、
「大変」「とても」などをつけて
意味が通る→形容動詞
意味が通らない→名詞+断定の助動詞
というものです。
静かなり→とても静かだ=通る→形容動詞
山なり→とても山だ=通らない→名詞+断定の助動詞
こんな感じ。
形容動詞によって、「とても」が意味的に通らないこともあるので、いくつか似たような語でためして、その中で判断するとよいと思います。
文法基本編:「つくも髪」の読解~わからないところを品詞分解する
それでは、ここまでの知識、動詞、形容詞、助動詞の知識を使って、現代語訳にチャレンジしてみましょう。
まずは訳せるか訳せないかが重要。
訳せないところは品詞分解をする。
そのために、ここまでやってきました。
で、品詞分解の方法は、
現代語で、動詞、形容詞を見つけ、活用させて、活用形を把握する。
活用形から、接続の知識を使って、助動詞のアタリをつける。
助動詞がわかったわけだから、意味=訳を作る。
ということですね。
では、もう一度、本文です。
さて、とりあえず、太字にしたのが、動詞や助動詞を理解して訳せるようになる部分です。
余計なことかもしれませんが、「古文がわからないのは、文法ができないから。文法といえば助動詞。」という印象が強いように思うのですが、実際はたったこれだけで、助動詞がわかってもほとんどどうにもならないことがわかります。
古文が読めないのは、果たして文法のせいなのか…ということは真剣に考えtえほしいところではあります。
さて、それでは品詞分解していきましょう。
(忘れてしまった人は本文の前に、品詞分解の方法を書きましたからもう一度確認してください。)
世心づける女
最初は「現代語で動詞、形容詞を探す」ですから、おそらく「つける」とか「つく」とかが想像されると思います。
「つける」だと仮定して、活用させます。
終止形は「『る』をとってu音」ですから、「つく」。
「つける」のイメージで活用させると、
つけ・ず
つけ・て
つく・。
つくる・こと
つくれ・ど
つけよ・!
ですので、残念ながら「つける」というものは見つかりません。
もし、これで合っているとするなら、未然形か連用形で「つけ+る」と分解されるはずです。
次にそれぞれの接続を助動詞で探しにいきます。未然形は「む・ず・むず・す・る・じ・まし・で・まほし・り」、連用形は「き・つ・ぬ・けむ・たし・けり・たり」です。
「る」から類推すると、「る」で未然形ということでしょうか。
しかし、この「る」は受身です。「つける」を受身にしてみると、「つけ・られる」で、「らる」がつくはず。
ということはこの可能性はなさそうです。
もっと言うと、最初の仮定「つける(現代語)」が間違っているようです。
では、もう一つの仮定にいきましょう。
「つく」だとします。
活用は、
つか・ず
つき・て
つく・。
つく・こと
つけ・ど
つけ・!
ですから、已然形か命令形。
だとすると、接続から「り」です。
「る」のイメージに近い。
「り」は存続で「~ている」ですから、
「世心」が「ついている」女、ということになります。
「り」が存続とわからない場合、意味の説明を思い出してください。最初から箱をぞどんどんあけていきます。
最初が、
当たり前グループ「打消・断定」で「ず」と「なり・たり」
次が、
現代語グループ「受身・使役」で「る・らる」と「す・さす」
残りが時制で、
最初が「過去」と「未来(意志・推量・婉曲・適当など)」で、「き・けり」と「む・べし」
次に「進行=存続」と「完了」で「たり・り」と「つ・ぬ」(訳は「ている」と「てしまう」)
残りが未来の輪
中心に「む」
手が左右にのびて「べし」と「まし」「む」より強い推量とありえないことに対する推量
足が二つ。
最初が、「らむ」と「けむ」。現在推量と過去推量。
次が、「めり」と「なり」。目で見た主観性の強い推量と、音で聞いた見てない推量。
頭は三つ「まほし・らし・たし」。願望系の「ほしい・らしい・たい」
最後に反対の「じ」と「まじ」。「ないだろう」ですね。
このように、最初から全部箱をあけていくわけです。
わかりましたか?
これが品詞分解の実践です。
どんどん行きましょう。
あらむ男
あり+む、というのはすぐわかるのではないでしょうか。
あら・ず、と見つけた時点で未然形。
とすれば、「む・ず…」で「む」です。
「む」は未来形。
さて、そうなると訳ですね。
未来形の場合、一人称、三人称、連体形、二人称と訳が変わります。わからないところが出てきたら復習しに戻りましょう。
一人称=~つもり、~よう=意志
三人称=~だろう=推量
連体形=~ような=婉曲
二人称=~のがよい=適当、など
ということでした。
というわけで、今回は「男」と名詞につながりますので、連体形の「~ような」という訳が美しい。
したがって、「情けがあるような男」というのが正解になります。
出でむ
古文と現代語が異なる動詞なので慣れが必要なところです。
「出でむ」は「いでむ」と読みます。
「いでよ!ドラゴン!」なんて叫んだりするアニメがありそうですが、古文では「い」がつくんですね。
つまり、現代語は「出る」なんですが、古文では「出でる」がベースの「出づ」(「る」をとってuに変えるの法則です。)
これは、「出す」にも同じように適用されます。古文では「出だす(いだす)」となるのです。現代語でも名残はあって、たとえば「見出す」は「みいだす」と読みますよね。
というわけで、「出る」つまり「(い)でる」と思って活用させていくといいでしょう。
いで・ず
いで・て
いづ・。
いづる・こと(日出づる国、なんて聞いたことありますよね?)
いづれ・ど
いでよ・!
となります。従って未然形か連用形で、そこから「む」を見つけることができますね。
「む」ということは、先ほどと意味が同じなので、そこから探します。
続くのは「も」という助詞です。これは、推量の助動詞の、まさに婉曲のところで説明してありますが、「が・の・に・を・は・も」などの助詞は接続が連体形となります。したがって、そのあたりを覚えていれば、婉曲の「~ような」となります。連体形なので「の」と「こと・もの」にあたるものを補うといい感じになります。
「出るようなのも」ですね。
まことならぬ夢語り
動詞ではないのですが、「なり」が見つけられるでしょうか。「まこと」という名詞についているので、断定の助動詞と見るのか、それとも続いた形容動詞とみるのかは非常に微妙なところですが、どちらでも意味は「本当だ」ということでしょう。
ラ変型の活用ですから、
なら・ず、なり・て…となりますので、未然形。となると、続くのは「む・ず・むず・す・る・じ・まし・(で)・まほし・り」となります。一見ないように見えますが、現代語の感覚を信じれば、「本当でない」というようなニュアンスがわかると思います。つまり「ず」ですね。
活用は、「咲かず・咲かぬこと・咲かねど」となります。これも忘れている人は確認してください。連体形は現代語のニュアンスに残っているので、あまり問題がなく、覚えるポイントは已然形でした。「武士は食わねど高楊枝」とか「やるならやらねば」というのを元にして已然形を覚えていただければと思います。
文法的に説明すると、「夢」という名詞の前ですから連体形と決まります。中には完了の「ぬ」と考える人もいるかもしれませんが、次の二つから間違いですね。
1 完了なら連用形接続=なりぬ…となるはず。
2 完了なら連体形は「ぬる」(咲きぬ。・咲きぬること・咲きぬれど)。したがって、厳密には「なりぬる夢」となるはず。
そんな形となります。
やみぬ。
動詞から先に考えるなら、「やむ」、雨がやむ、というような「やむ」、もしくは「やめる」、あたりが考えられるかと思います。
「やむ」なら、
やま・ず、やみ・て、やむ・。…で、連用形のはずです。
「やめる」なら、
やめ・ず、やめ・て、やむ。・やむる・こと…と実は合うものがありません。
というわけで、「やむ」であることが確定します。
となると連用形接続の助動詞ですから「ぬ」となります。「止まった」「やんだ」「終わった」というあたりでしょうか。
もちろん、間違いとしてはさっきの逆が考えられそうですね。「やめない」「とまらない」というように「ず」ではないかと考えるパターンです。さっきの逆で次の二つから間違いです。
1 「ず」なら未然形接続なので、「やまぬ」または「やめぬ」のはず。
2 「ず」なら、その後が「。」なので「やまず。」「やめず。」のはず。もし連体形の「ぬ」になるなら、係り結びのはずなので、「ぞ・なむ・や・か」が見つかるはずだが、実際にはない。
こむ
現代語の感覚があるかどうかでだいぶ変わってくるような気がします。
動詞が見つけられたでしょうか。
「こ」というと、「こっち来い」の「こ」が浮かぶかもしれません。ちょっと方言ぽいですが、「あいつこんなあ」みたいな使い方はあるような気がします。「こないなあ」なんていう意味ですね。むしろ、このあたりから「こむ」自体が「こない」というような意味でとってしまうかもしれません。
順番にやっていきましょう。
「来」という漢字が浮かべば、現代語は「来る」ですから、このイメージで活用させましょう。
こ・ず、き・て…ですから、未然形です。となると「む・ず・むず・す・る・じ・まし・(で)・まほし・り」のどれかですから、「む」であることがわかります。「来るだろう」ですね。
ちなみに「来ない」という訳にならないのは、「ず」ではないということです。打ち消しは「ず」ですから、そうなら、後ろが「。」ですので終止形は確定ですから、「ず」のままです。さらにいうなら「こぬ」を「こん」と「ん」にすることは古文ではありません。「ん」になるのは「む」なんですね。ちょっと余計なことですが、知っておいてもいいと思います。
あはするに
動詞を見つける時点で少し迷うかもしれません。
「合う(会う)」と見るのがひとつ、「合はせる(会はせる)」と見るのがもうひとつです。
では、「あう」からやっていきましょう。
あは・ず、あひ・て…ですので未然形、となると「す」でしょう。使役です。というわけで、意味が「あわせる」です。
もうひとつの「あわせる」で考えてみましょう。
あはせ・ず
あはせ・て
あはす・。(「る」をとってuに直す)
あはする・こと(終止形に「る」をつける)
あはすれ・ど
あはせよ・!
