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35 四婆(よんばば)が切り盛りする松戸の伝説

 かつて、松戸の路地裏に伝説の名店があった。
 その名も「開進」。開くに進むと書いて「かいしん」と読む。
 古びたもつ焼き専門店で、店は狭く8坪もなかったと思う。

 昭島の家を処分して、再び松戸の実家で暮らすようになった頃、ぼくはもつ焼きのうまさに開眼して、あちこちの店を訪ねては食べ歩き、飲み歩きをするようになった。上野の「大統領」、亀有の「江戸っ子」、綾瀬の「大松」、町屋の「小林」、金町の「ブウちゃん」、立石の「宇ち多"」……。ガイドブックに載るような店もあれば、そうでない店もある。どこの店にも個性があって楽しかった。
 ひと通り訪ねてみて、もっとも自分の肌に合ったのが「江戸っ子」だった。何しろ居心地がいい。いちばん行った回数が多いのはここだ。いまでも月に1、2回は顔を出す。
 でも、どうしても忘れられないのは、やっぱり「開進」だ。数年前に店は無くなってしまったけど、叶うならもう一度行きたい。

 開進はガイドブックに載るような店ではないので、もつ焼き屋の名店巡りをしていても、知らない人は辿り着けない。ぼくは、たまたま松戸の駅前周辺をうろついていて、偶然この店を見つけた。
 薄暗がりにぼうっと光るでかい看板。そこに浮かぶ「開」と「進」の二文字。左側には赤提灯とジュースの自販機。右側は道路に面して焼き台がしつらえてあり、焼き担当がせっせともつ串を焼いている。焼き台と自販機の間が入り口で、紺色の暖簾がかかっている。
 店内に入ると右の壁に沿ってテーブル席が3つほどあり、左側はカウンター。一人客のぼくは当然カウンターに座る。
「何にしましょう?」
 カウンターのそばにいるお婆さん──こういう飲み屋の場合は、どれだけ高齢の女性であっても「おねえさん」と呼ぶべきであるのはわかっているが、お婆さんとしか言いようのない女性が飲み物とつまみを聞いてくる。ぼくはメニューにさっと目を通し、「ホッピーの白と、もつ焼きは……ガツ生とコブクロちょうだい」と注文。すると、お婆さんはその注文をフロアの奥の厨房へ大声で伝達する。
 ここで、この店の構成要員を説明しよう。
 まず、カウンターを担当するお婆さんがババA、テーブル席を担当するのがババB、道路に面した焼き台でもつを焼いているのがババCで、フロアの奥に控えて冷蔵庫から串に刺したもつなどを出してくるのを担当しているのがババD。
 つまり、この店は四人の婆さんによって運営されているのである。
 そう聞くと、もつの鮮度は低くて、接客も雑で、超ダメな店っぽく感じられるかもしれないけれど、そんなことはないんだ。ここのコブクロはすんげーうまかった。豚の脂身を串に刺したアブラ生をニンニク醤油で食うのは、まるで天国のような味わいだった。宇ち多"にも、江戸っ子にも負けていない。こんな名店が松戸の路地裏に? なぜある?

 もつ焼きは絶品だったけど、この店にも欠点はあって、焼酎がひどかった。金宮? そんなわきゃない。ホッピーを頼むと、ジョッキに入った氷とホッピーのソト。さらにおかわり用の氷のポット。で、焼酎は一升瓶でドンと出てくる。でも、どこの何っていう焼酎かよくわからない。
 まあ、こっちはとりあえず酔えりゃいいからドボドボ注いで飲みますわな。それで数分後には気を失う。
 当時は、ぼくが松戸で飲んでいて遅くなると、妻がクルマで迎えにきてくれたので、松戸駅周辺で飲むことが多かった。だいたいは記憶がはっきりしてるんだけど、開進で飲んだときだけは記憶が曖昧で、目が覚めたら翌日の朝ってことがよくあった。妻が運転してきたクルマに乗った記憶も、家で降りた記憶もない。布団に入った記憶もない。
 そんなひどい店だけど、数日するとまた行きたくなっちゃう。四婆の魔法にかかってる。

 残念ながら、開進は数年前になくなってしまった。四人の婆さんで運営されていたので、だれか重要なキーパーソンが亡くなったのかもしれない。そもそも年金暮らしの四人だろうから、だれか一人が亡くなったらやめるつもりでいたのかもしれないね。
 いまは跡地に普通の居酒屋が入っている。開進の残り香を嗅ぐために、そのうち行ってみようかな。

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