見出し画像

理想の入試制度とは: 受験を考える③

 現在の入試制度には批判も多く、頑張っている受験生ほど「これほどの苦痛が必要なのか」と思うに違いない。一方で、50前のおっさんからすると「あんな公平な試験は他になかった」と感じている。1大学教員からみた理想の入試制度を考えてみた。(小野堅太郎)

 スターバックスでこの記事を書いているのだが、アクリル板で仕切られたテーブル左右の受験生らしき若者が、必死に数学の問題を解き、もしくは日本史を暗記している。自分は大学教員になったこともあり、国語、英語、数学、化学、物理は大学を卒業してからもかなり役に立っているが、そうでない職についた人たちは「受験勉強は役に立たない」と感じているかもしれない。確かに受験勉強の内容自体は社会に出てあまり役に立たないかもしれない。

 とはいえ、日本史で習った古墳時代、特に前方後円墳の時代における倭国中央政権には興味があって、先ほど文化センターでのセミナーを受講したばかりである。前方後円墳は、私の仕事には役に立たないが、明らかに私の人生を楽しくさせてくれている。あの高校時代のバカみたいな日本史の暗記が、今の古墳趣味に大いに役立っていることは間違いない。興味のない平安、鎌倉、室町時代も少しは受験のおかげで知っているので、古墳時代から繋がるエピソードが出てきたりすると面白い。古墳セミナーでは、私より20ほど年齢の上の方たちと一緒に受講しているが、みんな歴史に興味があり、セミナー中も質問が相次いで時間がオーバーするのは当たり前、講師の先生はヘトヘトになっている。知っているがゆえに、空想が盛り上がって質問中に持論を披露して止まらなくなる受講者もいる。古墳時代を知らない人にとっては「何が面白いのかわからない」だろうが、我々は面白くてしょうがないのだ。

 受験勉強は「面白い」なんて考えている暇はない。徹底的に暗記術を駆使して知識を頭に叩き込み、技(公式)を駆使して難問を解答していく。苦手な科目、範囲を集中的に勉強して、薄く広く点を取れるように、嫌がる自分を抑えて、自分を無理やり勉強させる。ある程度やっていると急に「あ!」となって、それまでの自分の凝り固まった概念のせいで理解がミスリードされていたことに気づき、急に問題が解けるようになる。英語発音においてAは「ア」ではなく「エィ」だと、ローマ字から離れて「ABCの歌」で発音問題が正解できるようになる。そんなことを延々と繰り返していくとバラバラに思えていた別科目が実は繋がっていることに気づく。国語の現代文の読み取りは、基本的に英語の長文読解と解法が同じである。数学の解法テクニックのいくつかは、物理の問題解法にも使える。受験勉強という「苦行」がなければ、「学問は繋がっている」という当たり前のことに気づかなかったかもしれない。

 受験勉強がきついのは「競争」だからである。前記事の偏差値考察でも書いたが、「みんなが勉強していれば、自分が勉強しても偏差値は上がらない」のである。ゆえに、「サボれば落ちる」という、頑張る以外の選択肢が存在しないことによる。早く始めたもの勝ち、勉強できる環境を得たもの勝ち、の世界である。IQの高いもの勝ちというのもあるが、誰もが知る「ウサギとカメ」の物語で明らかなように、サボったウサギはカメに負けてしまう。ウサギは走り続けていれば勝てたのだ。でも、ウマと競争したら、ウサギも絶対に勝てない、ウマがサボらない限りは。

 スポーツの世界では延々と競争する。世界一を目指して競争する。世界一になってもずっと世界一であろうと努力し、競争する。受験なんかより過酷で長い期間、競争し続ける。スポーツだけでなく、将棋や囲碁の世界もそうである。それに比べたらビジネス界の競争は大したことない。社会に出たら「競争」はあるが、受験と違って「共存」がある。言い換えると、「住み分け」がある。1番になることは大切だが、2番でも、3番でも許される。収益があること、業績が伸びることが大事である。私のような研究者は、・・・ほとんど自己満足の世界である。たまに研究分野が競合して競争になることもあるらしいが、私の研究分野はあまり競争がない。研究者の世界、医療の世界はあまり競争がない。

 なぜ社会に出ると競争は弱まるのか。簡単である。みんな、きつくてそんなこと延々とやってられないからである。だから、スポーツ選手や棋士たちは、みんなから尊敬されるのである。社会に出ると公平な競争などなく、「目の前の結果」を出すために、みんなあの手この手の応酬である。ある意味(ずる)賢いものが勝つ、のである。しかし、勝つなんてのは一時的なもので、人生は長く続く。今負けても、明日は勝つかもしれない。ある分野で勝てなくても、別の分野で勝つかもしれない。受験の世界は狭くて学力だけで評価されるが、社会は選択肢が多くて無限の能力が発揮できる可能性がある。