となります。となると、単純に連体形だということになります。訳は「あわせる」ですね。
というわけで気がついたでしょうか。どちらでも同じなのです。つまり、これも非常に文法的には微妙で、一語と見るか、それとも二語と見るかは好みのようなところがあります。しかし、意味はどちらでも同じですから、あまり真剣に考えずに進むのがいいでしょう。
寝にけり
まず現代語で動詞を探しましょう。「寝る」ですね。
活用させると、「ね・ず、ね・て、ぬ・。(「る」をとってuに変える)、ぬる・こと、ぬれ・ど、ねよ・!」です。
「寝る」は古文では「ぬ」という一文字動詞。「る」をとってuに変えますから。
読みは「ねにけり」でしょうから、「ね」で、未然形か連用形となります。ということは「にけり」はまず、未然形か連用形の助動詞のどれかがついている可能性が高い。
未然形なら「む・ず・むず・す・る・じ・まし・まほし・り」
連用形なら「き・つ・ぬ・けむ・たし・けり・たり」
この中から「に」「にけ」「にけり」に変化しそうなものを探すわけです。
そうすると、「ぬ」が有力です。
「ぬ」だとするなら、変化して「に」でしょうから、残ったのが「けり」。
「ぬ」は「つ・ぬ」で完了、訳は「~てしまう」、
「けり」は「き・けり」で
恋ふらし
動詞は「恋ふ」であることは推測できそうですね。「恋」が動詞であるということはイメージしにくいところだと思います。現代語では「恋する」というように「名詞+する」という形がぎりぎりでしょうか。
もともとは「こふ」という動詞なんですね。日本語は、実は動詞の連用形が名詞になるのです。
泳ぐ=泳ぎ
読む=読み
食べる=食べ
食う=食い
というような形です。実はもともと動詞として存在して、それが名詞化したのに、いつの間にか名詞だけが定着して、動詞が消えている…というようなことも起こっているのです。
たとえば「もみぢ」なんていうのもそのひとつ。もともとは「もみづ」という上二段動詞なんです。「もみぢ・て」ということですね。「恋」も「こひ・ず、こひ・て、こふ。…」という形になります。あくまでも私の経験の話なんですが、上二段動詞というものが現代語に残りにくいような気がします。
難しく考えずに「らし」に着目してしまえば、「らし」は終止形接続ですから、「こふ」が何かの動詞の終止形であることがわかるわけです。
「らし」が終止形ですから、意味を探していくと「~らしい」という意味が、未来の輪から見つかるはずです。なので、意味は「恋しているらしい」と決まりますから、さほど問題な部分はないと思います。
うちふせり
さて、ここですが、動詞を見つけられますか。
「ふせる」もしくは「ふす」という言葉が見つかると思います。この動詞の活用について考える前に「うち」を説明しておきましょう。「うち」はいわゆる接頭語で、様々な動詞につきます。意味はほとんどないので無視してかまいません。ちなみに、ですが、「うち」がついてはじめて意味がとれるのは、「うちとける」です。実は「うち」には意味がないので「とける(現代語)」=「とく(古文)」に「うちとける」という意味があるということなのですね。
さて、活用させていきましょう。
「ふせる」だとすると、
「ふせ・ず、ふせ・て、ふす・。、ふする・こと、ふすれ・ど、ふせよ・!」
です。もし、これだとするなら、未然形か連用形。「り」になりそうなものは、「る」ですが、終止形ですから、おかしい。終止形なので「り」がそのまま見つかるはずです。それがない以上、これは間違いだとわかります。
逆に言えば、終止形で「り」ですから、これは「り」ではないかと推測することもできるわけです。
戻って動詞から行きましょう。
「ふす」と考えると、
「ふさ・ず、ふし・て、ふす・。、ふす・こと、ふせ・ど、ふせ・!」
となります。というわけで、已然形です。
となると、当然「り」です。意味は存続ですから「ている」ですね。
というわけで「ふしている」「寝ている」ということになります。
せしやうに
ここは少し難しいところです。例外的な部分となりますが、言葉なのでこういうところもあるというぐらいで理解をしてください。
「やうに」とありますが、「様に」です。つまり、この前は連体形。
というわけで、「し」は過去の助動詞「き」の連体形です。
これは慣れが必要ですが、よく出てきます。過去形ですから。
「うさぎ追ひし彼の山」「過ぎ去りし日々」「若かりし頃」
というように現代語でもかなり出てきます。
で、「き」だとすれば、前は連用形になるはずなのですが、ここは実は「す」サ変動詞の未然形なのです。
なぜそうなるかといえば、「しし」というのが言いにくいから、としか言えません。なので「せし」という形です。カ変の「来」もおなじで「こし」とか「こしか」というようになるのです。
そもそもサ変とかカ変とかが例外的な活用です。でも、現代語の感覚からすればそれが普通で、決して変な感じはしないとの同じなので、ちょっと読むと山ほど出てきて慣れますので、そういうものと思うように「せしもの」「せしこと」というように呟いて口になじませましょう。
立てりて
次は「立てりて」です。
まずは動詞を見つけましょう。
もちろん「立つ」ですね。
活用させると、「立た・ず、立ち・て、立つ・。、立つ・こと、立て・ど」ですから已然形。
已然形だとすれば、「り」。
「り」だとすれば、「たり・り」で存続。訳は「ている」ですね。
というわけで、「立っていて」となります。
見せぬ
最後です。これも動詞を探すところからいきましょう。
二つの考え方が出てくるはずです。
一つが「見る」があるんじゃないかっていう考え方。もう一つは「見せる」なんじゃないかっていう考え方。
「見る」だとして考えましょう。
活用させると「み・ず、み・て、みる・。みる・こと、みれ・ど、みよ・!」となりますから、このパターンだと、未然形か連用形。
その中から探すと、「す」があたりそうです。使役ですね。
そもそも「見せる」って考えているあたりで、使役のイメージだから、これでよさそう…と行きたいところなんですが、実はこれがダメなんです。
使役は「す」とともに「さす」があって、どちらがつくかは動詞で決まっています。未然形がaになるものは「す」、未然形がaにならないものは「さす」がつくということでした。
たとえば、「食う」なら、「食わせる」。「食べる」なら「食べさせる」。もちろん、古文では「る」をとってuに変えるわけですから「食はす」と「食べさす」。「食べ」という未然形には「さす」がつくことがわかりますね。
戻って「見る」です。未然形が「み」ですから、「見させる」、古文では「見さす」となります。なのでおかしいですね。
というわけで、ここは「見せる」という一語の動詞と解することになります。
活用させると「見せ・ず、見せ・て、見す・。、見する・こと、見すれ・ど、見せよ・!」となります。
なので、未然形か連用形。まあ、ここは、打ち消しの「ず」の連体形というのは、わかりやすいと思いますので、大丈夫でしょう。
ここまで、品詞分解を見てきましたが、思ったより少ない印象なのと、これがわかったからといって決定的に本文が読めるようになったという感じがしないのではないかと思います。
逆に言うと、実は古文が読めないのは文法のせいではない…ということがわかってきたかと思います。むしろ、文法は正解を選ぶ、あるいは減点されずに書くための知識であって、文章を読むというその行為によって、読解力があがってくるということが理解できてきたのではないかと思います。
文法基礎編:読解に役立つ文法知識
文法編をもう少し続けていきます。
それでも、ここからは読解に応用できるような文法知識が多くなってくると思いますので、できれば理屈としても理解していきましょう。
このあたりは、理屈としてわからなくても、経験さえつめば自ずと身についてくる部分ではありますので、そんなにきちんとやらなくても大丈夫ではありますが。
「ば」「ど・ども」「とも」~接続助詞の理解
まずは、いわゆる接続助詞の理解です。
花咲かば、行かむ。
花咲けば、行かむ。
古文では、上の二つの言い回しがあります。そして、当たり前といえば当たり前ですが、意味=解釈が変わります。
それでは分析をしてみましょう。
動詞は「咲く」ですね。
活用させてみると、
咲か・ず
咲き・て
咲く・。
咲く・こと
咲け・ど
咲け・!
となります。
上から、未然・連用・終止・連体・已然・命令
です。
つまり、
花咲かば、行かむ。=未然形+ば
花咲けば、行かむ。=已然形+ば
となっていることがわかります。
さて、未然形というのは、物事を「未然」に防ぐ…というような「未然」です。漢文の知識を使うと「未」は再読文字で、「いまだ~ず」、つまり「不」と同じような否定の助字(英語風に言えば「助動詞」)です。
未然形というのは、「いまだしからず」「まだ、そうなっていない」形のことです。助動詞で言えば、「む」「むず」「じ」「まし」「まほし」などは推量系、つまり未来の助動詞ですから「まだそうなっていない」、また「ず」も打消ですから「まだそうなっていない」という語です。そういう語につく形だから未然形と呼ばれるのです。
ということですから、
咲かば=未然形+ば
は、「咲く」ということがまだそうなっていない、つまり、「花はまだ咲いていない」という形です。
したがって、「(まだ花は咲いていない)花が咲いたら」「行こう」という文章になります。
今度は、「咲けば行かむ。」の方です。「已然形+ば」ですね。
「已」というのは「すでに」と読みます。「すでにしかり」です。「すでにそうなった」形ということです。
已然形接続の助動詞は「り」存続・完了ですが、その他に、この「ば」と「ど・ども」があります。そういう言葉に接続するから、已然形と呼ぶわけです。
咲けば=已然形+ば
は、「咲く」ということがすでにそうなった、つまり、「花がすでに咲いた」という形です。
したがって、「(花はすでに咲いた)花が咲いたので」「行こう」という文章になります。
その逆接が「ど・ども」です。
花咲けど行かず。
花咲けども行かず。
これも「すでに花は咲いたけれど行かない」ということになります。
これがwillになったら、どうなるか、つまり仮定の場合はどうなるかというと、
花咲くとも行かじ。終止形+とも
となります。
これは現代語の感覚で言うと、
花が咲くとしても、行くまい。
というような形です。
「咲くとしても」というように、「と」を使っています。そうなると、終止形でつながります。「 」と、のイメージですから、当然「。」で終わる形、終止形で受けるわけですね。
古文でも「とも」という一語ではありますが、「とも」の最初が「と」で受けていますからおそらく語感的に終止形で受けたいのだと思います。
まとめましょう。
花咲かば、行かむ。未然形+ば 咲いたら行こう 仮定条件順接
花咲けば、行かむ。已然形+ば 咲いたので行こう 確定条件順接
花咲くとも、行かじ。終止形+とも 咲いたとしても行くまい 仮定条件逆接
花咲けども、行かじ。已然形+ど・ども 咲いたけれども行くまい 確定条件逆接
となります。
いずれにせよ、
未然形=まだそうなっていない=~たら
已然形=すでにそうなった=~たので、~たけれど
というあたりがポイントとなります。
主語が変わるかもしれない~鬼=「を」「に」とあったら切る・ドーバー=「ど」「ば」海峡
さて、文章読解のために助詞を使うとするなら、現代語では無意識でできている日本語の感覚を、古文でもしっかり発揮するということが大事になります。
私たちは日本語をすらすらと話せてしまいます。その時、助詞の役割などというものをまじめに考えたことがありません。考えなくても、ほとんどの場合、正しく使えるからです。
しかし、古文になると急にこういうことができなくなる。あるいは、「古文だから難しいに決まっている」という思い込みから、現代文でやっている頭が働かなくなって、現代語訳に直してさえ、主語がつかめなくなったりします。
まずは「鬼とあったら切る」、
「を」「に」がきたら、切って、「主語が変わるかも?」と思う。
次がドーバー海峡
「ど」「ば」がきたら、切って、「主語が変わるかも?」と思う。
ということです。
大事なのは、「主語が変わるかも?」であって、決して「主語が変わる」ではありません。
たとえば、「ば」の場合、現代語の「~ので」と訳すケースが多いのですが、「本を読んでいるので、物知りだ」というような文章の場合、主語は変わりませんね。仮定条件だとしても「もし大学に受かったら、下宿する」というように、変わらないケースを作れます。
したがって、変わるかもしれない、というのが正しい認識です。
では、主語が変わるとすればどういうケースでしょうか。
「ど」「ば」の場合、その前に客体が必要な語が来ている場合、原則主語が変わります。
客体が必要、というのは、動作に対象がある動詞。
言う、見る、たたく、というような動詞です。
やってみましょう。
言へば、笑ふ。
笑っているのは、誰でしょうか。それは「言われた人=聞いている人」ですね。
つまり、主語が、動作の対象=客体になりました。
見れば、怒る。
怒っているのは、見られた人です。これも「見る」の客語です。
たとえば、次のような例はどうでしょうか。
たたけば、逃ぐ。
もちろん、たたかれた人が逃げると考えるのが妥当です。でも、たたいた場合、逃げるのはたたかれた人とは限らない。みんなが逃げていく可能性もありますね。
言われてみれば、「笑ふ」にした場合、見ている人が笑う可能性の方が高そうですし、「怒る」にすると、友達やたたかれた人の親やたたいた人の親とかも怒る可能性がありますから、「たたかれた人」と決めるのは無理があるような気がします。
それでも、次の主語は客語なのです。
冷静に考えてみましょう。
「たたけば怒る」という表現で、怒っているのが「たたかれた人の親」だとします。
確かに成立します。しかし、どうして、そう読めるのでしょうか?
