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インサイド・ヘッドを見る夜

極度の凝り性にとって、一度衝撃を受けた映画、キャラクターが可愛すぎたり好みのデッサンだったり、または心に響く名言があったりするとなんどもなんども見返すものだ。

新しい映画はあまり知らないのに妙にこの映画のことはセリフまで覚えていることが多いのもこの凝り性のおかげだ。

でも凝り性の映画の見返し癖でいいところは見るたびに違うことを発見できたり、違う重さや意味で自分に響いたり。同じ映画でも見るたびに違う観点から観れていることを自分の成長と繋げるという小さい自信の積み重ねなのかもしれない。

PIXAR のインサイド・ヘッド(Inside Out) は色々な環境の変化の中で一人の少女ライリーと、彼女の頭の中にいる5つの感情たち、喜び、悲しみ、怒り、恐れ、不快がともに成長する話だ。

この映画と自分を重ねてしまう理由;

1.ライリーの環境の変化が自分と偶然にも似ている。
(私はサンフラシスコ→ミネソタ→日本だが、主人公ライリーはミネソタ→サンフラシスコ)

2.泣くことを見せず、悲しかったり辛かったりしても他の感情で補ってしまおうとするライリー(喜びの感情)に共感する。

これは図星中の図星だ。初めて見たのが飛行機の中という、まさに引越しとか移転とかそういう環境の変化に伴う代表的な乗り物の中だったからかもしれない。環境の変化、自分という人間の変化が多かった23年間だったからかもしれない。でもPixar映画の中では一番心に響いたアニメーション映画だ。

特に子供向けのものが「大人が見るからこそ」感動するなんてよく聞くけどそんな感情が生まれるようになったのも、なっちゃんオレンジジュースが好きだった私が今ではウィスキーをロックで飲むのが至極の喜びみたいな、そんな「大人の階段」の一部なのかもしれない。

インサイド・ヘッドでは喜びの感情が常に悲しみの感情を主人公ライリーから遠下げて「悲しみを感じないことが彼女を守ることだ」みたいなことに生きがいを持って11歳のライリーとともに歩んできた。

けれども彼女の家族の引越しや新しい学校での不安など、様々な感情が渦巻き、悲しみや寂しさといった感情が確かにそこにあるのにそれを表に出さまいと他の感情で隠し続ける。  

そのうち、喜びと悲しみの感情が彼女の中の「感情管理施設」から離れてしまい、残った不快、怒り、恐怖の三つの感情が主な感情たちとなってしまう。

喜びと悲しみの感情がともに彼女の頭の中の世界を旅するうちに喜びは少しずつ悲しみは必ずしも負の感情ではなく、むしろ悲しみがあるからこそ喜びがあることに気づき始める。
そして最後には悲しみの感情がほんの少しの間、彼女の主要の感情となった時、ライリーは今まで見せまいと頑張ってきた感情を涙という形でさらけて流し出し、喜びという感情を取り戻すという話だ。

私は泣くことはあまりない。そして自分探しという冒険に夢中になりすぎて、人に頼ったり必要に応じた助けを求めることがおろそかになることが多い。一種の弱さとみてしまうのだ。
それを弱さと思わずに人の力に頼ることも強さと自認できるとなれば良いのだが。

だからこそ涙とかそれを誘う類の感情を埋め隠して違う感情で乗り切ろうとすることがいつものデフォルトだ。そしてそれが溜まって大きな砂の山になった時、「ボロボロと」という擬音表現がぴったりすぎるくらいに何かが崩れていく時、私は涙を流す。

そしてその後は必ずといって新しいレベルのやる気と観点、小さな前進とともに自分探しという創作作品の新しい一章を綴ることができるのだ。

インサイド・ヘッドはそんな人間的な感情についての受容を素直にしていいんだよと再認識させてくれる。

今夜もしてくれた。

次見るときはどのような気持ちで見ることができるのか、その時が楽しみだ。

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