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『あいが、そいで、こい』試写&個展『think I breath』

あまりにも声がでないので起きてすぐに病院に行って、処方箋もらって薬を。昼前まで再眠してから歩いて映画美学校に。柴田啓佑監督の新作『あいが、そいで、こい』試写に。

柴田監督とは『水道橋博士のメルマ旬報』チームでもある映画活動家の松崎まことさん繋がりで知り合いだったり、最近家が近所になったので、たまたま歩いている時にお会いして試写状をいただいていた。試写室はほぼ満席だった。『パーフェクト・レボリューション』の松本准平監督も観に来てたので、お久しぶりですとご挨拶。小雨も降っていたのに、これだけ試写に人が来てるのすごい。

で、本題の感想に入りたいのだけど、僕が観終わって感じたことはネタバレとまでもいかなくてもけっこう話の根幹部分に関わるので、後述します。とりあえず、公開が6月22日からK's cinemaなので、これからの夏のシーズン前にはかなり合うと思うし、爽やかな炭酸水のような青春映画になっています。その部分について思ったことがネタバレというか諸々含まれるので、一旦置きます。


先に試写を観終わってから、そのあとに観に行った写真家・岩渕一輝個展『think I breath』から書きます。

映画美学校を出て歩いて、キャットストリート近くの地下アートギャラリー「CLASS」へ。裏原なのか、まったくこの辺りにこないからわからないが、観光客も含めて若い人たちがたくさんいた。あと美学校から歩いても20分もかからない。

僕が行った時にはちょうど一人帰って、もう一人の男性がいるぐらいで、岩渕くんが在廊していたので、久しぶりに会ったので話しながら観覧。画像の明かりがついている所には写真が映写されている。

小さな写真はあまり変化のないものや距離感が遠いもの、正面の大きな写真はどちらかというと岩渕くんのピント、心が動かされたものについて撮影されたもの、と言う風に大小様々な視点や角度、見ようとしたものと意図的には見ようとしていないもの、を空間芸術の範疇だったり意識して展示されていた。光と闇、そして写真のネガっていうのか一枚ずつ「ガチャン」と音がして一定時間になると映写されるものが変わっていく際に鳴る音、その耐えまく一定のリズムを刻む機材がどこか生き物ように光と闇を写している。

もうひとりのお客さんは彼がバイトをしていたタイ料理屋の店長さんということもあり、三人でイスに座ったり、床に座ったりしながら、変わりゆく写真を見ながら話をした。岩渕くんは口で説明するのは野暮だとわかっているのだが、僕にどういう意図を持ってこの展示をしたのか説明してくれた。大学を卒業してからの一年を生きてきたことをこの一室の空間に展開している、という感覚。これをすることで頭の中の整理はできて、次に向かうための構想なんかはできるようだった。

写真だけではなく、空間や音、光や闇をどう構成して今の瞬間を表現するのか。違う空間を演出し、そして元の空間に戻すということに興味はあるみたいだから、写真だけではなく、異なる表現もやっていくんじゃないかなって思う。

『STUDY 5』に写真家・岩渕一輝×俳優・藤江琢磨のポートレート。興味ある方は、ABCとかにありますよ。


そして、『あいが、そいで、こい』の話を。ある程度、話の根幹部分とかに関わることを書くので、ここからは劇場で観ようと思う人は読まないほうがいいです。

本編には全然関係ないことだが、亮役の高橋さんは予告編見た時はまったく思わなかったんだけど、冒頭からこの声誰に似てるんだっけ?と思い始めて、すぐに「ああ、キンコンの西野さんだ」と思った。顔も似ている。

声が似ていれば顔は似ている。骨格がスピーカーだと考えれば、顔が似ていれば声は近くなると自分では勝手に思っている。なんか、そういう研究とかありそう、調べていないのでわからないけど。

あと、似てると思える理由のひとつは舞台が、和歌山県の田辺市でロケをしているので、大きな地域としての関西地区ということもあり、言葉のニュアンスや言い方、声の出し方なども関西弁寄りになるので、兵庫出身の西野さんとやはり似る。出演者のみんな関西出身ということもないだろうから、方言や片言の日本語を自分のものにしてきちんと 台詞を言っているのだなと感じた。

西野さんと似ているというのは、使いようによっては宣伝に絡められるのだが、それはいろんな所に迷惑やめんどくさいことが起こりそうなのでやめといたほうがいいのだろう。なんの話だ、これ。