「たたけば怒る。」確かに「たたかれた人の親」かもしれないけれど、「たたいた人の親」かもしれません。「恋人」かもしれないし、「目撃した人」かもしれない。
つまり、特定できない以上、書かないといけない。書いていないということは、書かなくてもわかる、つまり、自明だからです。
そうなのです。
日本語は、書かなくてもわかると主語や客語を省略したがる言語なのです。現代語でしゃべっている時、そんなことは無意識にしています。しかし、古文になると、「書いてないからわからない」となってしまうのです。
というわけで、書いてないのなら、客語=された人、ととるのが適切なのです。
では、もうひとつ、「~を」の場合を見てみましょう。
遊ぶを見る。
というケースです。この場合は、後に「見る」という客語が自明な語があります。
この場合は、「を」の前にある動作、この場合は「遊ぶ」ですが、その主体は「見る」主体と必ず変わります。
私が 遊ぶのを 見る 。
という現代語で考えてみましょう。
「私が」がどこにかかるかは二通り。
「私が遊ぶ」か「私が見る」かの二つ。
しかし、それぞれの場合、残りは必ず別の人の動作になります。
「私が遊ぶ」の場合、見ているのは、別の人。
「私が見る」の場合、遊んでいるのは、別の人。
これは、古文でもまったく変わりません。しかも、「~を」とか「~に」の場合、読点「、」が入る確率が非常に低いので、なんとなく続いているように見えてしまうのです。主語を変えずに行く、ということですね。
一番ひどいと、「私が遊んでいるのを私が見る」というような解釈。こんな解釈をしたら訳がわからなくなって当たり前です。
次に厳しいのが、「私が遊んでいる」と何の疑いもなく続けてしまうケース。本当にそうかわからないわけです。
「私が(誰かが遊んでいるのを)見る」
とつながるのに、なんとなく
「私が遊んでいるのを〈誰かが見る〉」
と解釈してしまうと、意味が通じなくなるわけです。
もう1パターンみておきましょう。
「ど」と「ば」が両方入るケースです。
雨降れど、試合近ければ、練習せむ。
この場合、逆接関係になるのは、「雨降れど、練習せむ」の部分です。
間の「試合近ければ」はその理由となります。
もちろん、「雨降れど練習しければ、服汚る」というような文章を作れば、直下が逆接となることもあるかもしれません。しかし、この文章もこなれない感じが拭えないと思いませんか?口語的というか、無理矢理文章を続けているというか。
なので、多くの場合、
~ど(理由~ば)~。
というように、「~ど~ば~」のなパターンは、理由をはさんで逆接関係が成り立ちます。
主語が続く・どこにかかるか探す~「て」「つつ」「ながら」「、」
今度は、「主語が変わらない」という前提の助詞などです。
本読みて、
本読みつつ、
本読みながら、
本読み、
以上のような言葉の場合、主語が変わらず、その係り所を探す必要があります。
もちろん、これも絶対に主語が変わらないわけではありません。
たとえば、
鳥鳴き、夜明けぬ。
というような例文も考えられます。つまり、いくつかの文を並列していくような文章ですね。
しかし、人の動作のようになっていくと係り所があるケースが圧倒的に多くなります。
この場合、重要なポイントは「係り所を探す」ということです。
言い換えれば、直下に係るとはかぎらないということ。これも結構、間違った説明があって、「て・つつ・ながら・、は、主語が変わらない=主語がつづく」というようになっていたりします。
実際にはそうではなく、直下に続くとはかぎらないので、どこに係るか探さないといけないということです。
たとえば、さきほどの「~を見る」のようなものが挟まれば主語は変わりますね。
山へ行き、働くを見る
というような文があるとすると、「行き」が係るのは、「働く」なのか「見る」なのか、決めなければいけないということです。
前者の場合、「山へ行って働く人を」「別の人がみる」
後者の場合、「誰かが働いているのを」「山へ行って見る」
という解釈になります。
もうひとつ古文でよくあるパターンは会話文がはさまれるもの。
笑ひて、「 」と言ふ。
となっていれば、「笑ひて」の係り所は「言ふ」です。
「 」があればそんなに混乱はないのですが、入試問題では、「 」を消して、会話文の場所を探させたりもするので、こういうようなことも対応しなければいけません。
なので、知っていたからといって何かが劇的にわかりやすくなるという項目ではなく、どちらかというと、こういうことに注意しておかないと読み間違えますよ、というような項目です。
この後、敬語を説明しますが、たとえば、敬語から読み取れる身分は当然一定になるので、この知識と敬語の知識を組み合わせて、主客を判定していく…というようなことにつながる項目です。まだ、敬語を説明していないので、よくわからないと思いますが、「係り所を探す」という意識はしっかり持って読解をしていきましょう。
逆接は大事!「ど・ども」「ものの」「ものを」「ものから」「を・に」
接続助詞の中でも、特に重要なのは、逆接を意味するものです。
すでに「ど・ども」については説明しましたが、その他に、
ものの
ものを
ものから
~を
~に
などがあります。最後の「を」とか「に」は格助詞にもあって、それはいわゆる「てにをは」と呼ばれるような使い方をするものになります。「本を読む」とか「学校に行く」とか使うときのものが格助詞。
ここで逆接になるのは、文と文をつなぐ「を」とか「に」です。
現代語で言うと、「ちゃんと言ったのに、どうしてやらないの?」とか、そういう感じで使われる用例です。必ず逆接になるわけじゃなく、単純接続というんですが、単に文と文をつないでいるだけ、というようなケースもあるんですが、とにかく、逆接のケースがあると知っていることが重要です。
「ものを・ものから・ものの」などの例も逆接と訳すのを忘れやすいので、こういうのが来た時にきちんと逆接で訳せるようにしましょう。
「が」と「の」は、どっちも主格と連体格(英語の所有)のイメージで
さて、古文で主語の確定といえば、「が」と「の」でしょう。
現代語では、
「が」主格 私が行く
「の」連体格 私の家
というのが基本的ですね。しかし、古文では、
「が」連体格
「の」主格
となるケースもあります。つまり、「が」「の」の両方が、主格にもなり、連体格にもなるということです。
それぞれの例を見てみましょう。
「が」が連体格となる現代語の用法
我が家 我らが母校 誰がために
「の」が主格となる現代語の用法
君の住む町
特に問題となるのは、「の」が主格となるようなケースです。
君の住む町
とありますが、小学校とか中学校なんかだと、「「君の」はどこに係りますか?」なんていう質問をして、答えを「町」としてしまうケースがあります。しかし、そうすると「住む」というのがどこから来たのかという話になります。これが主格の例で、「君が住む町」ととらないといけません。実際古文では、「の」が主格になるケースは山ほどあります。
ちなみに、現代語では「「が」と「は」が主語をあらわす」と説明されることが多いのですが、これはかなり問題があります。説明が英語的というか、適切ではありません。
「は」という助詞は係助詞です。これは文法問題を解くためには必須の知識で、要は「引っかけ問題」用の知識です。無意識にみなさんは、「ぞ・なむ・や・か・こそ」が係助詞だと思っているので、「は」と「も」が係助詞ではないような気がしてしまうのです。で、ざっくりといえば、両方とも「強調」を意味します。特に「は」の場合は、限定というか、他との違いを出すというか、そんな助詞。
僕は富士山が見える。
というような文の場合、主語が二つあるような印象かもしれませんが、実は主語は「富士山」の方です。「は」は限定をあらわしているので、
僕に「は」、富士山が見える。
というように、「に」が入っているイメージであることがわかります。この「見える」というのは受身動詞で「見られる」という受身の解釈が適当です。また、これは後で説明していきましょう。
話が少しそれましたが、特に「は」は主語を導くわけではないということです。
というわけで、
「の」「が」の両方が、主格(「~が」)、連体格(「~の」)の両方の用法がある
ということになります。
ちなみに、「の」には、同格の用法もあります。
僧の、きよらなりけるが、来たりけり。
というような場合、
僧が神聖である、それが来た。
という感じで、一見、主格のように感じます。
しかし、続けてしまうと、
僧が神聖であるのが来た。
となり、主語が二回続くような感じになってしまいます。
というわけで、「の」の後が連体形になって名詞化してしまうと、まずは主語についてその説明をして、それを主語として述語が来るようになるわけです。
なので、これを同格と呼びます。見分け方としては、「の」の後が連体形(名詞化)となっていることです。訳し方としては、
僧で神聖であるのが来た。
というように、「で」を使うか、あるいは、一度切って、「それが」とやり直す。つまり、
僧が神聖であって、それが来た。
というようにやるかのどちらかです。
「は」は係助詞。読解としては対比が隠れている。
さきほども少し書いたことですが、「は」は係助詞です。つまらない文法問題のひっかけ選択肢に使う知識です。
受験生は、係助詞=係り結びと思っているので、「係助詞=ぞ・なむ・や・か・こそ」と理解して、「は」と「も」を忘れます。まず、注意しておきましょう。
続いてもっと大事なのは、「は」は強調する役割があるのですが、厳密に言えば、「対比」を示しているということです。
例えば、
「今日は楽しいなあ」
と呟けば、昨日までは「楽しくない」ということ。
「今日は雨だ」
と言えば、昨日は「雨でない」ということ。
「僕は知りません」
と言えば、「僕以外の誰かが知っている」ということ。
こんな感じです。
逆接同様、「対比」であるということは「違い」であり、つまり、どちらかがわかれば、もう片方はその逆であるということです。
たかだか「は」というひとつの助詞に大きなヒントが隠れているのです。
「も」も係助詞。同じ事が繰り返される!
こんどは、同じ係助詞でも「も」です。
基本的には、みなさんが普通に使う「も」で大丈夫です。
つまり、~だけでなく、「~も」というように使います。並列なんていう呼び方をしますが、つまり、「同じだよ」という時に使うわけです。
「今日も雨だ」
という前提には、昨日も雨だった、ということが必要です。
もし、その前提Aが書かれていると仮定すれば、
A=B
になるわけです。
Aは…だ。Bも…だ。
ということは…の部分は、AもBも一緒。どちらかがわかればもう片方に入れてしまえばいいわけです。
「も」には危惧を表す表現もあります。「雨でも降るんじゃないか」みたいな用法ですね。これはまた後で触れます。
終助詞は単語!
