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分かり合えなくても、一緒に生きる:同居ネコ「ダヤン」 #キナリ杯

 こんにちは。 #キナリ杯 という試みがあることを知り、そんな最高のお祭りやるしかないだろ〜!と思って、これを書いています。わたしは普段、manatsuという名前でnoteを書いています。東京在住の会社員です。夢は、軽井沢に住んで本を読み文章を書いて暮らすこと!よろしくお願いします。

 この #キナリ杯 、「おもしろい文章」に賞が与えられるという試みらしいんですね。わたしが普段「おもしろい文章」だと思って読んでいるものってなんだろうな〜?と考えたら、「その人が偏愛しているもの」とか「人生のターニングポイント」とか、「その人の専門分野」みたいな話を聞けるのが興味深くて大好きだな。と思ったので、うちの同居ネコ・ダヤンについて書くことにしますね! よろしくお願いします。

うちの同居ネコ、「ダヤン」

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 うちのネコ「ダヤン」は、今4歳です。横田基地のすぐ近くの生まれです。末っ子で、おしゃべりです。「福生生まれだから、きっとネコの英語を喋っている」と実家では言われていました。大学時代の友人が保護し、生後約3ヶ月のときに譲り受け、しばらく実家で一緒に住んでいました。今の家にわたしと引っ越してきたのは2年ほど前です。二人暮らしと言っていいのか、一人+一匹暮らしと言っていいのか、あるいは二匹暮らしと言ってもいいかもしれません。飼い主とペットが親子関係に近くなるパターンや、「お猫様」と下僕関係になる向きもありますが、うちの場合は同居ネコ(同居人)っていう感じです。少なくともわたしは対等な関係を目指しています。

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実家にいたときは、先輩ネコ(アメリカンショートヘアーのくー、白ネコの国家)に可愛がられていました。

 名前の「ダヤン」は、池田あきこさんのキャラクター「猫のダヤン」からいただきました。わたしが幼少期大好きだった絵本かつ人生で最初に読んだレシピ本『ダヤンのミステリークッキング』に影響を受けています。拾ってきた当初は、実家の既存の白ネコ「国家」がインパクトあふれる名前だったため、今度は「財政」や「主権」になるのか? と友人たちがざわつきましたが、家に帰ってきて抱き上げた瞬間、「あー、これはダヤンだな」と思ったので、政治的ネームではなくなりました。

ダヤンは、ひも遊びが好き

 ダヤンと引っ越してから1年ほど経ち、おそらくひも遊びが非常に好きであろうということに気がつきました。ある日、プレゼントの包装に使って余ったひもをぶら下げたところ、ダヤンがただならぬ関心を抱いているように見えることに気がつきました。

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 あらまあ、ひもが気になるのかな、まあ放っておこう。と思っていたのですが、気づいてみたら、ぶら下げているひもを、ちょいちょいちょい、ちょいちょいちょい、ちょいちょいちょい、ちょいちょいちょい、ちょいちょいちょい、ちょいちょいちょい、ちょいちょいちょい、ちょいちょいちょい、ちょいちょいちょい、ちょいちょいちょいとやるのを、50億回繰り返していました。そんなに何かに夢中になることがあったとは知らなかったので、端的に「マジかよ」と思い、それからひもが手に入れば渡すことにしました。いろいろ試しましたが、特にクリスマスプレゼントの包装についていた太くてしっかりしている赤い伊勢丹のヒモがお気に入りのようです。ひもを手に入れてからは、しばしばわたしの目前に持ってきて、わたしに話しかけてくるようになりました。

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 ダヤンは、ひもをわたしの前に持ってくるわりには、わたしがひもを持ってパタパタさせても、すぐに飽きます。ひもはただ目の前におき、わたしに話しかけてくるスタイルを好むようです。わたしはネコ英語が分からないので、「そうかー」とか「今日は楽しかった?」とか、人間日本語で話しています。