『カメラを止めるな!』を産み出したシネマプロジェクトの第8弾作品!
柴田啓佑監督初長編映画、主演小川あんとワークショップオーディションキャストによる真夏の青春映画!
21世紀になって初めての夏―ノストラダムスの予言は外れ、世界は続き、テクロノジーは進化した。でも、僕らはただの高校生だった。
2001年の夏、海辺の田舎町に住む高校生・萩尾亮は、同級生の学、小杉、堀田と共に高校最後の夏休みを過ごすことになった。ある日、イルカの調教師を夢見て台湾からやってきた留学生・王佳鈴(ワンジャーリン)と出逢う。イルカや海を嫌う亮はリンと対立するが、彼女の来日した本当の想いを知ったことをきっかけに心を通わせることとなる…。(K's cinemaより)

個人的な感想で言うと、2001年に高校三年生だった亮たち主人公は、81年度になる僕とはほぼ同世代、僕が三年の時に一年だった学年だろう。バスケ部だった亮の家にあるものは馴染み深いものばかりだった。

『スラムダンク』はもちろん『ハーレムビート』は読んでいたし、僕がバスケをやるきっかけは浅田弘幸さんの『I'll』だったが、そう考えると『ハーレムビート』は渋谷、『スラムダンク』は湘南、『I'll』は国府津が舞台であり、バスケ漫画というものは90年代終わりからゼロ年代初頭にかけてはオシャレだとされていた、田舎の高校生が憧れる場所(関東の東京や神奈川)が舞台だった。そういう意味では当時はまだリーマン・ショック前で上京願望は残っていた。

2001年放映の『木更津キャッツアイ』はその後のゼロ年代を予見するように、地元から出ないという若者を描くことになった。マイルドヤンキーなどの言葉が作られていく。両親世代が不景気もあり、ゼロ年代以降は大学生への仕送りは今現在までずっと下がり続けているのが現状であり、都会に出て一人暮らしするよりは、地元のいい大学に入る人が増えた。金銭的な問題と地元的なものを大事にするというどちらも作用していたと思う。

部屋に貼られていたポスターはおそらく、ペニー(アンファニー)・ハーダウェイだろう。「バスケの神様」ことマイケル・ジョーダン、スコッティ・ピペン、デニス・ロッドマンという最強のトリオが三年連続の優勝(スリーピート)をシカゴブルズにもたらした。黄金時代が1998年のシーズンまで続く。

ペニーはシャキール・オニール共にオーランド・マジックでプレーしたが、優勝はできなかった。ペニーのバッシュは日本でもけっこう売れた。僕も履いていた。ブルズの黄金の時代が終わるその時にルーキーとしてNBAに現れたのがコービー・ブライアントだった。いまだに名作としていろんな世代に知られている『スラムダンク』だが、当時の学生だった人間からすると桜木花道はもろにデニス・ロッドマンまんまだったが、今やデニス・ロッドマンと言ってもなぜか北朝鮮の最高指導者と会うことができる稀なアメリカ人ぐらいにしか思われていないだろう。

と物語に関係ないバスケの話をしたけど、この青春映画は予告編ではわからなかったことが冒頭からいきなり観客に提示される。



元号が変わるので手帳には西暦だけを、元号は印字しないという会議がされている現在の舞台から始まる。

亮が東京に出てきていることはさきほど書いたようなことがあり、リアリティはある。大学から関東だったのかはわからないが、地元を離れている。映画自体は2001年のノストラダムスの預言が外れた世界がメインだが、その青春時代が過ぎ去った現在の亮から物語は始まる。そして、思い出の過去の青春群像が開始される。

青春とは通り過ぎた人には甘美なものだ。当事者にとってはまだ第三者的な視線では見ることはできない。その美しさも残酷さも青春時代には、ただ目の前にあり共にあるものでしかない。だから、その時代を生き延びた人たちは青春を描く。もう、体験することはできなし、取り戻すこともできないから。

2019年ぐらいの現在の亮がいるのは構造としてはすごくわかる。時折、現在のシーンが挿入されるのだが、たぶん、シナリオに書いてあったり撮影されているであろう箇所がどうもカットされている感じが否めない。

東京で働いている亮が地元に帰る理由ってなに? 法事なのか同級生にただ呼ばれたからなのか? 後半で居酒屋で旧友たちと話しているシーンがあって、そこで水族館に行く話になるということは、例のことを知らないわけだから、じゃあ、なんで帰ってきたんだろう?