動詞などについて、文を終わらせる、文末について意味を変えるのが終助詞です。一見助動詞と同じように見えますが、活用しない、もっというと、その後に助動詞をつけたりしないのが、助動詞との大きな違いです。
助動詞の場合、「接続、意味、活用」の3つが大事だったのですが、活用しないわけですから「接続、意味」を理解すればよいことになります。もっと書くと、活用しないということは常に同じ形ですから、単語と同じように動詞につけた形で意味を覚えるのが大事です。
願望
ばや・なむ
がな・もがな・にしか(にしが・にしがな)・てしか(てしが・てしがな)
読まばや 自己願望=自分に対する願望 見たい
読まなむ 他者願望(あつらえ)=他人に対する願望 見てほしい
まずは、自己願望と他者願望です。自分に対する願望ですから、「自分が~たい」、それに対して他者願望は他人に対して望む感じですから、「(他人に)~してほしい」となります。
両方とも、未然形接続です。
続いて、単純な願望として、「がな」「もがな」です。
体言や助詞、形容詞の連用形などにつきます。
本もがな。
読むこともがな。
読むもがな。
学校へもがな。
美しくもがな。
というような使い方です。「あったらいいな」「だったらいいな」という感じで臨機応変に訳すことが必要です。
学校へもがな。=学校へ行けたらいいな。
美しくもがな。=美しくなったらいいな。
というような感じですね。同じように「学校へ行く」であったとしても、自分が主語なら自己願望で「行きたい」になるでしょうし、他人が主語なら他者願望で「行ってほしい」と訳し分けます。
てしか・てしが・てしがな
にしか・にしが・にしがな
は殆ど「~がな」と同じで、その前に「てし」「にし」がついていると思えばいい形。
咲きにしがな。
という用法で、「咲いたらいいな」「咲いてほしいな」と訳します。使ったのが「咲く」ですから他者願望の訳になりますが、
見てしがな。
という形で、しかも自分が主語だとするなら、自己願望で「見たいなあ」となります。もちろん、この場合でも他人が主語なら「見てほしい」ですね。
また、「てしがな」は「てしが」「てしか」と形を変えます。特に「てしか」とか「にしか」になると、完了の助動詞「つ・ぬ」に過去の助動詞「き」の連体形「し」、最後に係助詞の「か」がついた形と見分けができません。なんとなく頭の片隅に残しておいてください。
禁止
な・な~そ
続いて禁止です。単独の「な」は現代語同様です。
咲くな。
というのは禁止ですね。
で、もうひとつが「な~そ」の形です。
な咲きそ。
連用形をはさんで、「咲くな」という意味になります。
北原白秋の歌に、
春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕べ
なんていうのがありましたね。
あとは、「勿来」という地名が福島にあるんですが、読めますか?関所だったので「勿来の関」なんていうんですが…。
これ、漢文の知識を使うと「勿」は「なかれ」で禁止句形。つまり「来てはいけない」という意味で「来たる勿れ」です。
これを日本語読みすると…
そう「なこそ」です。「な来そ」で、「なこそ」と読みます。
このあたりで覚えておいてください。
詠嘆・念押し
か・かな・は・な
かし・ぞ
や・よ・を=間投助詞
詠嘆は現代語に殆ど残っている感じです。なので、あまり覚えるという感じをもたない方がいいと思います。
たとえば、「な」というのは、現代語の「なあ」というのと一緒。
咲きにしな。
というのは、「咲いてしまったなあ」という感じ。
「かな」は俳句とかでもよく見る形。
「か」が文末につくのは、「花が咲くのか」という疑問が反語になって詠嘆になるという部分の、詠嘆の用法と同じこと。「花が咲くのか!」と驚いた感じにすれば詠嘆です。これが係助詞なのか終助詞なのかというのは捉え方しだいというところがあります。
「は」ももとは係助詞ですから、それが文末にきて強めているものを、詠嘆で終助詞としてとっているだけの話です。「~なのは…」と余韻があるようなイメージです。
終助詞でなく、間投助詞なのですが、「や」とか「よ」とかも、俳句とかでよく見ますね。「古池や」のように呼びかけるように感じるものです。
現代語で自分が使ってしゃべるかというと、確かに「よ」ぐらいしか使わないかもしれませんが、聞いた時には不自然には感じないと思います。正直なところ、終助詞なのか間投助詞なのか区別がつかなくても問題はないのではないかと思っています。実はこのあたりの分類は専門の先生でも揺れているところで、諸説あり、という感じなんですね。だから、入試問題を作る専門の大学の先生ほど、微妙な区別に感じて出題しにくいと思うはずです。逆に、ある種の文法を徹底して正しいと思っている予備校、塾の先生は、細かい違いにこだわるはずです。
「ぞ」とか「かし」とかも、口語的な表現で、文の最後に何かつけて整えている印象で、さしたる意味はありません。だから、なんとなく、理解していれば十分です。要するに現代語でも「~ね」「~わ」「~よ」「~な」とかってつけてしゃべりますよねっていう理解ができればよいのです。
会話文を特定する その1
これから文章読解に入っていくにあたり、もうひとつ大きな見出しとして会話文の特定の話をしていきます。本当は一気に会話文の話をしておきたいのですが、会話文の特定には敬語の知識が必須になってきますので、現段階では全部を説明することができません。
というわけで、とりあえず、読解の基本として、会話文を特定するための最初の一歩だけを説明しておきます。
古文の会話文は「と」「とて」「など」で閉じる~終わりがまず決まって始まりを探しに行く
まず、重要なことは「「と」「とて」「など」で会話文が終わる」ということです。
現代語のように、
彼は言った。
「 。」
というような形はほぼあり得ないのです。
つまり、古文の会話文(心話文とか夢の内容とかも含みます)は必ず最後に「~と言った」というように終わるのです。
「 」と言ふ。
ということですね。
なので、まず「と」「とて」「など」を見つけて、そこにカギ括弧の終わりをつけます。そうすると、どこから始まるかわかりませんから、どこから始まるかを探す、という順番になります。
「と」「とて」「など」を探して会話文の終わりを決める。
どこから会話が始まったか考えていく。
さて、ではその始まりはどうやって探せばいいのかということになりますが、その重要な部分はその2で説明していきます。ごめんなさい。
基本的に難しくなるパターンというのは、
を見て、
「 」
と言ふ。
いうような時になります。もちろん、カギ括弧があれば難しいことは何もないのですが、会話文を特定する…というような場合には、「見て」が「と言ふ」に係る、ということを理解しなければいけないわけです。
ただ、古文の典型例というものがありまして、一番わかりやすいのは以下のようなケースです。
言ふやう、「 」と言ふ。
見るやう、「 」と見る。
思うやう、「 」と思ふ。
聞くやう、「 」と聞く。
このような形は間が会話文として確定できます。
この「言ふやう」というのは、漢文調になれば「いはく」「おもへらく」「きけらく」などという形に変わっていきます。
というわけで、「と」「とて」「など」を見つけて会話文を探していきましょう。
読解基礎編~歌の解釈の方法
さて、古文につきものの、和歌の解釈について、簡単に説明しておきましょう。まず、ここでは技巧的なことは後回しにして、歌をどのように解釈するか、という点にフォーカスして説明したいと思います。
解釈=現代語訳
歌の「解釈」とくるとなんだか身構えてしまって、難しそうに感じてしまいます。背景であるとか、言いたいことであるとか、なんだか深いことを説明しないといけないような気がしてきてしまうものです。
いえ、だからこそ、歌そのものではなく、話の流れであるとか、そこの先に隠れているものを探しに行こうとしたりしてしまいます。
まず、心にとめてほしいのは、「解釈」とは「現代語訳」であるということです。特に共通テストの選択肢などは、第一に和歌と選択肢の照合によってしぼるべきです。つまり、現代語訳。
ここに必要なのは、「単語」と「文法」です。
深いことなどどこにも必要なく、まずは浅いのかもしれませんが、歌を正確に訳すことが大事です。
「解釈」とは「訳す」こと。
そうなると、ここまで説明してきた「助動詞」「助詞」などの文法系の知識が非常に重要である、ということがわかりますね。まずは、「直訳」をしてみることをこころがけ、特に文末の、助動詞、助詞の訳出に注意をはらいましょう。
歌はメッセージ
今、歌の解釈はまず、「訳す」ことなのだと書きました。しかし、ここでちょっと矛盾することを書きます。
歌の解釈で重要なのは、「訳」よりも「言いたいこと」なのです。
歌はメッセージ。
歌は、手紙であり、ラブレターであり、つまり、「言いたいこと」「伝えたいこと」があるのです。
要は、それを読み取ることが重要なのです。
なぜ、そんなことを書くかというと、歌は比喩的、象徴的にメッセージを託すことが多いからです。
たとえば、プロポーズで考えてみましょう。
直接的に言えば、「私と結婚してください」ですね。
でも、
「毎朝、君とお味噌汁を飲みたいんだ」とか、
「君の笑顔をいつも、君の隣で見ていたい」とか、
「君の顔がしわくちゃになるまで、ずっと一緒にいよう」とか、
いろいろな言い回しが考えられます。
そのひとつひとつに、
「いや、それは無理。パンとスープがいい日もある」とか、
「いや、いつも隣にいられたら迷惑。たまには一人がいい」とか答えるのは、ピントがずれていますよね?
