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古代ギリシャ・ピポクラテスの歯科:歯科医療の歴史(紀元前③)

 さて、4大文明における紀元前3000年ほどの歯科医療・歯科医学の話をしてきました。歴史的資料が欠落した中での推測を交えた話です。これからは資料が増えてくるため、丁寧に1つずつ進めていきます。まずは、医学と言ったらヒポクラテス。九州歯科大学入り口(三号線前の正門)にギリシャ語でヒポクラテスの言葉が書いてあります。(小野堅太郎)

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 メソポタミアで生まれた科学・医学は、エジプトだけでなく近隣国に広がっていきます。メソポタミアは紀元前6世紀ごろからペルシア王国となり、オリエント世界の統一が行われます。一方、エーゲ海を挟むギリシャでは、紀元前508年、名門貴族出身クレイステネスがアテナイ(アテネ)に民主制都市国家(ポリス)を成立させます。紀元前499年から50年にわたるペルシアのギリシャへの侵攻への戦い(俗にいう、ペルシア戦争)を繰り広げ、和睦して終了する(映画「300」参照)。この戦争がもとで、これまで手を組んでいたアテナイとスパルタは仲が悪化し、ペロポネソス戦争へと発展します。ペルシア王国はこの内紛を影から支援するという、まあ、泥まみれの政治闘争が繰り広げられます。紀元前403年にアテナイはスパルタに破れ、徐々に衰退していきます(まあ、共倒れ)。こういった歴史資料は、毎回登場する歴史家ヘロドトスによるものです。

 その戦乱の中で、エーゲ海南東部に浮かぶ小さな島、コス島がありました。この時期のコス島はペルシア王国の支配下にあるのですが、ギリシャ神話に出てくる医神アスクレピオスの大きな神殿があるなど、古代ギリシャ文明下にありました。アスクレピオスの神殿はギリシャ全土に点在し、メソポタミア医学で紹介したように病人が集まって治療法を書いたものを奉納する神殿でした。つまり、この神殿には多くの治療法が集められ、それを学ぶものが「医者」となったわけです。現代に置き換えると、Twitterで投稿された民間療法を収集して、テキストマイニングで最適治療法を探し出すようなものです。これらを学ぶ学徒(アスクレピアーデン)のなかに、若きヒポクラテスがいたわけです。コス島の大神殿では無毒のヘビが飼われていて「舐められると病気が治る」と患者が押し寄せていました。ですので、治療法の情報が豊富なため、近隣に医学塾ができる様になり、コス派医学が誕生します。戦争という事件は、多くの医療を必要とする人たちを生みますので、医学の発展は必然であったと思われます。

 ヒポクラテスが活躍した時期(紀元前5世紀)は、ペルシャ戦争後のアテネ最盛期です。ソクラテスよりも10歳ほど年下だということです(Wikipediaより)。父ヘラクレイデスも医者で、父からの指導を受け、父の死後、生まれ育ったコス島を出て、エジプトを含めた各地を遍歴して医術を習得します。つまり、神殿の周りいるアスクレピアーデンの道ではなく、遍歴医(ペリオドイテン)の道へ進みます。その後は、息子や娘婿へ医術を伝えつつ、ギリシャ各地で医療を施します。そうして、ヒポクラテスの医術とその言葉は、古代ローマ医学(紀元後)の、ケルスス、ガレノスへと受け継がれていきます。

 この時期はソクラテスやプラトンに加え、エンペドクレスなど多くの哲学者がいました。エンペドクレスは、「すべての物質は、土、水、空気、火の4元素からなる」という説を説いた人であり、医者でもありました。これは、後に錬金術となり、化学の発展にへと繋がるのですが、これは医学にも持ち込まれたわけです。こういったソモソモ論は、各患者毎に症状の違いがある医療現場ではあまり役に立ちません。臨床医は、目の前の患者がすべてです。ヒポクラテスが凄いのは、こういった先輩のソモソモ論をあまり聞かなかったところにあります。「医療は患者にある」を徹した医術を行ったわけです。病気をそれまでのオカルト的(神の仕業、呪い)なものから自然発症的なものであるとし、患者を差別しない姿勢をとったわけです。これは医学史から見ると、「蛇に舐められたら」とか言っていたアスクレピオス神殿の状態を、より現代的な医療に進める大転換でした。

 ヒポクラテス自身は書物を残していません。ヒポクラテス全集(全55巻)というのは、死後100年後にアレキサンドリアで編纂されたものです(次回に解説)。医学倫理、流行り病の環境調査(疫学)、症状の詳細な観察が残されています。その中の「ヒポクラテスの誓い」が16世紀にドイツの医学校で使われるようになり、現在は世界中の医学部で学生たちが誓うようになったわけです。

 さて、ヒポクラテスは歯科については、どのような考え、対処法をしていたのでしょうか。ヒポクラテス全集の第54巻が歯科についてです。まず、7歳頃で乳歯が脱落し、14歳までに永久歯への生え変わり、22歳までに親知らずが生えてくると記載されており、歯科医師なら、おお!となります。2000年以上前ですからね。歯の本数、歯根の本数とか、乳歯の生え変わり時に歯肉炎が起きるなど、現代歯科医学そのままです。歯痛は虫歯でグラグラしてるなら抜いたほうが良いとしています。ここまではいいのですが、歯肉炎や歯痛は、悪液(粘液)が歯肉や歯根に貯留したためにおこるとしており、焼いたり(ヒー!)、よく噛むことで治るとしています。効果はかなり限定的かと思われます。顎が外れたときの治し方ですが、これは現在でもヒポクラテス法と言って、顎を下前方に引いてから戻すというやり方で、今でも歯学部で習います。「冷たいのは歯の敵である。」とも残しており、痛覚過敏か?と思います。

 「ヒポクラテスの誓い」からわかるように、誓いをしなければいけないほど、当時はかなり変な医者が多かったということです。エジプト・メソポタミア文明での医学書には「ルールの厳守」がありましたが、王家ではなく、民間医療を見渡してみると、ひどい現場をヒポクラテスは目の当たりにしたのでしょう。ここら辺の心理・行動は、九歯大の創立者國永正臣と同じでしょう。医学の実践を突きとうしたヒポクラテスは、後の古代ギリシャのインテリたちに名医として引用されていきます。

 最後になりましたが、九州歯科大学では、建て替え以前、コス島から船を使って運ばれてきた巨石が学内に置いてありました。そのわきには、コス島から分けてもらったプラタナスの苗が育ち、その巨石を覆っていました。すっかり忘れていましたが、大学改築の際どこへ行ったのでしょうか?探してみます。

 次回は、アリストテレスです。

(追記)

 よく見えるところにありました。本学のコス島の巨石とプラタナスの樹です。大学敷地内のど真ん中にあります。(2020/08/01)

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