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予告編妄想かわら版『糸』&『街の上で』(『週刊ポスト』4月20日&27日発売号掲載予定だった原稿)

中島みゆきの名曲から生まれた映画『糸』(4月24日)。北海道に住む中学生の蓮と葵。平成13年、「中学出たら働く」と眼帯をしている葵が告げると、「俺が葵ちゃんを守る」と蓮が言って二人は家出をします。しかし、その逃避行は大人たちに見つかり二人は離れ離れに。その8年後、青年になった蓮(菅田将暉)は食品工場のような場所で働き、同僚女性(榮倉奈々)と親しい関係に。同じ頃、東京ではパーティーにドレスアップし男性陣に歓喜の声で迎えられる葵(小松菜奈)の姿を予告編で見ることができます。
 ここからは妄想です。予告編ではその後の蓮と葵それぞれの人間関係と、二人が再び出会うまでの姿も見ることができます。
「平成」という時代は構造改革の失敗、自己責任論による優劣と格差の広がり、東日本大震災(自然災害と原発事故という人災)によって「失われた30年」と呼ばれる時代になってしまいました。そして、誰も責任を取らなくなって、それが現在も続いています。平成元年に生まれた男女を描くということはその時代を描こうという強い意思があるはずです。『糸』は誰もが知る名曲ですが、この曲ぐらいまでが老若男女が知っているというギリギリのものかもしれません。失ったものを嘆くのではなく、その「糸」で希望を紡げる作品であってほしいです。


 年々注目度が上がり、公開作品も増えている今泉力哉監督が、『愛がなんだ』でも印象を残した若葉竜也を主演に迎えた『街の上で』(5月1日)。古着屋で働く男(若葉)と、恋人(穂志もえか)との関係だけではなく、古本屋店員(古川琴音)や映画監督の女性(萩原みのり)、衣装スタッフの女性(中田青渚)たちとの交流を下北沢を舞台に描いた作品のようです。
「街もすごくないですか。変わってもなくなっても、あったってことは事実だから」と喫茶店のマスターに向かって話している男の姿も予告編で見ることができます。
 ここからは妄想です。新世代の恋愛映画の旗手と呼ばれる今泉作品で注目したいのはやはり女優さんです。予告編を見るだけでも、各ヒロインたちには個性が感じられ、彼女たちと主人公の距離感が変わっていくのか注目したいです。また、前述した台詞における「街」を「関係性」に置き換えて考えてみることもできそうです。この映画は「下北沢」という街に居たからこそ始まった、終わっていく関係性を描いた作品なのでしょう。タイトル『街の上で』というのは、それが確かにそこにはあったという意味かもしれません。この映画を観ると、世代を問わず、たわいのない会話と文化を楽しんでいる空気を感じに下北沢に行きたくなりそうですね。


『週刊ポスト』5/1号(4月20日発売)と5/8&15号(4月27日発売)に掲載予定だった連載「予告編妄想かわら版」で取り上げる予定だった瀬々敬久監督『糸』と今泉力哉監督『街の上で』の原稿です。
コロナの余波で新作映画が公開が延期されており、また劇場も営業休止になっているため、連載はしばらく休載になっています。取り上げた二作品も公開延期になっています。映画館で観たいと思っていた作品なので、これらも含めて新作を映画館でまた観ることができるように生き延びたいです。

トップ画は4月15日で仕事で渋谷に行かないといけない時に撮ったスクランブル交差点の写真です。
スクランブル交差点から見える看板が『SLAM DUNK』と『FINAL FANTASY』というのが、どこからこの国が停滞してるのか表してるみたいで皮肉に見えました。


映画業界だけではなく、いろんな業界が悲鳴を上げている。日本に住む人に一律給付を求めるのはそのためで、こういう時に国籍がとか言ってるのは論外で、いろんな職場にいろんな国から来て働いている人がいる。すべての人が生き延びる方法を取らないといけない。
社会というものは複雑で多層になっているから、そこで区別をすると確実に崩壊する。世帯主にというのはその問題で、家父長制という古き悪き日本の家族形態などもはや害悪でしかない。世帯主である父に家族分のすべてが入ればDVを受けている妻や虐待を受けている子供はその金を受け取れない、あるいはその金を彼にもらうという状況になってしまう。違う、それぞれの人が生き残るために必要な給付だから、世帯主とかにしてはダメだ、そのせいでもっと苦しむ人がいる。
安倍政権や自民党はわかっていてやっていると思う。だからこそ、現在の状況を否定し声に出し続けないといけない。

ほんとうに戦後以降に変えるべきは「個人」の尊厳と自由を認めることだったと思う。集団の論理や同調圧力や空気を読むというのは「個人」を蔑ろにしてきた結果だ。日本らしさであり、それが戦後の経済成長にはよかったかもしれないが、二十一世紀もすでに五分の一が終わった。
昭和の価値観を引きずってアップデートしなかったツケが全部ウミのように出てきている。ウミはまず火炎放射器かなにかで焼き尽くさないといけない。未来を生きるためには必要だ。そして、燃やしてはいけないのは書類だ、紙だ。証拠は残さなければならない。
歴史はいとも簡単に改変される。時の権力者は自分に都合のいいことしか残さない、邪魔なものは破棄するのはいつの世にも起きている。だからこそ、それをしない政権は信用はできないのは当たり前のことだ。

コロナという見えないものによって炙り出されているのは、僕ら、いや、僕らというのは違う、みんなのそれぞれの生きづらさを作ってきたものだ。冷笑して馬鹿にしてきたものが気がついたら化物になっていたり、実はほんとうに大事な意見だったことがわかるようになってきた。

政治に関心があってもなくてもみんな生きているだけで政治的な生き物だ。意見は同じにはならない、だが、話し合うことも立場が違っても認めることもできるはずだ。だからこそ、共通言語としての教育や考えも必要になる。書物を廃棄して未来の担い手の子供の教育を疎かにしてきたのは誰だったか、この数年での出来事を思い出せばいい。

コロナ禍が過ぎ去ったあとには死屍累々の世界になる。それでも前時代的なものにしがみつく人と、そうではない人がやりあうだろう。新自由主義者は自己責任論とマッチする。勝ち組になりたい人はそれを擁護する。そこでも意見の違いがもっと出てくるだろう。その時に「個人」を尊重できるかどうかでほんとうの地獄かあかるい社会の始まりがやってくるような気がする。

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