つまり、「言いたいこと」を読み取る必要があるんです。
特に和歌の場合、「掛詞」とか「序詞」、あるいは「歌コトバ」とでもいうような典型的な表現もあります。
(歌コトバというのは一般的な表現ではありません。歌枕というように、地名と描くイメージが結びついているものは資料集などにも載っていますが、それ以外に、「このコトバはこういうことを表すのに使う」というような典型的な表現があり、私はそれを「歌コトバ」と呼びます。)
そういうものの表面的な意味にとらわれず、「言いたいこと」をつかむことが大事です。
歌は直前の内容を詠む
次に大事なことは、「歌は直前の内容を詠む」ということです。
たとえば古今和歌集から、歌だけが切り取られて出題されれば、歌以外に手がかりはありませんが、入試問題などでは、たいていは文章があってその中に和歌があるわけですし、和歌そのものでも詞書があって、歌があるのが基本です。
つまり、歌の内容は、その直前にヒントがある。いえ、ヒントどころでなく、直前の内容をそのまま詠んでいることが多いのです。
多くの場合、歌の内容と一致する部分が見つけられます。そこを探してしまえば、歌の内容はわかるのです。
もう一度書きますが、共通テストの選択肢問題など、「解釈」の問題はまず「訳」だと思ってください。接続詞、助動詞、終助詞などの対応を見て選択肢を選ぶことが大事です。
しかし、内容、「言いたいこと」だけについて言うなら、歌そのものでなく、直前の内容をしっかり読み込むことが重要であるということになるのです。
また、歌自体は会話としてはさみこまれることも多いので、この場合、会話の直前直後の感情を示すコトバを探すのも重要です。
「泣きて…といふ」
なんていう風になっていれば、歌の内容は「悲しい」ですし、
「…といひて泣き給ふ」
とあれば、やっぱり歌の内容は「悲しい」になります。
後のパターンだと、その歌を受け取った人が、泣いていたり、共感していたりするので、そこから読み取るケースもあります。
二つを合わせると…直前の内容が言いたいこと
というわけで、この二つを合わせると、「直前の内容が言いたいこと」ということになります。
極端なことを書けば、「歌を読む必要がない」とも言えるわけです。
なぜなら、多くの場合、直前に歌の内容と同じ場所が見つけられるからです。
このあたりをしっかり理解できると、
まず、直前直後の文章から歌のメッセージのあたりをつける。
その上で、歌自体の、接続詞、助詞、助動詞、終助詞などの訳に着目して言いたいことにあてはめる。
という解釈の順番が決まってきます。
歌というと、「修辞」の説明が出てきます。これ自体も入試で頻出ですので理解していないとまずいですし、また、歌の醍醐味というか、そのひねりや工夫が歌の評価でもあるので、やらないわけにはいきません。
しかし、特に掛詞などをみつけるためにも、まずは「言いたいこと」をつかんでおかないと、コトバの表面上の意味にとらわれて、理解できなくなります。
というわけで、こうした「修辞」はいったん後回しにします。掛詞・序詞・縁語・枕詞という4つが説明されることが多いのですが、また、これらは後で説明することにします。
読解基礎編:読解に役立つ文法知識を使った主客の特定
それではもう一度、「つくも髪」を使って練習してみましょう。すでに一度、読解練習はして、だいたいどんな話かはつかめるよね…というあたりまでやってあります。しばらく文法説明をしてしまいましたので、忘れているかもしれませんので、読んでもらえるとありがたいです。その後、助動詞の説明など品詞分解的な読みもしました。ここに、今学んだ助詞の理解を入れていきたいと思います。
ひとつは、接続助詞の「ば」などを中心にした主客の決定です。
もうひとつは、終助詞を学んだことによって、文末の意味の訳し分けができるようになりました。このあたりを中心に確認していきましょう。
太字でチェックしたのが、読解のための古文文法知識で説明した部分に関わるところを中心に読解が必要なところです。順を追ってチェックしていきましょう。
最初からいきなり「読解」の本質に迫るようなところです。
世心づける女、いかで心ならけあらむ男に会い得てしがなと思へど
世ごころづける女、いかで心なさけあらむ男にあひえてしがなとおもヘど
と始まります。
直訳すると、
男女の仲の心のついた女が、なんとかして風流心のあるような男に会って得たいと思うけれど
というような感じです。
世=男女の仲
情け=風流心
てしがな=願望=~たい
ここにすでに説明しましたが、「つける=つく+り」「あらむ男=連体形=婉曲=ような」という助動詞の理解が組み合わさる程度です。
つまり、単語や文法を完璧にしても、所詮この程度の訳ができるだけで、文章が読めるわけではないのです。「読解」というのは、こうした直訳を意訳する作業とも言えます。前後関係や展開から適切な内容に読み替えていく作業ですね。
先に「情け心あらむ男」から行きましょう。単語集的な直訳で考えると、風流心があるような男に会ってゲットしたい、つまり、「付き合いたい」と言っています。さて、どのような男でしょうか。
まじめに考えて、「風流心」をイメージすると、俳句でも詠んでそうなおじいちゃんみたいな人が浮かんでくるかもしれません。でも、そんな人と付き合いたいって今ひとつピンときませんね。
「つきあいたい」だけで考えれば、それは「いい男」に決まっています。
少し後に「よき男ぞ出て来む」という表現もありますし、それこそここは「いい男」でいいのです。
ちなみに「情け」を「風流心」と訳すからわからなくなります。イメージは、ファッショナブルで、センスがあって、やさしくて…という感じ。現代で「風流」というと、デートするときに、わざわざ寺社仏閣選んできそうな気がしますが、それしかなかった時代だと考えれば、現代でいう、女の子がよろこびそうな、おしゃれで、流行のデートスポットよく知ってる感じが「情け」です。で、いくらセンスがよくなくても、顔がよくなくちゃ女の子は相手にしません。あくまでもわかりやすいたとえとして、私自身もブサイク代表として書きますが、「センスのいい男の子がいいな」って言ってる女子に、すごくセンスはいいけれど私のような超絶ブサイク紹介したら、たぶんその女の子は怒るはずです。
だからいろんなことを含めて、「いい男」が一番いい訳のような気がします。
そう考えると「世心づける女」の直訳「男女の関係の心がついた女」は、「恋したい女子」ぐらいの感じ。盛りのついた、なんて書いたら悪意があるし、男好きというのもちょっと悪意。だから、いつまでも、いつも、恋していたい女子、というそのぐらいになります。
こういうのが意訳の作業で、決して全く単語がわからないところを適当に前後からあてはめる訳ではないんですね。
三郎なりける子なむ、よき御をとこぞいでこむとあはするに
続いて、会話文の確定です。
三郎なりける子なむ、よき御をとこぞいでこむとあはするに
「と」がありますから、末尾が確定します。最初ですが、「三郎なりける子なむ」とありますから、。これを主語と見て、「よき御おとこぞ…」と会話が始まるとみるのがいいでしょう。
この前に「子三人」とあり、直前に「二人の子」ときて「三郎」ですから、この三郎というのは三人目の子であることがわかります。
逆に言うと、さっき見た「世心づける女」は「母」であるということになるわけですね。
いつまでも恋したいお母さんが子どもに対して何か要求をしているわけです。その要求は、三郎が「よき御おとこぞいでこむ」、つまり「いい男がでてくるだろう」と言っているあたりを見ると、「男がほしい」という要求です。
そのこと自体は、さっき見たように「情け心あらむ男にあひえてしがな」ですから、わかるはずです。
問題は、その間に「まことならぬ夢語り」をしていること。「本当でない夢を語った」ということです。
その前は、「言ひいでむもたよりなさに」です。
現代語のイメージを尊重して訳すと「言い出すのもたよりなくて」みたいな感じ。「たよりなさ」をどう訳すかが問われます。
こういうときは、逆接が大事。
その前にさっきやった「情け心あらむ男にあひえてしがなと思へど」があります。
「 」と思うけれど
と来れば、続くのはどうなるでしょうか。そうですね。
思っているけれど、言えない。(できない。)
というあたりです。
このように、逆接の助詞をみつけたら、わかりやすい方からもう片方をなんとかあたりをつける。これがとても大事です。
つまり、「言ひいでむもたよりなさに」は「言えない」ということ。
大体、さっきも見たように、お母さんが子どもにたいして何か言うわけですから、「いい男ほしいんだよね」とは「言えない」ということでしょう。でも、黙っていたら物語は進みませんから、「まことならぬ夢語り」をしたわけです。
「お母さんね、夢で見たんだけど、お花畑みたいなすごいきれいなところで、超イケメンが、お母さんに『こっちおいで~、こっちおいで~』みたいなことするの。どう思う?」
みたいなことだと思います。
だからこそ、二人の子は「お母さん、いい年なんだからさ…」と「情けなく」ここでは、思いやり、やさしさなくあしらう。でも、三郎だけは、意図をくみ取って「よき御男ぞいでこむ」となるわけです。
「とあはするに」とありますが、これは「夢合わせ」とか「夢解き」とか言われるものです。
夢は、古文の世界ではお告げやメッセージなんですね。人間は思いが強いと、その思い、つまり魂が人間の身体を抜け出て、その思いを伝えにいくわけです。伝えにいくのは、生きている人間でも、死んだ人間でも、どちらでもありえる。夢というのは、そういうものなんですね。
そして、時に、その内容、お告げ、予言の中身がわかりずらい。なので、夢解きや夢合わせをして、その内容を読み取ろうとするのです。
これ、結構、いろんなところで出てきます。源氏物語で言えば、葵の巻の六条御息所の生き霊の話とか、須磨で源氏のお父さん(故帝)が枕元に立つシーンとかもこの流れです。大事なことがあると、それが生きている人でも、死んでいる人でも、そこから魂がやってきて伝える。それが「夢」なんです。
そういう前提になっているので、「夢」そのものに知り合いが出てこなかったとしても何らかの「メッセージ」であるわけで、そうなると何を言わんとしているのかを読み解き、答え合わせをする必要があります。夢占いといえば、そういうことですが、なので「あはせ」たり、「解き」たりするものなんですね。
三郎くんは、お母さんの都合のいいように「夢合はせ」をしてあげたわけです。
この女気色いとよし
この女は機嫌がよかった…というあたりが直訳です。ここの何がポイントかというと、古文解釈の基本的な「逆」から考えるパターンです。
母は機嫌が良い→なぜ?
三郎が「いい男が出てくるだろう」と言ったから。
では、どうして、その三郎の言葉で機嫌が良くなるのか?
