よっしー

元エホバの証人二世。虐待サバイバーだったり現行で鬱病もちだったりしますが 今は心穏やか…

よっしー

元エホバの証人二世。虐待サバイバーだったり現行で鬱病もちだったりしますが 今は心穏やかに暮らしています。 長い間に自分を見つめ直したり、日々の嬉しかったことなどを綴っていくつもりです。元JWの方々にも読んでいただけますように

最近の記事

「バジュランギおじさんと、小さな迷子」を宗教二世が観て思うこと

ずっとどんな風に書こうか考えて悩んでましたが、 インド・パキスタン分離独立後2015年の映画「バジュランギおじさんと小さな迷子」について書こうと思いまして。 パキスタンの美しい山奥で小さな村に住む発語が遅い6歳のシャヒーダーはある事故にあってから「このままではいけない」と「インドにある奇跡のお堂」にお母さんと行くことになります。そこに行けば言葉が話せるようになることを願って2人は国境を超えるインド行きの列車に乗ります、しかしちょっとした事でシャヒーダーはお母さんと離れ離れの

    • 2人で泣いた夜

      エホバの証人のニュースが連日流れていますね。元二世の方は心穏やかでいらっしゃるでしょうか? 私はそうとも言えません。なぜならこんな酷い組織にいたなんてという意見、過去のトラウマが掘り起こされる苦しみがあるから フォーカスされている「鞭と輸血」のほかにも沢山もんだいはあったのです 中でも辛かったのは会衆内でも教育格差があったこと、普通よりヒステリー気質の母の事でした。 輸血は身近なものではありませんでしたが拒否カードは毎年更新させられていましたし、鞭ももちろんありました。普通

      • 私は少し違うのかな

        クリスマスになると見ていた子供番組から「プレゼントも貰えずに泣いてるかわいそうな子のためにサンタのおじさんにお願いしよう」というような歌が流れていました。 それを聞いて幼い私は「自分はどうやら大勢の人と違うところに居るらしい」ということだけは理解したような気がします。 でも、だって不幸とは認めたくなかった。王国会館にいけば「クリスマスや誕生日よりなんでもない日に貰う誕生日の方が幸せだから」と冊子に書いてあったから。 だけど、皆が何を貰ったか話し合ってる時、何も言えなかった

        • 君はよその子

          君はよその子 どこにいても 君はよその子 誰といても あんなに仲良く遊んだ後 帰る友達の 背中を見てる 谷山浩子さんの「よその子」という曲にこんな歌詞があります。 こんな寂しさや強烈な見放された孤独を誰しもが思春期には感じるものだ、とどこかで読んだこともあります。しかしあなたにとっては物心ついた時から成人後まで「誰といても」ひとりきりでした。 幼稚園で学校でまたはバイト先で「友達」を見つけてもお母さんと帰る背中を1人で見つめ、帰るのは今だって夢に魘されるほど酷い「家」でし

        「バジュランギおじさんと、小さな迷子」を宗教二世が観て思うこと