責任を取ること、意思の疎通が取れないこと

 ところで、よく「ネコと一緒に住んでいる」と言うと、「えーすごい、私には生き物を飼う責任を取れるとは思えないので、無理」と言われることがあります。

 確かに、生き物と一緒に暮らすということは、定期的に病院に同行して検診を受けさせることであるし、少なからぬ敷金を今後ずっと支払うことであるし、長期間家を開けるのをためらうことなどの、様々な面倒なことの連続をこなすことでもあります。また、それだけの個人的負担があるにも関わらず、動物であるがゆえに人間の正式なパートナーとは認められません。何のことを彼らは「責任」と呼んでいるのかわたしには分かりませんが、確かにダヤンと一緒に住んでいて、わたしは自由ではありません。でも、「責任を取れている」とも思いません。

 ダヤンは、1歳くらいの時に、避妊手術をしています。一般的に、ネコの避妊手術は、家猫として飼う場合はしたほうがいいことだとされています。避妊手術をしないことは「無責任」と非難されることもあります。それでも、やはり「この個体が生殖をする自由をわたしが奪っていいのだろうか」と考えずにはいられませんでした。だけど、初めての発情期で苦しそうにしている(ようにわたしには見えた)ダヤンを目の前にして、「今後、うちから逃げることがなければ、ダヤンは生涯にわたって生殖する機会はないだろう。一方で、数日我慢してもらえばこの毎年の発情期はもっと楽になるわけだから、手術を施そう」と考え、動物病院に連れていったのでした。

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2017年2月、避妊手術をして家に帰ってきたあと、ずっとわたしにくっついていたダヤン。

 いくら普段ネコ英語と人間日本語で会話をしているとはいえ、ダヤンの本当のニーズはわたしには分かりません。ダヤンが本当は妊娠を望んでいたら、わたしが誤っている可能性があります。避妊手術をすることが「責任が取れている」とされるのはあくまで人間社会の掟なわけですから。その場合、ダヤンに対して「責任を取れている」と言い切ることはできるのか? ……そんなことを考えると、わたしは「責任が取れるから、一緒に生きている」と言い切ることはできません。

ダヤンは、ひっくり返る:「同居人」として生きる

 真面目なことをたくさん書いたので、ここでダヤンのひっくり返っている写真を載せます。

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ダヤンは、朝と夜、よくひっくり返っています。ベッドの上でひっくり返っていることが多いですが、床暖房をつけているときは床でもひっくり返ります。伸びをしているわけではなく、この形で固まっています。

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ひっくり返るのは、小さい頃からのクセのようです。

 ダヤンと暮らしていると、その毛のふわふわさ、鳴き声の可愛らしさ、頭を撫でた時に頭蓋骨を奥に感じること、尻尾の滑らかさ、伸びかけた爪が食い込んだ時の痛み、時々落ちているひげ、いびき、目がガラスみたいに綺麗なこと、光が当たると毛が虹色に見えることなどに感動を覚えます。一緒に暮らしていると部屋にいるのが楽しくなり、一緒に寝ていると希望のようなあたたかみを感じます。

 だけど、わたしはダヤンが何を考えているか、全然分かりません。もちろん体調が明らかに悪そうなときや、怯えているとき、苦しんでいる様子などは分かりますが、すべての気持ちが分かる訳ではありません。ダヤンに「愛しているよ」と人間日本語で言うと、ダヤンは「ほにゃ」とネコ英語で応えます。それが「うざいよ」なのか「自分もだよ」なのか「眠いよ」なのか、はたまた意味のない相槌なのかは、わたしには分かりません。ただ少しでもダヤンが穏やかに過ごせるように、わたしはこれからも一緒に暮らします。

 いま夜の20時前なので、そろそろダヤンが起きてくる時間です。ダヤンがいつものようにヒモを置いてネコ英語を喋りだしたら、わたしもいつものように人間日本語で返事をします。分かり合えなくても、一緒に生きます。できる限り対等な同居人として。

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