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「めあて」と「ふりかえり」

 Twitterで、「めあてとふりかえりはいらない」という教師と、それに賛同する多くのコメント見ました。
 それで疑問に思ったのです。
 「いらない」という教師は、普段、どのように学んでいるのだろう、と。

 学習ではありませんが、私たちは、日常でも「めあて」をもって、その後に「ふりかえり」をよくしています。それは、ほとんどが無意識でしょう。
 例えばどこかへ行くとき、到着時間という「めあて」をもって「間に合った」とか「遅れたのはあれがよくなかった」などのようにふりかえっています。仕事なども、ほとんどが「めあて」と「ふりかえり」の連続です。

 そして同じように、私たちは、何かを学ぶときには、必ず「めあて」をもっています。それは、ほとんどが無意識でしょう。例えば、英語を学ぶ人も「うまくなりたい」という「めあて」がありますし、「会話くらいはできるようになりたい」とか「英検1級をとれるくらいになりたい」と考えているはずです。そうした学習のゴールを意識しないで、ただ英語を学ぶということはないはずです。
 ですから、「めあて」をもたないまま何かを学ぶというのは、私にはイメージできません。
 あるとするならば、強制的に学ばされる場合です。

 例えば、「漢字を100個覚えなさい」と強制された場合は、学習者の立場での「めあて」はありませんね。
 逆に、自分で「漢字を100個覚えよう」と思い立ったときは、それがそのまま「めあて」になります(「100個覚えること」が「めあて」となるか、疑問を持たれる方もいると思いますが、それは「めあて」の質の問題で、後述します)。
 つまりは、主体的な学習をするときには自然に「めあて」が生まれます。

 ですから、私たちが、自分で何かを学ぼうとするとき(主体的に学ぼうとするとき)、必ず「めあて」があります。
 「めあてはいらない」という教師は、子どもに学習を強制すると宣言するようなものです。

 そして「ふりかえり」も同様です。
 「漢字を100個覚えよう」と自分で主体的に学習を始めた場合、70個しか覚えられなかったら「70個しか覚えられなかった」と結果について必ずふりかえります。それもほぼ無意識にふりかえっているのではないでしょうか。
 そして「時間がなかった」とか「実際に書いた方がよかった」とか、学習の仕方などをふりかえることで、次は、よりよい結果を出すことができるようにもなります。
 「ふりかえり」がないと、次にも同じことを繰り返し、良い結果をだすことができません。

 私の私論ですが、小学校段階では、勉強ができる子はスポーツもできますね。これは無意識に「めあて」と「ふりかえり」ができるからだと考えています。

 そして「めあて」と「ふりかえり」にも、良い「めあて」と「ふりかえり」があり、悪い「めあて」と「ふりかえり」もあります。「めあて」の質です。

 私は、ずっとサッカーをやってきて、中学高校の頃は、小学生の指導を手伝ったりもしました。
 スポーツの世界では、「めあて」と「ふりかえり」の質が、上達に大きく影響します。
 例えば、サッカーのシュート練習で考えてみます。
 まず、最初にもつ「めあて」は、「シュートがうまくなること」でしょう。それは誰もがもちます。
 ところが上達できない子どもは、ただ、漠然とゴールに向かって蹴るだけです。
 上達できる子どもは、「強いシュートを打てるようになろう」とか「右隅を狙おう」とさらに具体的な「めあて」を持っています。上手くなる子どもほど、さらに細かく、ピンポイントでの「めあて」を持ちます。それが同じ練習時間でも大きく結果に違いをもたらします。
 そして「ふりかえり」です。上手くなる子どもは、狙い通りに行かなかったら、「足の当たる場所が悪かった」とか、「踏み込みが浅かった」と具体的にふりかえり、そして次にそれを修正できます。上達ができない子は、「次はがんばろう」など、具体的ではありません。
 コーチやチームメイトから、アドバイスをもらうこともありますが、自分で「ふりかえり」できる子どもは、そのアドバイスから、より質の高い「ふりかえり」ができるようになっていきます。そしてその繰り返しが上達につながります。

 大谷翔平選手や本田圭佑選手のような名選手は、試合後のインタビューでも適確によかった点、課題だった点を指摘しています。つまりは「ふりかえり」がうまいのです。
 授業のあとに、子どもたちにインタビューをしてみると、どんな答えが返ってくるでしょうか。

 このようにサッカーの練習などでは、すぐに上達する子どもは、必ず「めあて」を無意識にもち、「ふりかえり」を無意識に行っています。これが無いということは考えられません。
 それは教科の学習でも同じです。要る要らないで言うならば、必要です。
 それでも、無意識で「めあて」をもって「ふりかえり」ができているならば、わざわざ授業の中でやることは不要ではないか、と考える人もいるでしょう。

 それは、「めあて」と「ふりかえり」の質を高めていくためにも、必要だと考えます。
 サッカーの練習の例のように、質の違いが、その後の結果にかかわります。「めあて」と「ふりかえり」への教師のコメント、友達を参考にすることなどを通して、その質を高めていくことができます。
 それが「学習としての評価(assessment as learning)」にもつながるのではないかと考えています。

 余談ですが、学習指導要領にこの「ふりかえり」が位置付いたのは、平成19年版からです。総則編に「児童が学習の見通しを立てたり学習したことを振り返ったりする活動を計画的に取り入れるよう工夫すること」が明記されました。
 長く学習指導要領改訂に携わってきた方によると、ある意味、悲願でもあったそうです。平成元年版から入れる議論がありましたが、それができないままでした。やはり、学習指導の方法的な部分は現場に任せるべき、ということだったのでしょう。
 今は、算数編でも、13箇所で「振り返り」が出てます(指導要領は漢字表記です)。
 そういう視点で学習指導要領を見るのもよいのではないでしょうか。

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