母がそれを期待していたから→「まことならぬ夢語り」であり、「情け心あらむ男に会ひ得てしがな」である。
というようなつながりを見いだすことになります。古文解釈はこのように、後の間違いなくわかるところから、戻るように解釈を確定していくというのが必要なテクニックになります。
いかでこの在五中将にあはせてしがなと思ふ心あり。狩しありきけるにいきあひて、道にて馬の口をとりて、かうゝゝなむ思ふといひければ、あはれがりてきて寝にけり。
まず、一歩目として、
「 」と思ふ心あり。
に着目します。心話文の最後に着目して、最初を探すわけですね。
で、ここで「あはせてしがな」がわかるかどうかです。もちろん、すでに説明したように「~てしがな」が願望で「~たい」などと訳したいわけですが、それがわからなかったとしても「あはせて」となっていることに気づくでしょうか。
ここまでの話で「会わせて」とくれば、そう思うのが誰かはある程度わかるはずです。つまり、それは三郎です。
「会う」とくるなら、それは母であるはずですが、「会わせて」と思うのは、ここまでの登場人物では三郎のはずです。
だとすると、「在五中将」は「いい男」のはずです。なぜなら「よき御男ぞいでこむ」なんて言ってあげたわけですから。
そうなると、三郎君の次の行動はお母さんと在五中将を会わせるための行動であるということがわかります。
狩しありきけるにいきあひて、道にて馬の口をとりて、かうゝゝなむ思ふといひければ、あはれがりてきて寝にけり。
最初に「~にいきあひて」とあります。「狩りをしているの」「に」「行き会って」でしょうか。ここでの「歩く」は、現代語のように「歩く」か「~し続ける」かどちらかを考えないといけないのですが、大差はありません。
大事なことは、「に」の前後で主体が別人であるということです。
「狩りをしている誰かに」「会った」ということですね。
その後は「~て」が続きますから、主語は同じはず。「会った人は」「道で馬の口をとって」「かくかくしかじかと言った」まで、同じ人。
ここで「言ひければ」と来ますから、次の主語は「言われた人」。
その言われた人は「あはれ」がって、「来て」「寝た」。
こんな感じです。
お母さんはいい男がほしい。
三郎君はお母さんの夢をかなえたい。
だから、いい男=在五中将に会わせたい。
この3つを踏まえて、今、書いたことを重ねて考えていくわけです。
そうすると、「会った」の主語に当たるのは三郎くん。狩りをしているのが、在五中将。「寝た」のも在五中将で、「言った」のは三郎くん、というようなことは読めるのではないでしょうか。
さてのち、男見えざりければ、女、男の家にいきてかいまみけるを、男ほのかに見て、
ここから、「さてのち」とあるように、時間が経過しています。
実は全部主語が書いてあるので、簡単。
男と女が順番に登場します。
最初は「男があらわれないので」と来て、次の主語は「女」。女が男の家に行って「垣間見」をする。それを見るのは別人のはずで、主語が書かれて、「男」です。
女が男のことをのぞいているのを男が見る…という構図です。
ここは「見て」と「~て」ですから、まだ係りどころがあるはずです。
百年に一年たらぬつくも髪われを恋ふらしおもかげに見ゆ
とて、出でたつけしきを見て、茨からたちにかゝりて、家にきてうちふせり。
先ほどの「見て」は、この歌を詠んで、つまり「~とて」ですから、まだ、何かをします。もちろん、前のところを受けているので、歌を詠んだのは男。
次が「出でたつけしきを見て」と「~を見て」のパターンですから、どちらかにかかって、どちらかが別人です。
つまり、
男が歌を詠んで(~とて)「出でたつ」の「を」、別人、つまり女が見て、からたちにひっかかりながら、家に来て伏せた。
あるいは、
男が歌を詠んで(~とて)、女が「出でたつ」の「を」、別人、つまり男が見て、からたちにひっかかりながら、家に来て伏せた。
このどちらかですね。
もちろん、男が自分の家にいながら「家に来て」というのはおかしいですから、正解は前者になります。
男が自分のうちにくるのがわかるから、女は慌てて家に帰った…という解釈になりそうです。
百年に一年たらぬつくも髪われを恋ふらしおもかげに見ゆ
では、歌の解釈にいきましょう。
歌はメッセージ=訳よりも言いたいこと
歌は直前の内容を詠む
直前の内容が言いたいこと
というのが基本です。
その他にも、「歌は会話」と捉えれば、「直前直後の心情語が重要」ということになりますね。
では、そのあたりを踏まえて見ていきましょう。
歌の直後ですが、「男が女の家に行く」わけです。
ということは、この歌は「僕はこれから女の家に行きますよ」というような内容のはずです。
直前を見てみましょう。
女、男の家にいきてかいまみけるを、男ほのかに見て
とありますね。これを、
百年に一年たらぬつくも髪われを恋ふらしおもかげに見ゆ
という歌と重ねてみると、
「男ほのかに見て」と「おのかげに見ゆ」が同じであることに気がつきます。
つまり、この歌は、「女が来て私を見ているのを見た」という歌なのではないでしょうか。
そうすると、どこかに「女」があるはずです。
それは、
「百年に一年たらぬつくも髪」のはずです。
つまり、この女は、百歳に一年足りない九十九=「つくも」歳のおばあちゃんだったわけです。
感動しませんか?これ、お母さんはお母さんでもおばあちゃん。考えてみれば、30歳ぐらいのお母さんだとすると、三郎は10歳未満もありえるわけで、30歳ぐらいのお母さんが10歳ぐらいの子に「男がほしい」というのはちょっと気持ちが悪い。これを受け止められるのは、いっぱしの大人の男であるべきでしょう。
しかし、なぜ「つくも髪」なのでしょうか?「つくも」を「九十九」と書くことは知っているでしょうが、そこになぜ「髪」なのか?なぜ「歳」とか「年」とかではないのか?
そもそも最初が「百年に一年」とあるわけですから、「九十九」のあとも「年」の方が自然です。どうしてここが「髪」になるのでしょうか。
そうなんです。こういうところに和歌のおもしろさがでているんですね。
「百」という漢字と「一」という漢字をよくみてみましょう。百年に一年足らない…「百」から「一」をとると…。
そうなんです。「白」という漢字が出来上がりますね。つまり「白髪」。
これがここに込められたダブルミーニング。九十九歳の、白髪のおばあちゃん。
もちろん、わかるのが理想ですが、わからなくても仕方ありません。戻りますが、直前の内容は、「女がこちらを見ているのを見た」ですね。ですから、
「百年に一年足らぬつくも髪」は「女」である。
ということは「女」は「おばあちゃん」である。
最悪、ここがわかればよい。
いえ、むしろここまでわかるからこそ、「つくも髪」が「白髪」ではないかと気付くのではないかと思います。
先に「つくも髪」が「白髪」だという知識を持って、その結果、この女が白髪のおばあちゃんだとわかるのではなく、この言葉が女を指し、それが九十九歳だとわかり、だから「つくも髪」が「白髪」なのではないかと気付く…というのが歌の解釈なのです。
まとめてみると、
九十九歳の白髪のおばあちゃんが私に恋しているらしい。「おもかげに」見える
というような歌であることがわかります。
さて、ここまで解釈したところで、まだ、疑問が残るはずです。
どうして、これで男が会いにいく…ということになるのかということです。まあ、歌の直後に「とていでたつ」とある以上、男が女の家に向かうことは確定するのですが、逆に言えば、この歌は「じゃあ、僕は会いに行こう」という内容でないとまずいわけですね。
これは、この章の最初でした「夢」の話が古文常識として入っているかで決まります。
古文の世界では、生きている人であれ、死んだ人であれ、強い思いがあると魂が体から抜け出して、何かをするんでしたね。
つまり、おばあちゃんが会いに来た、見える、というのは自分への「思いの強さ」であるといえます。
おばあちゃんは私に会いに来た。それは私を恋しいとおもっているからだ。
ということです。
だから、彼は会いに行く…。
何かおかしいですよね?
だって、おばあちゃんは会いに来たわけで、会っているわけだから。
そうです。会いに行く、ということは、おばあちゃんはここにいない。
いるのは、おばあちゃんの魂。
それが「おもかげ」。「面影」ですから、直訳的には「姿」です。でも、これを本当の姿でないとした。私を恋するあまり、魂が会いに来た、としてあげたわけです。
だって、本当は通い婚の時代だから、おばあちゃんは来ちゃいけない。だからこそおばあちゃんは「垣間見」をしているわけです。
そんなことを百も承知で、彼はそれを「魂」に、「思いの強さ」にしてしまったわけです。
だからこそ、おばあちゃんはダッシュで家に帰る。恋しいあの人が家に来るのに、実際は本体はここにいる。それはまずい。家にいなくちゃいけない。いばらからたちにひっかかりながら、おばあちゃんはダッシュで家に帰るのです。
ちょっと感動しますよね。
男、かの女のせしやうに
直訳すると、「男は、あの女のしたように」です。
「やう」が「様」であること。そうなると、ここは名詞ですから、直前は連体形です。
連体形で「し」というのは、よく出るので体に染みつけてほしいところですが、過去の助動詞「き」ですね。
うさぎ追ひしかの山
過ぎ去りし日々
在りし日の彼
若かりし先生
など、現代でもまだ耳にする表現です。
で、文法的なことをコメントすると、サ変の「す」につくとき、本来は連用形接続のはずなんですが、なぜか未然形につきます。
「し・し」「す」の連用形+「き」の連体形
「せ・し」「す」の未然形+「き」の連体形
つまり、本来上の方が正しいのに、下のようになるということです。
これは、単純に「しし」というのが言いにくいからです。なんとなく、「せし」にしたい。これも山ほど出てくるから、読んでいれば慣れてしまうと思います。
さて、ここは読解、解釈の練習です。
「あの女がしたように」とわかったとすれば、次の二つのことが理解できるはずです。
「あの女のしたこと」=先ほどの「垣間見」したこと がわかるなら、ここでも男が同じように「垣間見」していると推測できる。
ここで男がすること=「しのびて立てりて見れば」 がわかるなら、女もさっき「しのびて立てりて見れば」が推測できる。
わかりますでしょうか。
こういう表現をヒントにすれば、わからないところも推測ができる。前がわかれば後がわからなくてもなんとかなるし、後がわかればそこからわからなかった前を推測できる。
そんな場所なんですね。
女なげきて寝とて、
さむしろに衣かたしき今宵もや恋しき人にあはでのみ寝む
とよみけるを、男あはれと思ひて、その夜はねにけり。
さて、また歌の解釈です。
歌はメッセージ、歌は直前の内容を詠む
ですね。
さらに、直後が歌のヒントになりますから、「男あはれと思ひて、その夜は寝にけり」となるような歌です。
直前は「嘆きて寝」ですから、歌は「嘆いて寝ている」という内容です。
となると、「嘆き」の内容は「恋しい人にあはでのみ寝む」でしょう。つまり、「恋しい人に会えないと嘆いて寝ています」というような内容。
となると、「衣かたしき」あたりのイメージからすると、「一人で」でしょうか。きっと、「片」「敷き」とかなんじゃないかと。あくまでも、なんとなくのイメージからすれば。
「さむしろ」とか「かたしき」とかわからないことはあるけれど、きっと、「今夜も恋しいあの人はやってこない。私はそれを嘆いて一人で寝るんだ。さびしいなあ、かなしいなあ」
というような感じじゃないかと思われます。
世の中の例として、思ふをば思ひ、思はぬをば思はぬものを、この人は、思ふをも思はぬをも、けぢめみせぬ心なむありける。
最後の段落です。
まず、おそらく「まとめ」であろうと推測できます。もうちょっと言えば、この話がどういう話か、何を学ぶべきか、あるいは感想のようなものだと推測できます。
そうなると、次に気になるのが「この人」です。
登場人物はそもそも三人。なので、女か、男=在五中将か、それとも三郎か。
誰かがわかれば、その人に対する感想、評価であることがわかります。
続いて、「~は」に着目。
読解のポイントですね。「は」があるということは対比。
「この人」と対比関係にあるのは…
「世の中の例」です。
つまり、「普通は…だけど、この人は…」で、内容は対比で逆。
そうやってみると、
世の中の例として、思ふをば思ひ、思はぬをば思はぬものを、この人は、思ふをも思はぬをも、けぢめみせぬ心なむありける。
というように内容が逆になっていることがわかります。
「ものを」は逆接ですから、これも予測通り。
となると、
普通の人=思うを思い、思わないを思わない
この人=思うも思わないも、けぢめない心
となります。
大体、ここが解釈できなくなるのは、「けぢめ」を先に決めてしまうからです。現代語の「けじめ」を先に入れると意味がわからなくなる。
そうなった時に、対比を優先して考えるとよいわけです。
この文章は「恋愛」の話ですから、「思う」というのは「好き」ということだと推測できます。本当は、単語のレベルで「物思ふ」とくれば、好きな人のことを考えること、という単語理解が必要ですが、欠けていたとしても推測できそうです。
となると、
普通の人=好きは好き、好きでないは好きでない、
この人=?
