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と思うことが常々ある。


「よかれ」と思っても相手に通じなければ
それは思いやりではないし
ただの「おせっかい」になる。

100人いや、10人、まわりにいたとして
それぞれ育ってきた環境や経験してきたことも違うわけだから
これが国民となると大変なことだと思う。

何かをおすすめするときでも
人に何かプレゼントするときでも
自分が「よかれ」と思ってするわけだし
逆に良くないものは勧めないのだろうと思う。

でも、思いやりの手前には「経験に基づく」ということがある。
痛い思いをしたことがない人には
「痛い人の気持ち」はわからないし
父親がいなくて育った子供には
「父親」が何かもわからないし
そこは想像でしかないんだよなあ。

何不自由なく育ってきたと思われている人でも
不自由なこともあるだろうし
不憫だ不憫だと育ってきた人も
心はとても豊かで幸せかもしれない。

何をもって思いやりというのか?
色々考えた結果、
私は相手に「どうしてほしい?」って尋くのが一番かなって思う。

思いやるに似ているけれど
「気が利く」人でありたいといつも思う。
気が利くというのは、先が読めているということだから。
それは普段のルーティーンなことの中で観察していればわかること。
「気が利く」ことは
思いやりの一種でもあるかもしれない。

例えばちょっとしたことだけれど
顔を洗っていたらタオルを出しておくとか
そういったことね。

話はそれるけれど
政治の世界にそうやって思いやりを持ってできる人は
一体どのくらいいるのだろう?
子育ての大変さ、介護の大変さ、
生活が困窮している人たちの不安、
また、一般的に健常とされない人たちの日々の苦労と努力など
国会議員の全員がそういう疑似的にでも
経験する機会があるといいのになあ。
自分が当事者となって経験したならば
また変わるだろうと思う。

結局は愛しかないな。愛な。
愛ってなんやろうな。笑

大変大変感謝申し上げます