 記事にまとめる前に「理想の入試制度」を考えてみたのだが、「現在は良くないので、変えなければいけない。」から初めてしまうと迷子になってしまった。新しい制度の選択肢が多すぎる上に、その問題点も次々出てくる。そこで視点を変えて「今の受験制度のいいところ」を考えてみたわけである。偏差値が重視される詰め込み型入試制度が、長年批判されているのに変わらないのには訳がある。「ある一定期間、苦痛に耐えて持続的に努力する能力があるか」を評価する指標の一つになっているからである。私が高校の時、二枚目で性格が良くスポーツ万能で成績上位の同級生がいて、人生で絶対勝てる気がしなかった。話してみると、ほぼ授業だけで理解しており、放課後の2−3時間の勉強で暗記系もクリアしていた。一般社会で彼に勝つ(優位に立つ)ことはほぼ不可能だが、死ぬほど勉強すれば彼と並ぶ、もしくは勝つことが現在の入試制度では可能である。つまり、現在の入試制度はIQの高くないほとんどの受験生にとって、努力と工夫により「逆転」を許してくれる「公平な」制度である。IQが高い受験生にとっても、ウサギとカメの事例からいっても持続的な努力が必要となる。新しい入試制度を考えても、「公平さ」という点において現行制度に勝るアイディアは出てこなかった。つまり、理想かどうかは置いておいて、新しい入試制度を考える上では「公平さ」を犠牲にする必要がある。

 学校推薦型選抜や総合型選抜(かつてのAO)は公平さをある程度担保した上での入試制度であり、高3夏以降の地獄勉強を人生である程度回避する選択肢である。指定校推薦ならば、高校生活の成績だけでなく生活態度等も考慮され、高校から推薦を受ければほぼ間違いなく合格できる。学校推薦型選抜は、勤勉な学生を大学は受け入れることができる。総合型選抜は、特殊技能や議論力、問題解決能力など学力以外の能力を評価される。学力の担保は共通テスト(かつてのセンター試験)の結果で低いラインで足切りされる。よって、学力偏差値は一般入試で入学してくる受験生集団よりは平均値は低くなる。学力以外の能力は訓練で多少は上がるが、生まれながらの特質に依存することが多いので、不公平感は出てくるだろう。小野がこれらの入試制度を「公平さがある程度担保されている」と考えるのは、事前に情報が公開されており、受験生が早くからこれらの選択肢を選ぶ時間が用意されているからである。勤勉もしくは学力外の能力の高い受験生は、これらの入試制度を早くから考えて利用するべきである。一般入試の受験生とは異なる苦労をしているので、一般入試の学生から不公平だと非難されるいわれはない。

 というように、現状の日本の入試制度は「公平性」において非常に良くできている。学力だけに依存しない学校推薦型選抜や総合型選抜の割合を増やすように文科省からお達しが出ているので、今後拡大していくだろう。受験生たちは「受験勉強はおかしい」と思うことがあるだろうが、「戯言言ってる暇があったら、勉強せい。」となる。受験を終えたものたちが「漢文や古文って社会に出て使わないよね。」とか「あんなに英語を勉強したのに英語喋れないよね。」とか受験生たちのやる気を惑わすことをいう。受験生にとっては戯言以外の何者でもない。漢文、古文、英語は重要である。漢文や古文は、日本の文化ルーツを学ぶ歴史知識であり、国際化している現社会では必須である。英語もまた然り。日本史や世界史もまた然り。これらの学習能力を比較しようとしたら、暗記型入試になってしまうのである。暗記型がいけないからと叙述的筆記試験を課すと採点基準が曖昧になり、受験生が最も嫌う事態になる。だから、入試制度は大きく変われない、変わらない、そして持続するのだ。

 隣にいた若者は日本史の暗記に疲れて10分ほど寝ていたが、先ほど起きて隣の友達とペチャクチャ喋り始めている。うーん、それでいいのか若者よ。私が座って30分経つが、日本史の参考書4ページ分を数回読み上げて重要単語に線を引くという10分程度の勉強しかしてなく、あとは寝てるかしゃべっているだけではないか。友達と一緒に勉強する利点は、教えてもらい、逆に教えるという相互的な学習にあるというのに。暗記をしたいのなら、参考書を閉じて暗誦テストを自分に課すべきではないのか。それをスターバックスでやるのはそもそも非効率ではないのか。ジジイが余計なことを喋りたくなったので席を立った。

 受験勉強がもっと社会に役に立つ方式に変われないのか、入試制度をもっと良いものに変えれないのか、といったことは受験生でなく、受験を終えたものたちが考えることである。入試制度は、その社会の文化の影響を色濃く受ける。アメリカやヨーロッパ、北欧の事例を参考にするなら、その国の文化を知る必要がある。地理や世界史が入試でもっと重要視されるようになれば、入試制度がもっとよりよくなるのではと、パラドックスを考えずにはいられない。自分の子供たちをみていて、30年前の状況とほとんど変わっていない受験状況には不安を感じた。社会はこんなにも変わっているのに受験は変わっていないのだから。では、どう変えるべきかと考えると「現制度はよくできている」というパラドックスにハマってしまった。なんとなくであるが、受験に問題があるのではなく、教育に問題があるようにも感じる。教える側が新しい社会に適応していなければ、教わる側は古い体質を引き継がざるを得ない。今の若者たちの受験苦行は我々年寄りの責任であろう。大変申し訳ない。

これまでの記事はこちら👇

全記事を無料で公開しています。面白いと思っていただけた方は、サポートしていただけると嬉しいです。マナビ研究室の活動に使用させていただきます。