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評価ってなんだろう3 評価についての備忘録

 評価について、書いてきましたが、評価の方法、評価基準など、まだまだ考えることはたくさんあります。
 そこで備忘録として、いくつか考えていることを羅列していきます。

満点主義と零点主義


 子どもの見方について、平野朝久先生は、おもしろい指摘をされています。

(ある看護学校の)その学生が担当した患者は、出された食事の五分の一くらしか食べなかったので、何とか少しででもたくさんとってもらおうと努力した。そしたらある時、その患者が半分食べたそうである。そこでそれを見たその学生は、思わず「あと半分ね。もう少しがんばって全部食べられるようにしましょうね」と言ってしまったのである。励まそうとして言ったのであろうが、その時、その患者は、ポツリと一言、「やっと半分食べたのに……」とつぶやいたのである。それを聞いたその学生は、ハッとしたそうである。

 平野先生は、この例から、外山滋比古の「満点主義」と「零点主義」という言葉を紹介しています。「満点主義」は満点を基準として至らないほうに目が向く見方、「零点主義」は零点もしくはこれまでの状態を基準として努力したほうに目が向く見方です。
 この看護学生は、満点主義で見ていたんです。患者が努力して半分食べたのに、その努力を評価しないで、足りない部分を指摘してしまったのです。

 同じようなことを斎藤喜博も述べています。長いので要約しますと、あるクラスに作文の上手な子どもAと苦手な子どもBがいました。Bは努力して5進歩しました。Aは2しか進歩していません。ただどちらが上かと言えばAのほうです。
 斎藤喜博は、Bの子を称賛すべきと述べます。努力した方に目を向ける零点主義での見方です。

 テストで30点だったりすると叱られますね。でも、本当に何も勉強しなかったら、0点です。少なくとも30点分は勉強しているはずです。それを認めるということも非常に大事だと思います。

ここまでこいこいの教育

 過去記事でも書きましたが、改めて紹介します。
 学習には目標があり、そこに到達することをねらって授業がなされます。中野重人先生は、それを「ここまで来い来いの教育」と表現し、それが子どもたちを苦しめているとも述べられています。

 それを僕の言葉で言えば、目標に揃える教育である。揃う子どもはいいが、揃わない子どもが困る。学校は、これだけを非常に重視するところに問題があるのではないだろうか。ここで元気が出ない子どもは、もう行かない。教室に入らない。そういう子どもが、いまわんさと出てきている。
(中略)
 この子どもたちを救うには、各教科の教育をいくら強調してもだめだと思う。ここまで来い来いの学校では、この子どもたちは救えない。お前らが元気が出るものもあるんだよ、お前らが元気が出るものは何だというものを学校の中の一部に取り入れなければいけない。生活科は、それに非常に近いと思うが、今度の生活科の延長線上にある総合というのは、そういうことを一つのねらいとする。ここまで来い来いではなく、どの子にもやる気と自身を持たせるようなことが学校でできないのか。

 評価には、「目標を基準とした評価(goal-based)」と「目標にとらわれない評価(goal-free)」があります。goal-basedの評価が「ここまでこいこいの教育」ですね。
 総合的な学習、これから求められる探求的な学びは、goal-freeの評価になるのだろうと思います。
 ここでは、活動をしっぱなしというわけにはいきませんから、自分なりの目標(めあて)をもつこともあるでしょう。ただ、そういう場合は、目標(めあて)が適切かどうかも問題になります。goal-freeの場合は、個々の目標(めあて)の適切さを吟味しながら学習を進めると言うことも必要になるでしょう。それは試行錯誤をしながら行ったり来たりするような学びとなるのではないでしょうか。

内申書はいらない

 評価を考える際にとても重要なのは、「人は成長する」ということです。
 上田薫は、「評価こそ人と人とのかかわりの出発だ」と言います。

 わたしはそれゆえに、教育評価においてとくに、評価は出発だ、いや正しくは中途だと強く主張しつづけてきた。俗見のように評価を終末とみるのは、人間がもうたがいに無関係になると宣言するようなものなのである。(中略)この評価は変化しますよ、これを一つの相対的な手がかりとして、みんなでこれからこの子のことをよくみてやってください―そういう柔軟で謙虚な姿勢を全く欠いて、これがこの子の正札だぞと断定的に評価を突き出してしまえる教師は、人間としてこわいなど、わたくしなどは思わずにはいられないということである。
(中略)
 評価はあとをひく。その意味で未完成である。その真実を忘れて一時の、しかもある立場からだけの評価を、あたかもレッテルのように人間にはりつけてしまうところに最大の過誤があるのである。

 「レッテル」とは、ブルームの言う「審判や分類の機能」「等級分けのプロセス」として評価を使っていることです。

 例えば、平均点が60点の数学のテストで30点だっとします。これでこの子は数学ができない子だと思ってしまうことがよくあるのではないでしょうか。
 でも、この子がテストの後に見直しをして、60点取れるようになったとすると、もう平均的な子どもです。見直しをすることで、テストの返却時には、もう変わっているかもしれません。
 極めて当たり前のことですが人は成長します。また、忘れもします。常に評価は変わり続けているのです。それを忘れて、ある時点の評価を、その子のすべての評価のように考えるのは、明らかに間違っています。
 内申書も、その評定をつけたときから、入試までの間に成長している可能性もあります。だから、内申書は意味はないし、いらないと思うのです。

 内申書は「主体性などの判断にも使う」という意見もありますが、主体性こそが、最も上下しやすいものです。単純な知識のように積み重ねていけるものではありません。ボランティアに積極的であっても、何かをきっかけにやる気がなくなるなんてこともよくあることでしょう。だからこそ、主体性の評価は形成的に使わなければならないと考えます。

長くなりましたので、以下、次回にします。

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