あと、旧友たちの現在は身体性の変化や台詞で多少説明されているが、亮の現在がいまいちわからない。結婚しているのか離婚しているのか、子供がいるのかいないのか、東京に来てから彼女がいたのかどうか、台詞でいいから現在がわかる部分がないと最後の部分においてどう捉えていいのか正直わからない。

高校三年の時に出会った女の子が10年以上経ってもずっと好きだったり、気になったりしている人はいるだろう。今だったらSNSで検索したりもするだろう。しかし、それを純愛だと思えるのか気持ち悪いと思うのかは個人次第。

亮は社会人になったけど、大人にはなれていないという風に僕には思えてしまった。彼は海辺が近い場所で生まれ育っているが、ある欠点がある。リンとは最初はケンカというか言い争ったりしているが、そのことがきっかけにもなり、一緒に練習することで美しいシーンに繋がっていく。

人は生まれるまでは胎内にいる。胎水に浮かんでいる。そして、産み落とされて母と引き離されて、怒りを世界にぶちまけるように泣き叫ぶ。この物語ではイルカが重要な存在として出てくる。イルカも人と同じく哺乳類だ。

亮とリンとイルカはいけすのような区切られた空間の中を一緒に泳ぐ。それはとても印象的でこの映画の見所でもある。イルカはそのいけすのような網の外には出ていくことができない。このいけすの領域はまるでリンの胎内のような空間で、その中でしか亮は泳ぐことができない。と見ると宇野常寛さんの『母性のディストピア』が思い浮かんだ。

宇野 実際問題、この本のタイトルになっている「母性のディストピア』とはいうメカニズムは宮崎駿、富野由悠季、押井守と言った戦後のアニメ作家だけじゃなくても明治、大正の文学者まで遡れば近代的な市民、「父」になれないという自意識を抱えた男性の依存先として母のような妻、母として機能する妻としての女性性みたいなものというのが昔から必要とされてきた。
彼らの自分たちはほんとうの「父」になれない、だからお母さんのスカートの中でだけ「父」になった気分を味わいたい、という欲望と、そんな男たちを「自分の胎内から出て行かないで」と所有する、そうすることで自分の箱庭を守りたいという「母」的な欲望との結託がこの本で僕が主張している『母性のディストピア』で、それを最も体現しているのは当然、その高橋留美子なんだよね。

これは、『めぞん一刻』最終回における五代くんが結婚し子供もできたのに結局、響子さんの胎内のような一刻館に帰ってきてしまったり、ラムちゃんが同じ日がずっと続けばいいのにと繰り返されるビューティフルドリーマーな友引町みたいな外部のない世界とか、宮崎駿作品における『紅の豚』は呪いにかかっているので主人公は飛べるが、それ以外の作品では主人公の男の子はヒロインの女の子と一緒でなければ飛ぶことができない(飛んでいるのはその母胎の中であり、少年は少女に守られる)ことなど、成熟を先延ばしにするという戦後日本社会における「本音」と「建前」の「本音」を描き続けてきたのが、高橋留美子であり、コインの裏表として「建前」だとしても「成熟」するという物語を描き続けているのがあだち充であるという話にもつながる。


僕が『PLANETS』で連載している「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」であだち充論を書いているのは、『母性のディストピア』の反対側を書くという意味合いもある。ということもあり、現在の亮のバックグラウンドがもう少しわからないと、リンというかつての青春時代の思い出の中で生きているような人にしか見えてこない。

110分とかの尺だったら、正直120分になろうがあまり変わらないのでもう少し現在パートを増やした方がいいような気がした。映像や役者それぞれのよさという流れもあるし、説明しないほうがいいというのもわからなくはない。でも、それだったらご都合主義に見えるリンがあの場所に来たイルカ以外の理由とか、正直違う理由や経過にしてカットしちゃっても問題ないように思える。


自分の同じ名前でもある学は「お天道様が見てる」という教えを守っていて、赤信号では車がたとえ来ていなくても渡らないというシーンでは、気にしないで渡っていく亮たちとの対比、一本の道路を挟んだ此岸と彼岸のような映像はすごくいいシーンだった。きちんと未来を予見している。

基本的には善人しかいないので、幼馴染の女の子はヤキモチは焼くけど、亮のいい理解者として振る舞う。そういう意味でも爽やかな炭酸水のような青春映画になっていた。もうちょっとフレバーを足して味付けしても魅力は損なわれないと思う。


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