可能世界と言語

様相とは、「可能」・「必然」・「偶然」など、文法でいうところの「法」に関わる。
たとえば、「地球は三つの太陽の周りを回っている。」というのは単純に偽なる命題だが、この命題に様相をつけ加えて、「地球が三つの太陽の周りを回っていることも可能だ。」の真偽は果たしてどうか。先ほどと異なり、即座に偽と判定するには、事情は込み入っているだろう。この違いは様相によってつけ加わった。

「ペンギンが海を泳いだ。ならば、ペンギンが海を泳ぐことは可能なことだ。」

この命題の「ならば」は、現実から可能を導出している。その導出にはペンギンに関する動物行動学や解剖学などの知識は必要としない。つまり、様相には、生物学のような経験的な学問が知らせてくれる知識とは無関係になりたつ論理が働いているということだ。知識と無関係とはどういうことなのかは、さらに次の命題をみるとはっきりするだろう。

「もしも、ペンギンが空を飛ぶことがありうるならば、ペンギンが空を飛ぶことが可能だということがありうる。」

こんどの命題は、可能から可能を導出している。われわれは、ペンギンが現実に空を飛ぶのかどうかというペンギンの生態について知識が皆無でも、この命題の「ならば」が前件から後件を導いていると読む。それは、この命題に表現された様相に纏わる論理を読んだことに他ならない。

さて、われわれの問いは次のものであった。
われわれが様相を考えるときに使う思考の型や概念は、われわれにとって必然的であるのかどうか。

もちろん、デカルトは「2+3=5」のような数学的命題にかかわる懐疑をなしたのだから、われわれの思考の型は可能的でしかないと言われるかもしれない。

しかし、問われてことの事情は少し違う。そのような「必然性」などに纏わる思考の型や概念が、「われわれにとって」他でありえたかということが大事なのだ。(「とって」があるからといって、相対主義を考えたいのではないことも注意されたい。)つまり、数学の例を続けるならば、われわれにとって「2+3=5」が可能なのかどうかということになる。デカルトは可能だと言ったと思われるかもしれないので、少しだけテカルト読解に寄り道をしておこう。

デカルトのその『省察』第三省察において、つぎのように書いていた。

「たとえば二と三とを足しあわせると五であるということとか、これに類するもののごとき……を私が考察していたとき、……それらが真であることを私が肯定するというためには十分なほど分明に、私は凝視えていたのではないか。なるほど私はそれらについて疑わなければならないとその後判断したが、その原因はと言えば、他でもないが、もしかすると何らかの神が、いとも明瞭であるように思われるものに関してさえ欺かれるような、そのような本性を私に植え込むこともできたであろう、と思い込んだからなのである。」

ここに書かれている「本性」とは何かといえば、もちろん「人間本性」に他ならない。神を他の本性を私に植え込むということは、私を狸とか狢とかといった「動物本性」を持つものに造りかえたということに他ならない。デカルト哲学においては、動物とは精神を持たないものの代名詞であるから、第三省察のこの箇所は、私が人間の言語を解さない動物になったときを考えているとも読解できる。そのとき、「2+3=5」はもう必然的な真理ではない。

たしかに、われわれが読むデカルトはわれわれと主張の点では一致している。しかし、この議論は些か強すぎて、われわれの考えたいことが迂回されてしまう。そこでもう少しゆっくりと問いを立てて進もう。果たしてわれわれは、われわれに思考し得ないことを語り得るのかと。(つづく)

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