としてしまえば、この人は好きな人も嫌いな人も区別しない、ぐらいの訳がうかび、けじめが「区別」ぐらいの感じに訳せるわけです。
というわけで、もちろん、「この人」は「在五中将」となるわけです。
読解基礎編:実践 伊勢物語「狩の使い」
それまでは、ここまで学習したことを使って、もう一度読解練習をしてみましょう。同じく伊勢物語の「狩の使い」です。
本来、一気に読解していけばいいのですが、あくまでも参考書として、「自分が何ができないのか」「何を学習すればいいのか」を意識できるようにすることと、読解自体の方法を明確にするために、次の3ステップで説明していきます。
実際には、ここまで明確にわけるわけでなく、その都度混ざる形で読んでかまわないのですが、「読解のマニュアル」を作るという目標からすると、少しそれを分解して、振り返りやすくしておきたいと考えています。
この手順については、ある程度順番に説明していくようにしますので、みなさんの方でも意識してみてください。
1 まず最後まで読む~わかることを意識して、わからないことを飛ばす
では、この文章の「確実にわかりそうなところ」をチェックします。
こんな感じではないでしょうか。もちろん、「もっとわかった!」という人もいるかもしれませんが、このぐらいはなんとかいけるかな、と思います。
苦手な人にとっては、ここからでもかまいませんので、太字にされた情報から話がつかめるといいと思います。
できれば、「伊勢物語=歌物語=恋の話」というぐらいのイメージがあるとなおさらうまくいきます。
男が狩の使いに行く。
男が会おうという。
女も…
けれど、会うことができない。
女が男のもとへ来た。
男は寝られなかった。
男はうれしくて、寝る所に入った(or入れた)
何も語らずに帰った。
男は悲しかった。
女から歌がくる。
男は泣いて、歌を詠んだ。
男ははやく会いたいと思った。
一晩中酒を飲んだ。
会うことができない。
女が歌を詠んだ。
男が歌の続きを書いた。
こんな感じですね。これをみながら、話の全体像をイメージしましょう。
まず、課題となるのは2~4あたりでしょうか。
3の部分が訳せるといいのですが、そうでないと仮定すると、3が?になります。
しかし、前が「男は会いたい」で、「女も」ですから、同じはず。しかも直後が「だけど会えない」ですから、直前の女も「会いたい」でないとおかしい。
次が5~7ぐらいですね。
5で女が行く(来る)。
6で男が寝られない。
7で男がうれしくて寝室に入る(または入れる)
ポイントは7の「うれしい」でしょう。直前は6ではなく、「人立てり」ですから、「人が立った」、それが「うれしい」。
6の「寝られない」を5とつなげると、女が来ているのが嫌な感じになってしまいます。
つまり、ここは、「一方その頃」というような解釈でしょう。
2~4で、二人は会いたいのに、会えない。
だから5で、女が行く。
6一方その頃、男は会えないから寝られない。
でも7、女が来てうれしい。
そんな解釈でしょう。
続いて、8~12
8で何も語らずに帰ったとありますが、9で男が悲しいとなりますから、おそらく、すぐ帰った、だから悲しい、もっと一緒にいたい、というようなことでしょう。
10、女の歌を見て、11、男は泣いていますから、女の歌の内容は、「もう会えません」的なものでしょう。11の男の歌は、12で、男が早く会いたいと言っていることを考えると、おそらく「会おう」的な内容と推測できます。
12~14です。
12で早く会いたい。
13でも酒を飲まなければいけない。
14だから会えない。
そんな感じです。なんだか悲しい感じの話ですね。
もちろん、この後に歌のやりとりがあり、その歌にはヒントが少なく、歌そのものを見なければいけない部分があるので全部がわかるわけではありませんが、全体像はおおよそつかめたと思います。
2 文法や単語事項のテクニックを使って、わからない部分を訳せるようにする
それでは、続いて文法的なところの確認です。
「訳せない」ところを「訳せる」に変える
というのが、この段階での重要なところです。
それでは、文法が理由で「訳せない」状態になっていると思われる部分をチェックしておきましょう。
「訳せない」時に使うテクニックは、「品詞分解」です。
そして、「品詞分解」の手順は以下の通り。
現代語で動詞、形容詞などを見つけて活用形をつかむ。
活用形を元に、接続の知識を使って助動詞などのあたりをつける。
助動詞の意味=訳を理解する。
このような感じです。
もちろん、「自信のある知識」「絶対に正しいもの」を出発点としてすすめることもあります。たとえば、「これは間違いなくこの助動詞」とか、「ここは「。」だから、おそらく終止形、となるとここはこの助動詞。そうなると上は〇〇形のはず」というようなことです。
以上をふまえてすすめてみましょう。
あはむ
すでに当たり前のように解釈していますが、一応確認しておきます。
動詞=あふ あは・ず…で未然形
未然形接続=む
「む」の意味は、
私が主語 ~つもり ~よう→意志
三人称が主語 ~だろう→推量
連体形 ~ような→婉曲
二人称が主語 適当などさまざまな訳
ここは相手に向かって話しているから、二人称です。
「会おう」という感じ。だとすると、「勧誘」がいいのではないでしょうか。
しげければえ逢はず
前半は、「しげければ」です。
絶対のものを見つけるとすれば「ば」。
となると、「未然形+ば」か「已然形+ば」ですね。
「~ければ」となっていますから、イメージは「已然形+ば」でしょう。もしかしたら、助動詞「けり」として、已然形と考えるかもしれません。
その場合、「しげ」が連用形となります。
もしそうなら、「しげ」は動詞です。形容詞なら連用形は「~く」ですから。
動詞だとすると、下二段活用で、終止形は「しぐ」。「しげ・ず、しげ・て、しぐ。…」と活用します。現代語は「~る」をつけるイメージですから「しげる」。ああ、そうか…ではありません。現代語の「しげる」は「しげら・ず、しげり・て、しげる。…」と活用する四段動詞。
というわけで、動詞は見つかりません。
動詞ではないということは形容詞。
たとえば、「よし」は、以下のように活用します。最初は「~く」ですから、
よく・ず→よく・あら・ず→よから・ず=下の段
よく・て
よし・。
よき・こと
よけれ・ど
です。已然形に「~けれ」がありますね。
つまり、助動詞の「けり」ではなく、形容詞。
というわけで「しげし」です。終止形ではわかりませんが、連用形は「しげく」。前が「人目」ですから「人目しげく」なんて書くと現代語でも使う表現ですね。漢字で書いたら「繁く」です。「已然+ば」ですから、「人目がが多くて」という感じ。
「え~ず」は「できない」で不可能をあらわします。「呼応の副詞」と呼ばれるものです。ほとんど単語のような知識が必要になる部分です。
できない人は、「呼応の副詞」全体に目を通す癖をつけましょう。
臥せるに
まず、「に」という助詞ですね。助詞っぽい助詞というと説明しにくいんですけど「が・を・は・に・も・の」などは全部連体形接続です。
現代語で考えるとわかりやすいんですけど、たとえば動詞にこれらの助詞をつけると、「花が咲くのに」と「の」を補うんです。古文ではこの「の」がないんですが、これが連体形のイメージです。
というわけで、この「る」は連体形。えっ、わかる?すいません。
動詞は何でしょう。「臥(ふ)す」ととるのか「ふせる」ととるのか。
ふす=ふさ・ず、ふし・て…四段活用
ふせる=ふせ・ず、ふせ・て、ふす。…下二段活用
下二段でも終止形は「ふす」です。
ここは四段活用ですね。
なぜなら、下二段なら、「ふせ・ず、ふせ・て、ふす・。、ふする・こと…」になるからです。終止形に「る」をつけるイメージですから。下二段なら未然形か連用形。無理矢理探すと、受身の「る」という可能性があがりますが、受身なら下二段なら「らる」がつくはず。現代語でやると「ふせれる」じゃなくて「ふせられる」ですね。それに受身の「る」なら連体形は「るる」となるはず。「歌ふ」なら受身で「歌はる。」で、連体形にすると「歌はるること」。これはまさに今やった二段活用と同じやり方です。
食べられ・ず、食べられ・て、食べらる・。(現代語から「る」をとってuに直す=食べられ(る)→u)、食べらるる・こと=終止形に「る」をつける
となると、ここは四段の已然形。
なので、已然形接続と言えば「りかちゃんさみしい」の「り」で存続。
伏せている…と進行形訳になります。
たてり
動詞は「立つ」。活用させると「立て」で已然形。
今と同じ存続の「り」です。
我が寝る所に率ていりて
「寝る」ですが、読みは?
「ぬる」ですね。
現代語が「ねる」ですから、古文は「る」をとって「u」に変えて「ぬ」。
ね・ず、ね・て、ぬ・。、ぬる・こと、ぬれ・ど、ねよ!
です。連体形は終止形に「る」をつけるイメージ。
夢のことを「壁」なんていったりします。壁は昔は「塗る」もの。「ぬる」間に見るものは…というわけで、夢は壁なんですね。こんなこともちょっと知っておくと入試に出てたりします。
「率る」は上一段動詞。「君にいい日」です。こちらはワ行の「ゐ」です。
自分の寝ている所に連れて入った…となります。
読解のところでは「入れる」「入る」を両方併記していました。とれないだろうなと思ったのと、どっちでもいけたからです。連れて=入れる、入った=入る、です。もし最後の「入(い)る」しかなかったとするなら、当然「入る」としなければいけません。
帰りにけり
動詞は「帰る」ですね。四段活用ですから、「る」で終わりますが取ったりしません。
「帰り」=連用形なので、下は連用形接続。
き・つ・ぬ・けむ・たり・けり・たり
のどれかです。おそらく「ぬ」
だとすると完了で訳は「てしまう」
とすると残りは「けり」で、過去。
「に」は連用形ですね。だって、「けり」の上ですから。
帰ってしまった。
です。
帰る+てしまう+た
ですから。
やるべきにしもあらねば
まず問題となるのは「し」です。
「取っても(なくても)文がつながって意味が通る」時の「し」は、強意の副助詞です。強意とか強調とかは、意味は「そのまま」。
この場合、「やるべきに(し)もあらねば」と意味がとれるので、このパターンです。
「あらねば」ですが、「~ば」は「未然+ば」か「已然+ば」。動詞は「あり」で、未然形。つまり、「ね」が未然形接続の何かの未然形か已然形ということになります。打ち消しの助動詞「ず」ですね。「咲かず。・咲かぬこと・咲かねど」です。「武士は食わねど高楊枝」「やるならやらねば」ですね。
前半は「やるべき」で、とりあえずそのままでもいいでしょう。
「やるべきでないので」です。
で、問題が「やる」。現代語では「宿題をやる」というように使いますが、この場合、「何をやるんだろう?」と思いませんか。というわけで、他の「やる」です。こちらも現代語で、まだ使いますよ。
そうですね。もう一つは「遣る」です。「人をやるからよろしく」なんていう感じで使ったりしますね。
まどひにき
動詞を見つけると「まどふ=まどう」です。戸惑う、というように「惑う」ですね。
活用させると、連用形ですから、「にき」は連用形接続で探します。
となると、似ているのは「ぬ」。だとするなら、「に・き」ときれて、完了の助動詞「ぬ」、過去の助動詞「き」ですね。「に」は、「ぬ」の連用形。「き」の上にありますから。
惑う(迷う)+てしまう(完了)+た(過去)
で、「迷ってしまった」
君やこし我や行きけむ
最重要は、疑問の係助詞「や」です。
「や」が全部係助詞ではありませんが、「や」といえば疑問、という疑いは持ちましょう。
結びは連体形ですから、「こし」「いきけむ」とも連体形で終わっていることになります。前者は「うさぎ追ひしかの山」ですね。
「来し」です。「せし」「こし」と、なぜか未然形につくんです。まあ、なぜかといっても、言いにくいから、とわかっていますが。
君が来たのか、それとも私が行ったのだろうか
ですね。「けむ」は過去推量。「~ただろう」です。「らむ」と「けむ」で、基本は「む」です。
出でぬ。
動詞は、現代語の「出る」。古文では前に「い」がついて「いでる」のイメージから「いづ」(「る」をとってuに変える)。「いでよ!ドラゴン!」みたいな感じです。
「出す」も同じで、古文では「いだす」です。
活用させると、「いで・ず、いで・て、いづ・。…」で、未然形か連用形です。
未然形なら打ち消しの助動詞「ず」。「咲かぬ」のイメージです。「いでぬ」うん、ありそう。出ないってことか。
連用形なら完了の「ぬ」。出たってことですね。
さあ、どっち?
あとに「。」がありますから「ぬ」は終止形。というわけで、完了で訳しましょう。打ち消しなら「いでず。」または「いでぬ時」。
狩に出た、ということです。
こよひだに人しづめて、いととく逢はむ
「だに」は、読解にとても重要な助詞です。ただ、レベルとしては一段あがってしまうので、ここでは単語としておさえます。
単語として捉えると意味は次の二つ。
~さえ
せめて~だけでも~(意志・願望表現)
「今夜さえ」か「せめて今夜だけでも」のどちらかですね。
「しづめて」は現代語「静める」でしょうね。「静まる」ではなく、「静める」ですから、古文では「る」をとってuにして、「しづむ」。
「いと」は「とても」、「とく」は「早く」。終止形は「とし(疾し)」。
「あはむ」は「会おう」。「あふ」の未然形に「む」というのは、「あふ」から攻めても、「む」から確定してもわかりますね。
となると、「せめて今夜だけでも」「会おう」というのがつながりがよさそうです。
国守、斎宮のかみかけたる
動詞を探していくと現代語「かける」ではないでしょうか。
「斎宮の」とありますから、まだ名詞が続きそうですし、「か」「みかけたる」では変。「かみかけたる」を動詞ととることはできますが、そうすると、「噛みかけたる」のような感じで、ちょっと怖い文章になります。
現代語「かける」ととれば、「かみ」「かけたる」です。
かけ・ず、かけ・て、かく・。…で未然形か連用形で、次が「たり」ですから、連用形だったことがわかります。「たり・り」は存続(進行形)で、「~ている」ですね。「かけている」。
「かみ」は直前に「守」とありますからピンとくるかも。
この二つの役職を「かけている」ということがつかめるのではないでしょうか。
大事なことは、ここが連体形で終わっていること。つまり、ここを名詞のようにとる。「かけているの」という感じです。
逢ひごともえせで、明けば
「え~で」が「え~打ち消し」の形です。「~できない」ですね。
呼応の副詞のパターンですね。
「で」は「未然形+で」で「~ないで」の形。「咲かで」で「咲かないで」です。
ここにはさまっているのは「せ」で、未然形です。「で」の前ですから。
サ変「す」ですね。
「会うこともできないで」という感じでしょうか。厳密に言えば「逢ひ事」もできない、つまり「デートもできない」と名詞にした方がいいのですが、「逢瀬」とか使わない限りは、動詞にした方が通ると思います。
「明けば」は、「未然+ば」か「已然+ば」です。動詞は現代語「明ける」で「明く」。「明ける」のイメージで活用させると、
明け・ず、明け・て、明く・。、明くる・こと、明くれ・ど、明けよ・!
というわけで、ここは未然形になります。
となると、「夜は明けていない」ので、「夜が明けたら」。
たちなむ
「たつ」があることはわかるでしょう。活用させると、連用形。ですから、連用形接続の助動詞を疑います。「なむ」ですから、「ぬ」ですね。完了です。そうなると、下は「む」。となると確述用法で、さっきの完了は「強意」と答えた方がよさそうです。「む」ですが、意志的に「たっ」「てしま」「おう」と訳した方がいいですから、意志ですね。
「たつ」ですが、出発ですから「立つ」とか「発つ」とかでしょうね。
明けなむ
今とまったく同じパターンです。
動詞は現代語で「明ける」、古文では「明く」です。
明けず、明けて…ですから未然形か連用形。
未然形なら終助詞の「なむ」、だとすると、「明けてほしい」
連用形なら、完了の「ぬ」で「む」がついている感じです。そうなると強意+推量。「夜が明けてしまおうとする」とか「まさに夜が明けようとする」雰囲気です。
ここの場合「~よう」と訳しても、意志というのは変ですね。夜ですから。なので、推量でいいと思います。もちろん、意味的に他者願望の終助詞じゃなくて、こっちでしょう。
書きつく
「書き」と切ってもいいし、「書きつく」と一語でとらえてもいいです。
現代語でピンとこない場合は、現代語と形が違うから。
ということは二段動詞で「る」がついているイメージ。
というわけで「書きつく・る」。
わかりましたか?「書きつける」ですね。
越えなむ
もう何回もやってきたので、慣れてしまいましたか?慣れてきているとうれしいです。
動詞は「越える」。古文では「越ゆ」です。ア行に活用するのは「得」だけですから、他の「える」の動詞は「~ゆ」に変えます。
「おぼえる」→「おぼゆ」
「きえる」→「きゆ」
「もえる」→「もゆ」
という感じ。
越えず、越えて…ですから、未然形か連用形。
となると、未然形なら他者願望の「なむ」。
連用形なら、やっぱり「ぬ」+「む」ですね。
「てしまう」に「~よう」か「だろう」です。
意味からすれば、やっぱり後者で、確述用法。
明くれば
動詞の感覚があれば「明ける」ですが、わからないとするなら、「ば」を見つけて、未然+ば、已然+ば、を考えます。
もちろん、「れ」ですから已然。
そうすると二段活用、「明く」です。終止形に「る」をつけ直して連体形、「れ」をつけて已然形なので。
「明ける」が頭に浮かべば、古文は「る」をとってuで、「明く」はすぐわかります。
というわけで、「夜が明けたので」ですね。
越えにけり
動詞は現代語で「越える」です。
越えず、越えて…で未然か連用。
未然形接続にそれらしいものはなく、連用形で「ぬ」ですね。
完了で「てしまう」。
残りは「けり」で過去。
越えてしまった、です。
3 読解のテクニックを使って、わからないところを確定させる
それでは読解に入っていきましょう。主客の特定、会話文の特定などが中心になりますので、そのあたりを考えていくことになります。では、もう一度本文をあげて、着目しないといけないところにチェックしてみました。
主客の特定、逆接をヒントに、心情語を参考に
ここで行っていく作業のメインは主客の特定です。また、わからないところがあった場合、逆接によって片方がわかればその逆を推測する、あるいは心情語を見つけることによって何があったかを推測するというようなことです。
そして、そもそも、ですが、物語である以上、人物の関係や場所などに意識を置く必要があるでしょう。そのあたりを考えながら実践してみたいと思います。
さて、最初の部分です。
男が狩の使いに行った、というあたりは大丈夫でしょう。
そうすると「伊勢の斎宮である人の親」が、「常の使いよりは、この人よくいたはれ」と言うわけです。だからこそ、言われた人は「いとねむごろにいたはりけり」となるわけです。
改めて書くまでもないですが、「いひやれりければ」と「言ったので」というように、「客体がある語+ば」なので、次の主語は客体、つまり言われた人です。で、それは「伊勢の斎宮である人の親」が言う相手として、そして、「親のこと(=言)なりければ」、つまり「親の言葉であるので」ということからしても、娘であることがわかります。
えっ、なんで息子じゃなくて娘かって?それは「伊勢の斎宮」とあるからです。たぶん、注がつくところだと思うので大丈夫ですが、できればこういうのも知って、知識としてほしいところです。斎宮というのは、簡単に言うと、神様と結婚させられる女の人です。させられる、というのは失礼ですね。神様のお嫁さんですから、とても名誉なことで、すばらしいことです。でも、当たり前ですが、本当にある役職ですから、誰とも恋愛せず、結婚せず、神様に身をささげて一人で生きるわけですね。
そんな女性のもとに、イケメンの業平がやってきて、お父様が「よくいたわれ」なんておっしゃるわけです。
最後の部分は「かくてねむごろにいたつきけり」です。「こうしてねむごりにいたついた」という感じ。「いたつく」は「労つく」で、労力をかけるというか世話をする感じです。それがわからなくても「こうして…」という部分から、「いたわれ」というからいたわりました…みたいな部分は感じとれると思います。
となると、その間は、「いたわっている様子」になりますよね?
お父さんが「いたわれ」と言った。
だから「ねむごろにいたわった。」
朝には…夕には…
かくてねむごろにいたつきけり。
ですから、その様子です。
となると、朝は狩に行くのにせっせと送り出してやり、夕方は迎えました…みたいな感じのはず。
「そこに来させけり」が今ひとつわからないけれど、この文脈の中にいれると、来させた…ですから、自分の近くに…ぐらいだろうと思います。「そこ」は「近く」なんですね。まあ、結構自信があるようにも読めちゃいますけど、女の人からすると、近くで一緒にいることを許してあげる、まあ、世話をしてあげるという感じです。
「あはむ」とか「あはじ」という言葉がありますから、会う、会わないの話をしていることがわかりますね。
最後の方に、「男、うれしくて」とありますから、最初の「あはむ」から、その思いが成就したことがわかります。
「いとあはじとも思へらず」がまどろっこしくて、よくわからなくなる人もいるかもしれません。
でも、直後に「されど人目しげければえ逢はず」とありますから、その前は「会いたい」。会いたいけれど会えない、ですね。その前も「女も」と「も」がありますから、男と同じはず。
つまり、両思いです。でも会えない。人目があるからですね。
でも、ラストでは、会えてうれしい、となるはず。
それを踏まえて間を埋めていくと、
女が男のもとへ来た…ということがはっきりします。
となると、次がよくわからない。
男が寝られなくて、外の方を見ていると、月がおぼろで、小さい子どもを先に立てて人が立った。
で、男がうれしくなる。
そうです。誰か知らない人が立ってうれしくなるわけはないから、これは女のはず。だから、ちょっと時間を遡ったんですね。
一方、そんなことを知らない男は、そのころ…
というような感じ。
じゃあ、その前の「女のねや近くありければ」です。
「ねや」は「寝屋」です。となると、主語は男の方がいい。男のいる所、男の部屋は、女の部屋に近かったから…という感じ。
なんでこれが理由になるかは、考えてみましょう。会えない理由は…?そうです。「人目しげければ」ですね。
じゃあ、会うためには人目がなければいい。つまり、部屋が近ければ、間に余計な人がいないから、ばれにくい。という感じで二人は会います。
「何事も語らはぬに」とあります。
「語らふ」というのは、ちょっと意味深な単語です。親密に話すことなんですが、ざっくり言ってしまえば、Hをするというか、恋人同士が寄り添って話すようなイメージの単語なんですね。だから、まだ深い関係になる前に女は帰ってしまった…。だから男は悲しい…とつながっていきます。「かなし」は悲しいと同時に「愛しい」。ここはどっちでとるか迷う、というか、両方まじった感じがたぶん正しいと思います。そもそもこういう時に使う言葉を「かなし」というわけだから、この「かなし」は愛しくて悲しい感情なんだと思います。
マニアックな話をすると、斎宮は神様の妻ですから、そんな人が男と深い関係になるというわけにはいきませんよね。
だから「何事も語らはぬ」、つまり「まだ何にもしてないのに…」といくわけですが、「そんなことあるわけないだろ!」とつっこみたくなってしまうのは私が歪んでいるからでしょうか。
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